32 嘘、約束、私の銀河

「……やめだ」

「ネイ」

「約束が、まだだ。私はアンタを大法院に連れて行くって言った。それをまだ果たしていない。だから、これは、……やめだ」

 槍を払って鞘へと収める。ネイが振り抜いた切っ先は、結局、ヨルの髪を数本散らしただけに終わった。彼女は最後まで、逃げることも避けることもしなかった。

 ヨルがため息をつきながら、まなじりを下げる。

「まったく。ぬしは、嘘が下手じゃのう」

 ヨルの言葉に重なって、何かが折れるような鈍い音が響いた。

 そちらに視線を向けると、

「まずい」

 ナザレが自力で『築泥ウォール』による拘束を抜け出すのが見えた。「祝福」による回復頼りで強引に関節を外したらしい。その顔は怒りを通り越して完全な無表情になっている。

「まあ待ってよ」

「殺す」

「悪かったよ、本当に」

「そう思うなら大人しく喉を出せ」

 抜き放ったナイフを手に淡々と近づいてくるナザレ。魔術でふたたび止めることは簡単だったが、そうすれば、本当に殺し合いになってしまう。もうその寸前ではあるが。

「待ってってば。とにかく、さっきので師匠がヨルにかけた記憶の封印が解けたはずなんだ。そうすれば、アンタの姉さんを、シアーシャを取り戻す方法が分かるかもしれない」

 魔術を切り裂く槍。ネイは『巨人の小指コヴェナント』を示しながら弁明した。今のナザレを止めるには姉の名前を出す他ないと思ったからだが、『巨人の小指コヴェナント』の力でヨルの記憶が戻りさえすれば、それも不可能ではないはずだった。

「そうでしょ、ヨル?」

 ふり返った先で、ヨルが首をかしげる。

「そう言われても、急に何か変わったかというとな……」

 自分の身体を矯めつ眇めつする。

「まあ、いつも通りの美貌じゃな」

「とぼけるな! 思い出せ!」

「親不孝なに殺されそうになったばかりなんじゃ。母をいたわってほしいのう」

 ヨルはめずらしく嗜虐的な笑みを浮かべた後、肩をすくめる。

「はあ。ぬしらは母遣いが荒くていかんぞ。ほれ、ナザレ。矛を収めよ」

 割って入ったヨルをナザレは睨みつけるが、それ以上は無意味と悟ったのか、大人しくナイフを仕舞った。

「……本当に姉さんを取り戻せると?」

 ヨルが胸を張る。

「うむ、できるぞ。母が別の肉体に移ればいいだけじゃからな」

「簡単に言うなあ」

「実際に簡単なんじゃよ。これまでは忘れておったというだけじゃ」

 完全に目覚めたヨルネルの魂は儀式などなくとも自在に肉体を移れるが、法院の場合には〈大地母竜〉の力を不完全に留めねばならないため、魂の継承に儀式が必要だったのだ。『呪い憑き』や『顕鱗者』のような生まれ変わりでは難しくとも、器となってひと月も経たないヨルの魂とシアの肉体は、完全には結びついていないという。

「姉さん……」

 ナザレは先ほどまでの取り澄ました表情を失っていた。

「とはいえ、移るための身体が用意できればじゃが……」

「私を見るなよ」

「ぬししかおらんじゃろ。ナザレは『竜還り』なんじゃし。ん? 母といっしょは嫌か?」

「嫌でしょ!」

 涙を浮かべたナザレがキッとこちらを見るので、焦って周囲を見回す。

「ちょっと待ってよ」

 何か身代わりを――

「そうだ。良い物がある!」

 ネイは鞄に手を突っ込んだ。

 取り出したのは木彫りの竜だった。今まさに飛び立たんと尾を伸ばし、膝をため、翼を広げた白竜。それは一人の少女が祈りを一心に込めた、〈大地母竜〉ヨルネルの神像だ。

「生き物じゃないだろうが」

「いや、これだけよく出来ていれば平気じゃろう。込められた祈りも十分じゃ」

 ほれ、と伸ばされた手にネイは神像を乗せた。

「ちょっと離れておれ」

 ネイとナザレが後ろに下がると、神像から金色の光がほとばしった。先ほどの『生命創造クリエイト』よりもはるかに強い光が部屋を満たし、ネイは目を細めた。

 やがて光が薄れていくと、そこには神像を手にした娘が立っていた。

 黒いひとみ以外、容姿も顔だちもそのままなのに、表情や立ち姿、それに放心したように立ち尽くすナザレに向けるまなざしが、ヨルのそれとはまったく違った。同じ姿形でも、内側の魂によってこうまで違って見えるものか。

 感嘆の思いでいると、神像が彼女の手の中からこちらへと飛んできた。

 鳥のようにネイの肩に留まると、像は口を開く。

「成功じゃな」

「そうみたいだ」

 やや甲高い声だが、ヨルだと分かった。

「姉さん……」

 ネイは隣のナザレを見る。

「……シア。シアーシャ……」

 いまだ呆然としたような声で、ナザレは姉の名を口にした。それを切っ掛けにしたようにナザレは足を踏み出したが、足取りはまるで雲を踏むように覚束なかった。

 彼女を見返すシアが微笑み、口を開く。

「リリー?」

 横顔がひとすじ、光った。


 バルコニーの欄干にもたれて立てば、頬を夜風が心地よく冷やした。姉妹の十三年ぶりの再会にいつまでも同席しているのも気が引けて、部屋を出てきたのだ。オロトエウスだけを住人とする帝城の敷地には光源が乏しく、帝都の窓明かりも城壁に遮られてここまでは届かない。お陰でバルコニーからは星がよく見えた。

 銀河。割れた硝子を敷き詰めたように、闇の中をのたうつ光の大河。紐解いた本は灰になり、教え育ててくれた師は死に、もう、それを測るための物差しは砕けてしまった。

 そして、とネイは腰から提げた柄に触れる。

 私は、師の望みを果たせなかった。

 約束を守れなかったのだ――

「私はどうすればいい」

 天を洗うその光に溺れられたらいいと願った。

 パタタ、と羽音がして、我に返ったネイがふり向くと、ちょうど欄干に影が降り立つところだった。後ろ足で手すりを掴むのは木彫りの神像。ヨルだった。

「話は終わった?」

「うむ。伝えるべきことは伝えた。後はしばらく二人にしておいてやるのがいいじゃろ」

「そっか」

「なんじゃ、深刻な顔をして。明日のことか?」

 小さな竜は首をかしげる。

「ああ……まあ、そうだね。ナザレは納得してくれたの」

「納得はしても説得はされない、という感じかのう。ま、それはシアの役目じゃ。あのも一部は母と記憶や意識を共有していたようだからの。上手くやってくれるじゃろ」

 帝城から〈大地母竜〉の姿が消えれば、明日の処刑が取りやめになり、タニシャを救う機会が失われるかもしれない。事情を聞いたシアは、一晩だけヨルのふりをすることに同意し、後はナザレの説得を残すだけだった。

「んむ。それで後は?」

「後はって」

 尋ね返しかけ、すでにヨルは分かっているのだと気づく。

「……そう。私は師匠の望みを果たせなかった。アンタを――殺すことがどうしてもできなかった。竜を殺せなかった。それなら私には何が残ってるんだ。私が持っていたものは、師匠が私にくれたものは……私は、私はどうすればいい……」

 静かに聞いていたヨルが、うむ、と唸った。「伝言がある」

「伝言?」

 唐突な言葉に戸惑うネイに、ヨルは咳払いをする。

「『それでこそ俺の娘だ』」

 ヨルの視線を感じた。こみ上げてくるものを押さえるのに必死で、何も考えられなかった。

 だから自分がどうなっているのか分からず、

「ところでそれは泣いておるのか?」

 ヨルに言われて知ることになった。

「泣いてるよ……バカ父さん!」

 しゃくり上げながらネイは叫んだ。ダミデウスはこの瞬間が来ることをずっと前から知っていたのだと、直感的に理解したからだ。

 なぜなら伝言は、ヨルが死ねば届かない。『巨人の小指コヴェナント』を使わなかった時にも届かない。

 ただひとつ、ネイがヨルを殺さず、『巨人の小指コヴェナント』で記憶の封印を破った時にだけ、この言伝は意味をなす。ネイが今のネイである時にだけ意味をなすのだ。

 だから、ネイがヨルを殺せないことは、ダミデウスの予測通りだった。彼はすべての竜を殺すという自らの信念を貫き、盤石の準備をした上で、そこから先をネイに手渡した。ネイが自分と異なる道を選ぶことを知りながらも、それでいいと言ったのだ。

 嘘をつかずに嘘をつくような、それはネイとそっくりなやり口だった。

 ネイは泣いた。頭の中のごちゃごちゃが、涙の形をとってあふれ出るようだった。

 悔しかった。腹立たしかった。何よりも、嬉しかった。

 師から認められたこと。娘と呼ばれたこと。ここまで自分を理解していてくれたこと。

 信じてくれていたこと。

「……アンタの言うとおりだ」

 せり上がる嗚咽を呑み込みながらネイは言った。

「なんじゃ?」

「訊いたよね。それが私の選択なのかって」

「そうじゃな」ヨルの相槌は淡々としていて、悔しいくらいに優しかった。

「うん。そうだよ。これが私の選択だ」

 口に出すことで、ネイは自分の心を測る。

「だけどこれは同時に、きっと約束でもあるんだ。これは師匠が私に与えてくれた道だから。私に靴をくれた。歩き方を教えてくれた。星の見つけ方を教えてくれた。だから、私の選ぶものはいつだって、何だって、ふり返ればそこに繋がる」

「そうじゃな。ダミデウスもまた、それを選んだ、ということじゃろう」

 息を飲んだ。ヨルはネイの知らない師の姿を知っているから、ネイがいつも見落としてしまうことに気がつく。師もまたネイと同じ一人の人間であったということに。

「なら、私が自分で選ぶことが、私たちの約束だ。それを私たちの約束にする」

 んむ、とヨルは唸る。夜風が吹いて、ネイの頬を冷やしていった。

「……愁嘆場は終わったか」

 そう声をかけてきたのは、窓際に立ったナザレだった。

「悪かったね」まだ熱い目をこすりながらふり向く。「アンタはほんと優しくないな」

「これまでお前は、私の優しさに見合うことをしたか?」

「それは……まあ、してないかも」

 ナザレは鼻を鳴らす。

「リリー」とその傍らに立ったシアが妹を咎めた。「いや……」と口ごもるナザレ。

 姉妹のやり取りを横目に、ネイは顔を上げて夜空を見る。光の河に手を伸ばす。掴めそうなほど近く、呑み込まれそうなほど遠い星々が、指の合間を滔々と流れていく。それをゆっくりと握り締める。

 師がネイに与えてくれた銀の物差しは砕け散った。

 だけれどそれは、もう一度、何度だって創り直すことができるのだ。

「父さん」

 ネイはつぶやく。これが私の約束。

 ――これが、私の銀河。

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