23 帝都ホーミダル

 ネイは幌をめくり、行く手を眺めていた。

 馬を休めるために停まった以外はひたすら走り続け、村を出て翌々日の夜明け前には、砂色の石壁が遠景に見えてきた。

 火明かりに浮かび上がった堅牢な石壁には、等間隔で見張り塔が立ち、竜弩弓の銛先が隙間なく突き出して空と地を睨んでいる。あるじの偏執をよく表した巨大な市壁の足元には、帝都の中心から文字通りはみ出してきた家並みが、岩にしがみつく苔のように並んでいる。

 いわゆる、ホーミダルの「外町そとまち」だ。帝都住民の半数は外町そとまちに暮らし、残り半分のさらに半分は壁の内側とを行き来して暮らす。実質としての帝都は、偏執的な君主の建てた市壁の内ではなく、外にあるというわけだ。

 その猥雑な町を左右に割って伸びた石畳の先に、雑多な群衆の姿がある。旅行者、商人、軍人や傭兵に詩人。貴族から乞食、学者から農民にいたるまでが、このときばかりは平等に夜明けの開門を待っているのだ。ネイたちの馬車も列の最後尾についた。

 御者台から下りたグクマッツがネイの前にやってくる。

「あたしは開門までそこら辺で話を聞いて回ります。知り合いもいるもんで、何か情報もあるでしょうや。お嬢さんたちはここで待っててくだせェ」

「頼んだよ」

「あいさ」

 そう言ってグクマッツは外町そとまちのほうに消えていく。頼りになる男だ。

 ネイが彼の背中を見送っていると、もじゃ髪頭がぽんと隣に飛び出てきた。

「わあ……」

 辺りを見回したアイリーが感嘆の声を上げる。

「すごいな」

「うん。お家がたくさん。人もたくさん」

 ああ、とネイは返す。馬車の外に広がっているのは、庵の書物にあった細密画どおりの風景だ。『帝都ホーミダルの生活誌』はオリゼビアの旅行家が著したすぐれた書物で、ネイのこの都に関する知識の大半は、その記述に由来していた。

 しかし、絵には奥行きも、音も臭いもない。

 馬、騎竜、山鶏コッカー。そのほかネイの知らない家畜たちの鳴き声と汗の臭い。夜明け前から起き出した者たちが立てる生活音。開門を待つ群衆に突きつけられる串焼きからしたたる肉汁の香りに、小気味よい売り文句。おこぼれを狙って足元を駆け回る犬たちの足音と荒い呼吸。

 どんな詩人もインクでは書き著すのに足りない。

 ここが大陸に名を轟かす千年の古都、帝都ホーミダルの玄関口だ。

「田舎者ども。目的を忘れるんじゃないぞ」

 背後からナザレの声がかかった。大法院の兵士である彼女は帝都の住人なので、当然二人のような感慨はないのだった。ネイとアイリーは馬車の中に上半身を戻した。

「そうだな」ネイは深く頷いた。「あっちの男が売っていたホンカケーキっていうのがなんだか調べないとな」

「ケーキだからあまいやつだと思う!」

「甘いやつ? それはまずいな、やはり一度調べる必要がある」

「殺すぞ」

 こちらを睨みつけるナザレ。

「ナザレ、わるいことば!」

「うるせえな。なんでお前は私だけ呼び捨てなんだ」

「わるいやつだから」

「私が何をしたって言うんだ」

「うーん……わるいことば言った?」

「それじゃ堂々巡りだろうが」

 子どもの喧嘩が始まったので、ネイは改めてナザレの言う「目的」を考える。

 ナザレとネイに共通するのはヨルを取り戻すこと。

 ネイの目的はもうひとつ、タニシャを処刑から救い出すことだ。

 このためにナザレが提案した作戦は恐ろしく大雑把で、つまるところ、二人が大法院に忍び込んで強奪するというものだ。工夫も何もあったものではないが、道中それ以上の妙案は浮かばなかった。一度逃げられた以上、ヨルの警備は厳重になっているはずで、こちらの残りメンバーは七歳児とうさんくさい行商人だ。どうやってもこれしかない。

 二人の優位は、ルマンの報告を受けた大法院が、二人を死んだものと思っていることだ。死者を警戒する者はいない。

 さらに、法院は処刑予定のタニシャが「逃げ出す」のを警戒しても、「奪われる」とは想定していない。なにしろ彼女が『呪い憑き』であることを知る生者は法院側を除けばザイルだけだ。ふつうの見方をすれば司祭である彼も法院側であり、彼女を助け出すどころか、彼女の処刑を知っている人間は誰もいないことになる。

 優先順位の問題もある。〈大地母竜〉の巫女と『呪い憑き』の少女。法院にとって後者は、「どうせ殺す」存在でしかなく、警備の優先順位は当然、タニシャのほうが低くなるはずだ。

 しかし、タニシャの『呪い』は、法院が操るあらゆる魔術を無条件に無効化できる。大法院を敵に回すのに、これほど有利な力はないはずだった。

 先にタニシャを助け出し、その力を借りてヨルを助ける。

 ネイのこの修正案には、作戦上の利点にとどまらない意味があった。

 ナザレがタニシャの救出に協力せざるを得ないことだ。提案した時にナザレが顔をしかめるのはネイの予測通りで、しかし、気が荒くとも愚かではない彼女が筋の通った作戦に結局は従うというのもやはり、予測通りだった。

 そして、とネイはひそかに思う。それはタニシャにとっても同じことが言える。

 これは助けを拒むタニシャを助け出すための方法でもある。

「お嬢さん!」

 そんなことを考えながら七歳児と『敬虔』の兵士との言い合いを見ていると、グクマッツが戻ってきた。幌をめくり上げた彼の顔には焦りが浮かんでいた。

 二人も喧嘩をやめ、こちらに視線を向ける。

「どうしたの」

「――公開処刑です」

 グクマッツは勢い込んでそう言った。

「明日、時計塔前の広場で『呪い憑き』を処刑する。傀王殿がそう宣布したってェ話で……」

 ホーミダル君主、〈灰王〉ニスバルド・アングール。〈燼灰〉の操り人形である男は心ない国民たちから、大陸共通語における同音で、嘲笑を込めて〈傀王〉と呼ばれる。

「だけど、なんでニスバルドが? タニシャは法院に連れられて行ったんだろ」

 激しい舌打ちに、ネイはふり返る。

「ルマンの野郎だ!」

「どういうこと」

「法院を裏切りやがった」

「〈燼灰〉の旦那についたってェことか」

「そうだ。元々〈燼灰〉と帝都の大法院は折り合いが悪い。リウグノッグの大火の時に奴が滅茶苦茶したからな。ルマンはそれを分かってて、『呪い憑き』と巫女を手土産に〈燼灰〉側に寝返ったんだ。大方、見返りに侯爵位でも貰うつもりなんだろ」

「だけど〈大地母竜〉を奪われたら法院だって引っ込みがつかないでしょ。いくらオロトエウスだって、法院全部を敵に回すのは分が悪すぎる。法院にはアルカイッテだっているし、ロートリエウスだって味方につくはずだ。兄弟で殺し合いになる」

 リッツガドルの君主〈大敵〉ロートリエウスは、オロトエウスと父が同じだ。竜はすべて〈大地母竜〉を母に持つから、二頭は兄弟ということになる。リウグノッグ併合をはじめとした侵略的な姿勢をとる兄と、領国に法院の聖地を擁し、信仰と調和を重んじる弟ではそりが合わないのも当然で、兄弟仲は芳しくないという。

 ゆえにこのままいけば〈燼灰〉は、法院――大陸全土の亜竜軍だけでなく、自らと同格である二頭の竜までも敵に回すことになる。戦闘力と獰猛さでは五頭の中でも随一と言われる〈燼灰〉でも、それはあまりに分が悪い賭けに思えた。

「たしかにそうだが……」

 ナザレが唸る。

「それ、それだァ」とグクマッツが言った。「それでさァお嬢さん! リッツガドルですよ」

 グクマッツの興奮がネイには理解できない。どういうこと、と言いかけ、

「明日は何の日ですか?」

 あ、と思う前に、事態に一人取り残されていたアイリーがここぞとばかりに叫ぶ。

「ほくちんさい!」

「ご名答!」グクマッツが指さすと「わあ……!」と無邪気に喜ぶアイリー。

 グクマッツは自分の言葉に頷きながら話す。

「いねェんですよ。ホーミダルには、いま。大法院のお偉方はみーんな〈北鎮祭〉に出かけちまってるから。亜竜だってそうでしょうや。〈燼灰〉の旦那にとっちゃァ狙い目だ」

『人竜大戦』の終結を祝う法院最大にして大陸最大の祭り〈北鎮祭〉。聖地で行われるその大祭のため、高位司祭は既に大法院を発っている。気まぐれなアルカイッテもこの時ばかりは駆り出され、そして彼らの護衛のために、亜竜の多くも帝都を離れている。

 それは法院の目を盗んで〈大地母竜〉の巫女を手に入れるには――法院に反旗をひるがえすのには、間違いなく絶好の機会だった。

「よく頭の回る野郎だ」

 ナザレが憎々しげに吐き捨てた。彼女の言うとおり、おそらくルマンの変心は、〈北鎮祭〉直前という特殊な状況すら考慮に入れたものなのだろう。あの池のほとりでヨルを見つけた瞬間にここまで考えたのだとしたら、恐ろしいほどの機敏さだった。

「しかし公開処刑の狙いが分からねェ。タニシャさんを表に立てて何の得がある?」

「そうだな。『呪い憑き』はむしろ秘密裏に処理するべきだろう。でなければ私たちにルマンの裏切りが気づかれることもなかったんだ」

「いや……そうじゃないんだ」

 ネイはつぶやいた。口に出すと一気に視界が広くなった気がした。

「考えてみてよ。ルマンが法院に何も報告していないなら、法院はルマンがヨルを連れ帰ったことも知らないはずだ。もちろんタニシャのことも。だから、私たちが死んだと思ってるルマンにしてみれば、大法院はどうやったってオロトエウスの反逆に気づきようがないんだ」

「だが、だったらなおのこと公開処刑の意味が分からないぞ」

「いや、意味はあるんだ。法院の信徒もそうでない者たちも『呪い憑き』を恐れてる。『敬虔』のアンタならそのことはよく分かってるよね」

 ああ、と戸惑いながら答えるナザレ。

 ザイルの言葉と、双子の少年たちの顔がネイの頭には蘇っていた。

 根拠のない迷信を信じ込んで我が子を捨てる親たち。『呪い憑き』の恐怖は、大陸じゅうの心に、百年が過ぎた今もなお深く根を張っている。

「じゃあ、そういう人たちの前で、本来異端審問を行うべき法院じゃなく、帝国が――ニスバルドとオロトエウスが、百年ぶりの『呪い憑き』を見つけて捕らえ、処刑したら?」

 ナザレが舌打ちをする。

「……法院の権威は地に墜ちるな。公開処刑で上手く煽ってやれば最高だ。ホーミダル大法院はこんな重大時に祭りにうつつを抜かしている連中ばかりだ、とかな」

「それだ! それでもしも、法院なりロートリエウスなりが激発すれば、オロトエウスには戦争の大義名分すらできるってことになる」

「戦力は〈燼灰〉と〈洞〉の二柱だけだと思って攻め込んでくりゃァ、後から〈大地母竜〉が出てくるってェ訳ですかい。如何にも〈燼灰〉の旦那が好きそうなことじゃねェの」

 うん。とネイは頷いた。絶望的な思いが込み上げる。ことは大陸全土を巻き込んだ巨大な反乱へと向かいつつある。こちらのメンバーは半人前の竜狩りに法院を裏切った『敬虔』の兵士、胡散臭い行商人に七歳児だ。どうやってそんなものに立ち向かえるのか。

「だが失敗だ」

 ナザレがそう言った時、ごおおお、と辺りに地鳴りが響いた。

 帝都の門扉が開く音だった。眠っていた動物が目覚めたように活気が広がり、人々が動き出した。市壁の向こうを目指して人波が動き出す。

 それを尻目にネイはナザレを見た。

「失敗?」

「そのままだ。その計略を考えたのがルマンと〈燼灰〉のどっちだろうが、馬鹿なことをしたもんだ。その〈大地母竜〉の巫女は偽者だ。選ばれた器ではないし、二回目の儀式も行ってないんだからな」

 ナザレは鼻を鳴らす。

「結局、状況は同じだ。巫女を取り戻すのが法院から〈燼灰〉相手になっただけだ」

 ナザレの言葉を聞いてネイはグクマッツと目を合わせた。

 彼がうながすように頷き、ネイは口を開く。

「おいテメエら!」

 ネイの言葉を遮ったのは怒声だ。そちらを見れば、立ち往生しているこちらの馬車のせいで、後続の馬車が何台も詰まっていた。御者の一人が「さっさと進め!」と怒鳴ってくる。

「お嬢さん、とりあえず中に入りましょう」

「そうだね。頼む」

 グクマッツが御者台に走っていった。

 三人は荷台の床に腰を下ろした。馬がいななき、間もなく馬車が動き出す。

 ナザレの視線を感じながら、ネイは揺れに身を任せた。

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