第32話


「ヒサシ。お前まで呼ばれてんのかよ」


 大野おおの裕也ゆうやはヒサシ君に掴まれた手を、ぐいと引いて引きはがした。

 ヒサシ君は鋭い視線を向けた。

 大野はそれを受けて立つがごとく、睨み返す。


「なあ。これ。何してんだよ」


 ヒサシ君は淡々たとした声で言う。


「は? 何って?」

「とぼけんなって。どう見ても普通の状況じゃねぇだろ」


 はっきりと刺々しい口調。

 当たり前だ。大野おおの裕也ゆうやの下には苦悶に満ちた顔を背けている山瀬やませさんがいるのだから。

 だが彼は平然とした顔つきで、首を左右に振った。


「あ、あー、これのことか。お前、勘違いしてるわ」

「勘違い?」

「そう、勘違いだ。しねーよ。するわけねーだろ」

「わけわかんねぇ……。この状況。言い逃れできるとでも思ってんのかよ?」

「はは! ははは! だーかーらー! 勘違いだって言ってんだ」

「なに笑ってんだよ! マジで意味わかんねぇって!」

「イキんなよ。だからよ。本気でヤルわけねーだろ。アホかよ」

「じゃあ、なんでユウヤ君の下には山瀬やませがいて! 時枝ときえだはボコボコにされてんだ! おかしいだろ!? ちゃんと説明できんのかよっ!?」


 何を言っているのか理解することができないヒサシ君は、声を荒げて問い詰める。


 しかし大野おおの裕也ゆうやは本当に疑問を感じているかのように。キョトンとした表情をするだけだった。


「ヒサシ? お前のほうこそ何言ってんだ?」

「何って、この状況のことだろっ!」

「だからよ。こんなとこで最後までやんねーって言ってんだよ。とりあえずひんむいて、写真撮るだけだ。逃げられねーようにしとかねぇと後で面倒だろ?」


 そして、さも当然であるかのように大野は続ける。


「心配すんな。後でちゃんとホテルに連れてくから」


 僕は彼が何を言っているのか理解できなかった。唖然と聞いていることしかできなかった。

 それはヒサシ君も同じだった。

 ただ呆然と立ち尽くしていた。


 普通の感覚の人間なら異常と感じるであろうことを、大野おおの裕也ゆうやはさらりと言ったのだ。

 一瞬後。ヒサシ君の雰囲気が一気に変わった。

 怒りを通り越し。呆れたような。蔑むような。いままで見たこともない眼をしていた。


「狂ってんな。お前」


 言うが早いか。少し腰をひねったヒサシ君は流れるような動作で拳を放った。

 正確に大野おおの裕也ゆうやの顔を狙っていた。

 しかしその拳は、顔に当たる直前で大きな音を立て手のひらで止められた。

 頭上の木々が風で大きく騒めいた。

 暗闇は、よりその濃さを強めている。

 視界はかなり悪いはずだった。

 だが大野おおの裕也ゆうやの運動能力の高さ。そして反射神経は十分に機能し、ヒサシ君の攻撃を的確に阻んだ。


「チッ!」


 不意打ちをいとも簡単に防がれてしまったヒサシくんは、サッと後方にステップ。距離を取った。

 すぐさまその反動をバネのように使う。

 右足を引いて、左脚を軸とする。グンッと踏み込んだ。

 見様見まねの即席で出来る動きではなかった。返す刀のごとく、蹴りが放たれる。

 ビヒュッ。風切り音が聞こえるほどの速さをもった蹴り。

 だが体格の大きな大野おおの裕也ゆうやにとって、スピードに乗った蹴りであろうとヒサシ君の攻撃は軽かったのかもしれない。

 片手をあげる。くるりと内側に回していなす。

 ヒサシくんの鋭い蹴りは、その勢いの方向性を簡単に変えられてしまった。


 痛みと揺れる視界。まともに身動きすることができなかった僕は、そんな二人のやり取りを見ていることしかできなかった。

 そして絶望に近い恐怖も覚えていた。

 この状況の中で。何が最も恐ろしかったか。

 それは大野おおの裕也ゆうやが今やっと、ゆらりと立ち上がっていることだ。


 ヒサシ君の流れるような早さで放たれる拳も蹴りも。いままで片膝をついたまま対処していたのだ。

 中学時代。ケンカ三昧だったと言っていたヒサシ君。

 だが大野おおの裕也ゆうやの対戦相手としてはまったく通用していないということくらい僕だってわかってしまう。


『あれはある意味モンスターだ』


 以前ヒサシ君が言っていたことは本当だった。ケンカ慣れしているからこそ、このモンスターの強さを昔から理解していたのだ。


 ふらつく頭で考えながら、僕は両肘をついて匍匐前進のような恰好で山瀬やませさんに近づいた。

 二人がやり取りしている最中、やっとのことで彼女に手が届いた。


 芝生に転がったままの山瀬やませさんは身を丸くし、小さくなっていた。

 うっうっ。怯えたような嗚咽が聞こえた。


 ――何があっても彼女を守らなければ。


 強い意思が湧いた。

 残念だがヒサシ君でさえこの状況を打破することは、十中八九無理だと思えた。それは彼もわかっているはずだ。

 それでも大野おおの裕也ゆうやに立ち向かうべく、睨みあっている。

 僕の力は弱く、この場では無力に等しい。彼女のために何もしてあげられていないことが悔しい。

 だとしても、これ以上山瀬やませさんを辱めること。それだけは許すことができなかった。

 なら、僕ができることは――。

 僕は彼女の手を取り。優しく握る。

 この手を離さないことだ。

 命を懸けてでも、山瀬やませさんをこの男に渡すことはしない。 

 もう覚悟はできていた。

 僕が握った手を。本当に少しだけ山瀬やませさんは指先だけ動かし握り返した。


 大野おおの裕也ゆうやは様子を窺うように首をコキコキと右に左に動かした。

 不気味に佇んでいた。


「ヒサシ? これ、どういうつもりよ?」


 やけに明るい声音。

 それがむしろこの男の底の知れない残酷さを表しているかのようだ。


「昔は、こんなことするヤツじゃなかった。かっこよかったじゃねーかよ」

「さあなぁ? 知らねぇよ。お前が勝手にそう思ってただけじゃねぇの?」

「……マジでそれ言ってんのかよ」

「お前だって人のこと言えんのかよ。いままで一緒に色々やったじゃねぇか。時枝ときえだをいじめるのだって一緒にやったろ。俺とお前の。何が違うってんだよ?」

「やりたくてやってたヤツなんているわけねぇだろ……。ユウヤ君が怖くてみんなやってた。わかってたろっ! そんなこと!」

「そりゃ、俺くらいになればなぁ。ルックスも。頭脳も。金も。全て持ってる俺だ。みんなの憧れ! だったら俺に従うのなんて当り前だろ」

「俺はそんな奴と一緒にいたくねぇんだよ。なんだよ。なんなんだよ。いつからそんな風になっちまったんだ? やっぱり山瀬やませか? 時枝ときえだに対する嫉妬か? それがそんな風にさせたのかよ?」

「は? 時枝ときえだ? 俺が嫉妬? こんなヤツに? ちげぇよ。山瀬やませとヤルって決めた。それだけだろ。バカかよ」

「俺よ。そう言う奴が一番嫌いなんだよ!」

「ははっ! そりゃ残念だ!! だがよぉ! 女とヤリたいのは男ならふつーの事だろ? お前だってヤレるならやりてぇだろが? だったら俺はどんな手を使ってでもヤル。それが俺のやり方だ!」

「犯罪者と同じだろそんなの!」

「たしかに庶民ならな。犯罪かもしれねぇ。でも俺は捕まらねぇんだよ。何しても大丈夫なんだ。特権階級ってやつだ!」

「このクソ野郎ッ!」


 ヒサシ君は身体をかがめ小さくなった。一気に大野おおの裕也ゆうやの懐に潜り込む。芝に食い込むほどの力で踏み込み、鋭く殴りかかる。


 おらっ!気合の入ったヒサシ君の声。本気のケンカが始まった。

 だが、大野おおの裕也ゆうやはその大柄な体を軽々と動かし、ヒサシ君から繰り出される攻撃を驚くほどの身軽さでひらりひらりと躱していく。

 ヒサシ君の攻撃の隙をついては、力強い一撃がドスンと降り注ぐ。

 それをガードして防ぐヒサシ君だったが、体が浮き上がるほどに吹き飛んでいた。

 圧倒的に手数の多いヒサシ君。だがそのほとんどは決定的なダメージを与えられずにいる。対して大野おおの裕也ゆうやの攻撃は、数こそ少なくとも的確にヒサシ君を捉えた。

 その一撃一撃は重い。

 ガードしていてもダメージは確実に積み重ねられ、次第にヒサシ君は直撃を食らい始めた。

 押されているのは僕の目からも明らかだった。


「……ペッ!」


 大野おおの裕也ゆうやの拳が頬をかすめた。ヒサシくんは唾を吐きだす。


「……ったく。さすがだわ。まいったぜ」

「ヒサシィ……。もう『ごめんなさい』じゃ済まねぇからな?」

「んなこと言うわけねぇだろ。バカか?」

「はははっ! いつまで強がれんかなぁ? 時枝ときえだと一緒にお前も死んどけ!」


 大野おおの裕也ゆうやはぎりっと拳を握り締める。気合を入れるようにして、その拳を手のひらにパアンッと打ち付ける。


 片足を前に出し腰を落とす。ボクサーのようなファイティングポーズをとった。

 そろそろ決着ケリを着ける気だと、その場の空気がひしひしと伝えてくる。

 ヒサシ君も身構え徹底交戦の気概を見せた。

 その時だった。


「おい! 誰かいるのか!」


 大きな声と共に、ふらふらと揺れて定まらない一筋の光がこちらに向けられた。

 次いで、ざっざっと足早に人影が近づいてくる。それにつれ光は大きくなっていく。


「そこで何してる!」


 光が僕たちを照射した。

 まぶしさに目を細めた視界にその人の着ている服がちらりと見えた。

 水色っぽいシャツ。帽子をかぶっていた。

 その人の後ろから、もう一人駆け足で近づいてくる人影が見えた。

 その人影は光を遮るように僕たちの前に躍り出る。

 そして叫んだ。


亜未あみっ!!」


 背後からライトに照らされたその人の顔は真っ黒で判別はできない。

 でもその聞き慣れた声に。明るい髪色に。

 僕は安堵をした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る