第5章 とことわの埋み火

第38話 たまさか

 和歌に込められた人々の思いは、現代を生きる私たちにも通じるものがある。四季の移ろいを敏感に感じる心や、叶わぬ恋、哀愁などの感情は共感を呼ぶ。だから昔の人の生き方を知ることは、現代に生きる私たちにとって生きる上での支えとなる。


 逢はずとも恋はできることを、月華は和歌から知った。文字や声だけのやりとりで、妄想の芽は十分に育つ。未だ逢はざる人の姿を思い、理想が形づくられていく。


 今宵の相手はDMで知り合った。ここでえっちなのしてるから送るね、スクリーンショットで読み込めるコードだよ、スマホでQRコードを読み込んでほしいなと、誘いを送った。九十パーセント以上はブロックされるものの、餌に食いつく竿はいる。実年齢をぼかした嘘つきは、蛍光色のジャンバーを脱ぐ。


「月華ちゃんの手は冷たいね」


 心の冷たさを見定めているような気がして、月華は無言で笑みを作った。待ち合わせ場所をラブホテルの前に指定する時点で、一夜きりの恋を楽しむ気は削がれていた。


「そっちこそ顔色が悪いよ。温め合いっこしようか?」


 着ているものを一枚一枚見せつけながら、月華はガーターベルトだけの格好になる。肌を締めつける黒色に、男は溜息を落とす。月華の太ももを撫でた後で、傍らのボトルを開けた。とろみを帯びた液体が、男の手の平に注がれる。


 べたつきのあるローションを、月華は好まなかった。接合部をつたい、月華の下半身を舐め回す感触がした。不快さが顔色に表れかけたとき、男はベッドに横たわっていた。自身にまたがることを催促する。


「準備できるまで、待てできたね。ここに腰を下ろして。お利巧さんにしていた子猫ちゃんに、ご褒美をあげるよ」


 月華が上に乗ったとき、男は愉悦していた。主導権を意のままに使い、腰を打ち立てようとした。


「騎乗位、疲れるだろ。腰を痛めないように、僕が動いてあげる」


 捕食するつもりが、狩られることになるとは思わなかっただろう。形勢をひっくり返されたことが分かり、男の顔は歪んだ。先に果てないよう、両手でシーツを掴む。軽やかに息を上げる月華に対し、男の余裕は描き消えていた。月華は白い歯を見せる。


「言ってなかったよな。愛想よくしていた方が食いついてくれるから、猫被らせてもらったよ。あぁ、もう気を失っちゃったか。フリータイムで部屋を取らなくてよかったな、おにーさん。いや、十歳もサバを読んでいたから、おにーさん呼びは違うか」


 まだ二時間も残っているよと、月華は独りごちた。体を軽く流し、部屋を離れる。アカウントが作り直されていることを、男はいつ気づくだろうか。通路ですれ違ったカップルに、月華は不敵な笑みを返す。すっぽかされたのではない。パッケージの違う商品を捨てただけだ。


 フロントの時計は十九時になっていなかった。日は高く、ネオンはまだ夢の中だ。ソープやマッサージ店が連なる通りを抜けながら、近場の店を調べる。にんにく入りのラーメンが美味しい店があったはずだ。画面を操作していると、誰かに凝視されている気がした。

 歩きスマホを注意する熱血漢じゃあるまいし。うっとうしいと顔を上げれば、駐車場の縁石に青年が座り込んでいた。


「よぉ。ほんとに一時間足らずで出て来るとか、男のプライドをえぐるなぁ。起こしてあげないと、街で鉢合わせたときに修羅場だぞ? ただでさえお前のことは噂に上がって来やすいんだ。一応、先輩として心配してあげているんだぜ?」


 精算は前払いで男が払ってくれたが、ガラステーブルの上に月華の料金を投げている。吸殻を捨てるときに嫌でも目につくはずだ。


「あんたには関係ない」


 月華は歩みを止めなかった。馴れ馴れしく話しかけた人物は、松屋巽巳だった。高校の先輩であり、不本意ながら大学でも縁は続いた。元彼という二文字だけは、記憶から抹殺しているつもりだ。


 巽巳は月華を追った。


「一年ぶりか? ちゃんと顔を合わせて話すのは。お前の家に行くといつも留守だから、すげぇ久々な気がする」

「母さんに会ったのか?」


 反射的に巽巳の肩を掴んでしまった。


「抱かせてくれたら教えてやる」


 無理。別れたあなたのことなんか、これっぽっちも興味がない。告白されたから付き合ってみただけだ。突き放そうと思えば、いくらでも言葉の候補があった。


「今日は帰って」


 まだ好意があると匂わせる言葉を放つ。この期に及んで嫌われるのが怖かった。


「強気になってもいいことないぜ。疼きが治まってねぇだろ。生理前のお前は、ちっとやそっとじゃ満足できないの、俺が身をもって知ってんだからさ」


 巽巳は月華の頬を撫でる。唇が触れると思ったとき、月華は泣き出したくなった。


 どうして、こんな人を好きになったのだろう。一時でも愛した自分を、気持ち悪いと感じた。太ももに垂らされた、ぬめり気のある液体のように。


「キスだけはやめてくれ」

「いろんな男に体を触らせているのに、変なことを言うんだな」


 強引に体を寄せる巽巳に、月華は唇を手で覆った。キスは特別だ。どれだけ肌を重ねても毎回違う味がする。


「そんな単純な問題じゃないんだよ」


 雰囲気に身を委ねてしまう体の火照りから、月華は目を背けた。


 痛いのも、苦しいのも、怖いのも嫌だ。一人でいるくらいなら、昔の男と過ごす方がいい。そんな心の声は聞こえない。

 ラブホテルのシャワーで、自分の弱さを全て洗い流して来ればよかった。


 拒む月華に、巽巳は興味を失ったらしい。


「抱かせてくれねぇんだったら、ダチんとこで遊んでもらうわ。人肌恋しくなったら呼べよ。俺はいつでも予定を空けてやるから」


 余計なお世話だ。月華は声には出さずに睨みつける。年明けに就活を控えているとは思えない。

 巽巳の去った道と逆方向に進んだ。


「恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長くと思はば」


 巽巳が包み隠さない物言いを直していたら、月華は惹き込まれていた。だが、三ヶ月を過ぎると長続きしないことは分かり切っている。後腐れしない相手と一夜を過ごしたいのは、月華も同じだ。


「いい加減、こんな生活を終わらせないといけないんだけどな」


 上辺だけの恋を受け入れる自分に腹が立つ。すぐに幻滅されると分かっているのに、求められる手を振り払えない。他人の彼氏を奪う優越感に浸りたい訳じゃない。相手から近づいてくる。言い訳のように聞こえるだろうが、略奪するつもりは一切なかった。二十歳になって間もなく「経験豊富って聞いたけどマジ?」と好奇な目を向けられたとき、月華は小首を傾げて微笑んだ。


「本当だったら、どうしたい?」

「この後、飲みに行こうぜ」


 月華は自分が作れる最高の笑顔を浮かべた。相手の喜ぶ顔が見たい。逆上されないように、月華が身につけた処世術だ。

 巽巳につけられた恋の傷は、誰と寝ても癒えなかった。


 ほととぎすの鳴く季節に、あやめも知らぬ恋をした。電車の窓縁に置かれたメガネを、暁夫あきおが忘れかけていた。


「お忘れ物ですよ」


 咄嗟に腕を触った月華を、暁夫は温和な目で見下ろした。半月形に開いた口から、聞き返してしまいたくなる細い声が放たれる。


「うっかりしていました。ありがとう」


 巽巳には出せない声色に、月華は暁夫の印象を改めた。

 顔を合わせるのは、十七時五十八分の電車の中だった。いつもヘッドフォンをつけ、月華が隣の席に座っていても目をつぶっていた。縦縞の入った紺色のスーツと、磨き上げられたあめ色の靴が恋慕を抱かせる。煙草の匂いは好きではないが、暁夫の吸う銘柄だけは例外だ。


 月華が一方的に好意を寄せていた関係は、その日から一変した。互いの持っている文庫本を交換し、感想を語るようになる。暁夫の移り香を目論み、当たりそうな距離まで肩を近づけた。


 色に溺れた日々で見つけた、手の平ほどのスノードーム。ひっくり返しすぎて落とさぬように、月華は勢いで抱かなかった。かすかに混じる若白髪を愛おしいと感じていた。

 実は平たい強化ガラスで、内部にはひびが入っていたことを、半年後に思い知らされた。

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