12 全部殺す

「おはようございます。いま起こしに行こうかと思っていたところでした」

 タニシャがふり返る。食堂にはかぐわしい匂いがただよっている。

「おはよう」

「今朝はなんじゃ!」

「簡単なものですが、山鶏コツカーの卵で作ったオムレツです」

 ネイが聞けば、山鶏コツカーとは村に来たときに見た鳥だった。オムレツというのはその卵の料理だという。野菜や茸が混ぜられて、焼き目のついた黄金色の卵と合わせて目に鮮やかだった。焼いたパンが添えられている。

 タニシャが皿をテーブルに並べていると、子どもたちも後からやってきて席についた。

「ザイルは?」

「司祭さまは早くから村に呼ばれていて、もう出かけられました」

「そうか。挨拶をしておくんだったかな」

 全員が揃ったところで、ネイが尋ねた。

「じゃあワシがその分食べられるということじゃな?」

「おばあちゃん食いしん坊」

「あはは」

 ザイルの代わりにタニシャが食前の祈りを捧げた。

 ネイはオムレツに匙をつける。黄金色の塊を崩すと、ふわ、と香りがふくらんだ。口に運べば卵はとろりと甘く、大きめに刻まれた野菜の歯応えが際立つ。

 うまい。

「ベーコンが入っておるんじゃな。これは燻製か」

「そうです。特製なんですよ。ナンシーたちにも手伝ってもらって」

 そんな会話を交わしながら食事を終え、食後の祈りの後で子どもたちに別れを告げた。中でもあの双子は「おばあちゃん」との別れを惜しんでいたが、最後にはタニシャに説得された。

 タニシャと三人で竜屋ねぐらを出た。来たときよりずっしりした背嚢を担いで村を抜けていく。結局ヨルも一回り小さい背嚢を持つことになった。タニシャのほうは軽装だ。

 まだ日は低いが、畑では農作業、川に面した水車小屋からは粉挽きの音が聞こえてくる。子どもたちは山鶏コツカーとの追いかけっこや石蹴りで遊んでいる。活気ある村だった。

 タニシャが向かったのは昨日来たのとは逆方向の森だ。多少は通行があるのか、踏み固められた道が続き、朝靄にかすむ木立もまばらだ。一時間ほどで行く手は斜面になり、森も深く密集し、道自体も獣道と呼ぶのが相応しくなってきた。

「この辺りまでは、村の人たちもあまり来ないんです――お二人とも大丈夫ですか」

 道はすでになかなかの勾配になっており、タニシャはたびたび二人をふり返った。村人たちが来ないのも納得ができた。やがて斜面が切れ、目の前に景色が広がった。

「これは――」

 青い水面だった。

 光の具合ではなく、水それ自体が青く染まっている。

 差し渡し二十メートルほどの池に湛えられた、サファイアのような鮮烈な青。流れ込む川が周りにないことを考えれば、湧水か、あるいは雨期にだけ池となるのか、まるで意図して人目を避けたかのような秘密めいた光景だった。

 だが、ネイから言葉を奪ったのはその美しい池ではなかった。

 池の向こう岸にそり立つ露地から白い塊が覗いていた。おおきな頭蓋骨に、そこから長く連なる脊椎、肋骨、下顎骨を乗せた前腕骨、下肢骨、戸板めいた肩胛骨。それらが一部は元の位置関係をとどめつつ、一部は崩れて山になりつつ、そこにあった。

竜遺物レムナント……」

 それは遠い昔に滅びた古竜の骸だ。

「悪くない死に様じゃな。ワシも死ぬならあのようにありたい」

 ヨルが言うとたとえ話ではなくなるのだが、自らの腕を枕にしたその格好は、眠りにつく前の心地よさをたしかに連想させた。

 竜遺物レムナントの多くはリッツガドルに産する。それは『人竜大戦』の終結地がリッツガドルの北部山脈であり、激戦地もそちらに集中しているからだ。死に様だけでなく、南部辺境という土地から考えても、老衰か病か、すくなくとも戦死ではないのだろう。

 タニシャが「座りませんか?」と二人を誘った。おあつらえ向きの倒木があった。ネイが荷物を下ろして腰掛けると、タニシャとヨルが両隣に座った。

「毎年、雨期が来るたびにすこしずつ見えてくるんです。そのたび池の水が青くなります」

 あるじの死後も残る魔術か、骨から流れ出した魔力の仕業か。理由は定かではないが、各地に残る古竜の骸は、その強大な力によってさまざまな魔術的超常を引き起こす。池の水を青変させるくらいのことは起こるだろう。

「昔から知っているんだな」

「はい。わたしの大切な場所です。悲しいことや、嬉しいことがあったとき、特別なときはいつもここに来るんです。誰にも言えないことでも、ここでなら口にできるような気がして。もちろん、独り言なんですけどね……」

 古竜の骸を眺めながらタニシャは言う。

「でも、そうすると、大切なものはあるんだって思えます。わたしは、わたしの信じるものを信じていていいんだって、思えるんです。わたし――わたしはこの村から出たことがなくて、だから生きている御竜を見たことがありません。亜竜だってないんですよ?」

 おかしいですよね、とタニシャは寂しげに笑った。見たこともない相手を崇めるだなんて。

「そんなことはない」

 とっさに否定の言葉が口をついた。タニシャの視線を受ける。それで、ネイは彼女の中に自分と同じものがあると思った。書物でも、師の教えの中でも、くり返し「それ」を「その時」を想像してきた。けれどネイが亜竜を見たのは、ヨルと出会ったあの時が初めてだった。

 タニシャを見て、自分には信仰と呼べるものはないと思った。しかしそれは間違いだったのかもしれない。彼女が竜に崇敬を抱くように、ネイは竜に殺意を抱きながら生きてきた。

「私たちは、見たことのないものばかり信じているんだな」

 人の心を縛り動かすものはいつも目に見えない。だから自分の中のそれを確かめ直すために、タニシャにはこの青い鏡面が必要だったのだろう。

 それなら、私には何が必要なのだろうか。自問するネイの隣でヨルが言う。

「ワシはあるぞ」

「どう……思いましたか」

「なんてことはない。人間と同じ、ただの生き物じゃよ」

 ヨルは言い切る。〈大地母竜〉たる身からすれば、それが正直な実感なのかもしれなかった。

「すまぬが、ワシは法院の信仰とは無縁でな。おぬしにとっては不愉快かもしれぬが」

「いえ、そんなことはありません。法院の教義は寛容と友愛ですから。辺境には御竜や〈騎手ライダー〉様を嫌う方も沢山います。お二人はホーミダルの大法院に向かうんですよね?」

 タニシャに目的地を告げたことはなかったが、向かっていた方角と「法院の密使」という役割から考えれば想像は難しくないだろう。「そのつもり」ネイは首肯する。

「では、オロトエウス様に拝謁できるかもしれないんですね」

 とっさに返せなかったのは、ネイとタニシャではその名前が持つ意味が違うからだ。

 幼いネイが竜を見たことがあるかと尋ねた時、ダミデウスはあると答えた。

『ああ。ホーミダル、オリゼビア、リッツガドル、リウグノッグ。それぞれの首都で空を見上げるだけでいい――君主とはいえ、玉座でじっとしているような連中じゃない。謁見はむしろ〈騎手ライダー〉のほうが難しい。あとは一頭、法院の竜がいるが、奴は俺も数回しか見たことがない。他の四頭と違って国土には縛られていないし、気まぐれな性格だからな』

 長い答えを切って、師は付け加えた。

『――残りたった五頭だ』

 全部殺すの?

『いつかはな。俺か、お前が。お前が弟子を取ればそいつが殺す。それで足りなければ、その弟子が殺す。何百年かかろうと、誰かが成し遂げる』

 全部殺しちゃったら、国の人たちはどうするの。それで生きていけるの?

『生きていけるさ。いや――すべての竜が死んだとき、俺たちはそのとき初めて、自分たちの足で生きていくことになる。それこそが裏切りへの、せめてもの償いになるだろう』

 よくわからない、と答えるネイの頭をくしゃりとかき混ぜ、師は言った。

『覚えておけ。お前が殺さなければいけないものの名前を』

「〈燼灰〉のオロトエウス……」

 師が第一に挙げた名をネイはつぶやく。

 大陸に君臨する五頭のうち、ホーミダルの君主たる竜。火のように赤いその王は、ネイの故郷を焼いた張本人でもある。郷愁さえ思い出せない故郷のことで今さら恨みがあるわけもなかったが、だからこそ、もっとネイの芯に近いところで、それは殺すべき敵の名前だった。

 竜も亜竜も、この世からドラゴンを狩り尽くす。それがネイの知る師の人生のすべてであって、師がネイに与えたもののすべて、つまり、ネイが持つもののすべてだったからだ。

 ふと、タニシャの視線に気づいて、ネイは物思いから覚めた。動揺を気取られないように、直前の会話を遡って言葉を繋ぐ。

「ああ――そうだね。そういうこともあるだろうな」

 ネイは視線だけでヨルを窺った。特に表情に変化はなく、ひそかに安堵する。

 六頭目――そんな連想が自分の中にあったことに、気づかれたくなかった。そして、気づかれたくないという自分自身の気持ちもまた、さらなる動揺を呼び起こした。

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