36 鏖殺(みなごろし)

《否、否、否――》

 肥えた巨体が震えた。

 笑っているのだ、と分かるまでには時間が必要だった。

 亜竜たちは圧倒的な優勢にあり、けれどオロトエウスの笑声は、そうと思わせないほどの不穏さを孕んでいた。それに急かされるようにして、次々と息吹ブレスが放たれた。火、硫黄、毒に稲妻。弾幕の中をくぐるように牙と爪、尾に棘とが、哄笑する喉を食い破ろうと襲いかかった。

 百を超える亜竜による飽和攻撃。

 いかに〈燼灰〉の息吹ブレスとて、それらすべてに応じるには足りない。

《我が天を這いまわる蛆どもよ》

 そのはずだった。

《燼灰と散りゆくはなむけに、我が真の名を聞くがよい》

 そのはずだった。

《至高の御名みなを魂に刻む、その歓喜とともに逝け!》

 そして――

 天地を断ち割る咆哮と共に、オロトエウスの全身から真紅の線条が飛び出した。

 青空を数多の断片に切り刻み、輝線の群れは『竜球』を作る亜竜の一頭一頭を射止めていた。軌道にあった者も、今まさに襲いかからんとしていた者も、その刹那、すべてが展翅されたように空に刺し留められた。

 亜竜の鱗は線が触れた場所から花の咲くようにめくれあがり、下からは黒く炭化した表皮が現れた。そこにひび割れが入ると、中から炎が噴き出し、体はまたたく間に火球と化した。それが百、同時に生まれ、黒煙を引いて地に墜ちていく。

 ホーミダルの澄み渡る晴天に、火と灰が降りしきる。

 天の炉が覆された。そう見えた。

 絶命の叫びも燃え尽きる、それは殲滅の光景だった。

『竜球』の陣形を外れた乗り手たちだけが生かされ、その目撃者にさせられていた。タニシャがごくりと喉を鳴らすのが、ネイの耳にはやけに大きく聞こえた。

 前言通り、竜は厳かに名乗った。

《我が名はオロトエウス。万里万物を灼き払う血汐――〈熱血燼灰〉のオロトエウス》

 息吹ブレスではない。炎ですらない。

 それは血なのだ。

 全身を覆う竜鱗りゅうりんの隙間から、オロトエウスは絶え間なく流血していた。降りそそぐ鮮血の雨は、眼下に広がる森を潤さずに燃え上がらせた。『熱血』――その雨の、竜血のしたたりの一滴一滴が、溶鉄よりもなお熱い、灼熱の液体であるからだった。

《ああ、……地が灼ける。天が灼ける。わが血を滾らせる懐かしき戦の薫香よ……!》

 オロトエウスは立ちのぼる黒煙を吸い込むと、解放した自らの力を味わうように声を震わせた。それを隙と見たか、乗り手の一人が亜竜の腹を蹴った。加速する亜竜。瞬時に、その背中に赤い輝線が追いついた。

《……戦場の興趣も解せぬなら、虫よ、せめて墓土の下で存分に伝令せよ》

 墜ちていく亜竜を一瞥もせず、オロトエウスは吐き捨てた。

鏖殺みなごろしだと》

 竜の憤怒は反乱軍を一人残らず焼き殺すまで止まらない。今度こそリウグノッグは地図から消え、残るのは焦げ跡だけになるだろう。一瞬の内にそんな想像をもたらすほどの怒りと魔気が、大気を張り詰め、震撼させていた。

 ひとたび口を開けば咽奥まで焼けただれるような気がして、ネイの舌はひどく乾き、口蓋へと貼り付いた。この場の誰もがそうだろうと思った。火を吸い込むのを恐れるようにして、誰もが言葉を失っていた。

 オロトエウスは悠然とした動作で、残る竜兵たちに視線を向けた。

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