第18話

 ヒサシ君と別れ家に帰ると、すぐにベッドの上に身を投げた。

 時計は18時を回ったところだ。


 いつも通り、華子も母親もまだ帰宅していない。

 静まり返る家の中、鳴りやまない心拍の鼓動だけが耳にうるさく響いた。


「……山瀬やませさん」


 何が何だか。どうしたら良いのか全くわからない。

 ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理するように思い出す。


 僕のためにユウヤ君とデートの契約を交わした……?


 しかも、そんなことまでしてくれた山瀬やませさんの心を逆手にとって、ユウヤ君は自らの欲望を満たそうとしている……?


 ヒサシ君の言葉だけでは、『あくまで可能性がある』というレベルを超えない。

 それはわかっている。わかっているのだがわざわざユウヤ君がその事をヒサシ君にほのめかしたことを考ると、彼の裏の顔を知っている僕としては、その可能性を完全に否定することはできなかった。


 ともかく、もし山瀬やませさんに危険が及ぶようなことがあるならば、それは絶対に止めなければならない。


 だがしかし。だからといって……僕にいったい何ができる?

 それが実際問題として立ちふさがり、僕を悩ませていた。


 ユウヤ君と山瀬やませさんがデートをするのが土日だと限定されていたとしても、時間も場所も僕にはわからないのだ――。

 ならば尾行でもするか? と考えたが、それはすぐに却下された。


 学校帰りならそれも可能かもしれないが、そもそも二人の自宅を知らない僕には土日に彼らの所在を把握することはできない。

 というかそれって尾行という名のストーカーだろ。


 ならば山瀬やませさんに直接連絡してみるかと閃いた。

 でも僕の知らないところでユウヤ君とデート契約を結んだ山瀬やませさんになんて言えばいいんだ。

 危険なことがあるかもしれないからデートはやめろって言うのか?

 そもそもの原因を作り出している張本人の僕が?

 既に何度もデートは重ねているはずの彼女にか?


 つまるところ――僕にはどうにも打つ手がなかった。

 だからどうにもしようがない。

 後は流れに身を任せるしかない。それしかない。

 そう結論付ける他に選択の余地はなかった。


 ぼんやりと天井を眺めていた視線を両手で覆う。

 真っ暗になった視界の中で、結論付けた答えに自分自身を納得させるべく、「仕方ない。これは仕方ないことなんだ」と何度も何度も繰り返して頭の中に刷り込みを行った。

 けれども、


「……ははっ」


 目の裏に浮かぶ山瀬やませさんの笑顔と共に、乾いた嘲笑が零れた。

 その笑いでふと我に返る。

 自身をあざ笑うその声で。


 そして我ながら情けないため息が胸の奥のほうから込み上げてきた。

 大きな音を立てて口から吐き出した。

 それはねくり回していた理屈や隠そうとしていた本心を伴う。


 本当は怖いだけじゃないか――。

 

 その言葉が否が応でも体中に充満していくのを感じた。


 山瀬やませさんが僕のために契約的なデートをしているなんてやめさせたい。

 彼女の身に危険があるなら尚のことだ。

 けれど、もしユウヤ君と山瀬やませさんの契約が最後まで遂行されなかった場合、僕はまた以前のような扱いを学校で受けることになってしまうかもしれない。


 僕はそれが嫌で仕方がない。

 だから言い訳を探している。


 対策するすべがない。出来ることがない。

 そうやって必死に言い訳を探している。

 時間や場所がわからないだとか、山瀬やませさんに連絡しても取り合ってくれないだとか、自分の都合の良い想像を勝手に膨らまし、出来ない理由を作り出している。


 山瀬やませさんに対する僕の想いは、はっきりと理解しているつもりだ。

 でもどこかで、むしろ本心としては、このまま自分の身を守れたらいいなと、思ってしまっているのだ。


 何ならヒサシ君から聞いた話は嘘か冗談に過ぎないんじゃないのか、犯罪まがいの事なんて、いくらユウヤ君でもするわけないじゃないか! とすら考え始めている。


 そうやって一生懸命自分自身に言い聞かせている。

 そうであってほしいという願いを、自分で思い込もうとしているだけだった。


 僕は、自分が可愛くて仕方がないし、いつも逃げて、逃げて生きてきた。

 だけど、だけど――。


 それの何がいけないって言うんだ――?


 歯向かったところで、どうせまた痛めつけられるだけだ。

 結局何の解決にもつながらないし、どころか事態は悪化するだけだったじゃないか。


 いままで何もできなかった僕だ。

 今回だって何か行動を起こしたところで、そうなるに決まっている――。

 そうに決まっている!


 そうやってやっとのことで自分の身を守る論理を整えた。感情を押さえつけた。

 しかしまさにその時だった。


 ベッドの足元にチリチリとした光が舞った。

 その光は下から上にいくつもの細かな螺旋を描き、きらきらと凄まじい勢いで集約していく。

 それは数秒にも満たないくらいのごく短い時間。

 光の螺旋の束の美しさに視線も心も奪われた。

 そしてその光は、久しぶりに見たアイツに変化した。

 ミライだ――。


 ミライは僕を見つけると、とてもほっとした表情を見せた。


「……ああ。よかったぁ」


 そして何故か。がくりと首を垂れた。


「ミ、ミライ……ひさしぶりだね……」


 軽く手を上げて挨拶をした。

 それが今の僕には精いっぱいだったのだが、そんな僕にミライは厳しい目を向けた。


「ひさしぶり? じゃないでしょ!? 来たかったけど、これなかったんだって!!」

「へ……?」

「まったく! せっかくすっごい情報教えてあげたのに! 自分のことなんだから! ちゃんとしてくんないと困るんだけど!」

「な、なんだよ。いきなり……。なに怒ってんだよ……」

「もうさぁ、しげちゃんが想像以上にダメダメで私ちょっとげんなり中だから! これ以上イラつかせないで欲しいんだけど!」

「……は? なに? なんなのいったい……」

「ねぇ。じゃあさ……山瀬やませさんと付き合うっての、どうなった? ちゃんとやってた? やってないよね!?」


 迫る様に言うミライ。

 そうだった、ミライが僕に最初に言った事はこれだった。

 正直、あまりに現実味のない話だったために言われたことすら忘れかけていた。

 というよりも、現状を考えると不可能を通り越して馬鹿げてすらいる。


山瀬やませさんとは、こないだLAINでやりとりはしたけど」

「ふーん……で?」

「で? ってなに……?」

「恋に発展してるのかってこと」

「今度買い物行こうって話にはなってる」

「そんなことは聞いてない。恋愛のこと」

「……どうもこうもなるわけないだろ……。相手、山瀬やませさんだよ?」

「だから?」

「だから、って……あのさぁ……」


 だめだ。リアリティが欠けまくった押し付け話にうんざりしてきた。

 それにミライの態度がやたらと横柄なこともあって、いら立ちが募る。

 ついつい言葉はきついものとなった。


「こんな僕と山瀬やませさんが付き合えるとか本気で思ってるわけ? 君、本当に馬鹿じゃないの?」


 最後の言葉は余計だとはわかってはいたけれど、口から滑り出てしまった。

 僕を取り巻く現状を考えればこれがいかに荒唐無稽なことであるかは明らかだと思えて仕方なかったのだ。


 当然、ミライの目は鋭い光を灯した。


「は? 山瀬やませさんの気持ち教えてあげたじゃん。しげちゃんのこと意識してるって」

「そんなの……信じられるわけないだろ」

「……ふん……どうせ何もしてないだけでしょ」


 いつものふざけた感じはどこにもない。僕を容赦なく責め立てる。

 何よりも、決めつけるような言い方が癪に障った。


「何もしてない……? はは……君が来ない間に何があったか、僕がなにしてたか知らないくせに! ああ、そうだ。女神なら知ってんだろ? 今どういうことになってるのか、言ってみろよ!」

「知らないよ」

「言ってること矛盾してんだろ」

「知らないものは知らないって言ってるだけ」

「あれぇ? なに? どうしたのぉ? 女神様はなんでも知ってるんじゃなかったのかぁ?」

「ったく……聞いてた通りだね……めんどくさ……」

「めんど……っ!? な、なら……いつもみたいに消えればいいだろ! とっととどっかいけよ!」

「…………ほんとさぁ……はぁ……」


 感情任せにいきり立つ僕に、ミライはあきらめを含んだような深いため息をついた。

 ……なんだ? なんなんだ?

 突然現れた(それはいつもだが)と思ったら、罵声を浴びせるようなことばかりを言う。今日のミライはいつもの感じとは明らかに違った。


 こんな言われようをしたら、僕だってつい言い返してしまうというものだろ?

 ただ、ミライは僕にイラついているというだけでなく、何かに焦っているような感じもあった。


「わかった、わかったって……。ごめん。私も悪かった。いまどうなってるのか、もう少し詳しく教えて。……上手くいってはいないと思うけど」


 それもあってか、ミライは素直に軽く頭を下げ謝った。


 僕としては釈然としない気持ちは残ったままだった。が、知りえない情報を知っていたこともあるミライだ。

 山瀬やませさんとユウヤ君の契約デートの件、それにヒサシ君が言っていた『ヤル』件について、もしかしたら何か情報が得られるかもしれないと考えた。


 ミライが来ていなかった期間にあったこと、特に僕がユウヤ君に歯向かったことを話した。

 謝罪したことや下僕のような扱いだったこともだ。

 そしてそれが改善されてきた現状。そして、


「実は今、山瀬やませさんがユウヤ君と契約的なデートをしているらしくて」


 と話した時だった。

 いままで何ともなく聞いていたミライは、

 

「やっぱりそういう事になってるのか」


 大きく首を横に振って、やるせない顔を見せた。


「他にもあるでしょ?」


 ミライは当然その先があることを知っているかのように、話の続きを促した。


「えっ? あ……うん……なんて言えばいいんだろ……」


 ヒサシ君から聞いた山瀬やませさんの身に起こるかもしれないこと、それをはっきりとした言葉で表現するのをさすがに躊躇ためらっていると、ミライはさらりと言った。


大野おおの山瀬やませさんを襲う。違う?」

「……へ!? な、なんでそれ知ってるの!?」

「そっか、やっぱりね……。私はね。しげちゃんが何をしてたとかは知らないけど、これから起こる結果は知ってるの」


 なんだって? 結果を知っている?


「それはつまり……えっと……どういう事?」

「言葉の通りだよ」

「いや、だってそれはおかしいよ。結果って未来の事……だよ? それを知ってるって意味わかんないんだけど」

 

 ミライは山瀬やませさんがユウヤ君に襲われることを、可能性としてではなく、断言をしている。

 誰も知りえるはずのない未来の出来事をだ。


 僕ですら完全否定はできないとしても、「はい、そうですね」と鵜呑みにすることなどできるはずがないことを。


 いぶかしむ僕にミライは今まで見せたことのないまっすぐな目を向けてきた。

 怖さを覚えるほどの強い光りが宿っていた。


「しげちゃん。その契約デート。最後の日に大野おおのは無理やり山瀬やませさんを襲うの。だからそれ、絶対に止めて」


 断固とした口調。

 これだけは譲れないという意思がこもっていた。

 あまりの強い口気こうきに少し怯んでしまった。

 

「……でも、もし仮にそうだとしたって、止めるって……そんなのどうやって止めるんだよ」


 事実として立ちふさがっている問題を提起しただけのつもりだった。

 だがミライは呆れたような顔を一瞬した後、すぐに表情を一変させた。

 険しい目つきで容赦なく食い掛ってくる。


「どうやるって? なんでもやりようあるでしょ!? 何を呑気なこと言ってんの!? 山瀬やませさんこのままじゃ大野おおのに襲われちゃうんだよ!?」

「ま、待ってよ……。ユウヤ君は確かに裏の顔はある。けど、そこまでするかどうかなんて、わからないじゃないか!」

「だからわかるんだよっ!!」


 ミライは大きな声で僕を怒鳴りつけた。

 その凄みにびくりと体が震えてしまった。

 ミライは首を大きく振ってはぁとため息をつく。

 

「あぁ、情けない! ほんと情けない……!! ここまでとは思ってなかった!」

「な、なんだよ……! なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ! 僕にだっていろいろと事情ってものがあって……」

「言い訳ばっかじゃん! そんなこともわかんないのっ!?」

「な……っ! ぼ、僕だって必死に頑張ってきたんだ。痛い思いだってしたんだ!」

「だからなに!? それがなんだっていうの!?」

「お前になんかにわからないってことだよ! 僕の気持なんて!」

「わかんないよっ! わかりたくもない! あんたの気持ちなんて!」


 普段は愛らしい笑顔が特徴的な彼女だが、いまは感情に任せるままに顔を紅潮させ目は見開いていた。

 それほどに僕に対しての怒りを露わにしていた。

 それはわかっていたけれど、僕だって頑張ってきたんだ。

 その思いが子供みたいに拗ねた僕を作り出していた。

 でもミライはそんな僕からも逃げず真っ向から言ってくれる。


「でもね……。でもね……」


 その目には微かな涙が浮かんでいた。


「しげちゃんがいま何もしなかったら……後で絶対に後悔するの……。それだけはわかってるから……」


 悲しそうに声を震わせそう言ったミライは、すこしの間を取った。

 そして「ふう」と息を吐き出した。

 僕に顔を向けると、その時には既に普段の表情に戻っていた。


「……私が間違ってたんだよね」


 消え入りそうなくらいに細く小さな声で、ミライはそうつぶやいた。

 その言葉の意味はわからなかったけれど、僕もそれにつられる様にして息を吐くと、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。


 ミライは唐突に聞いた。


「ねぇ、今日って、何日?」

「……23日、だけど……」

「そっか。じゃあ、教えてあげる。帝国プリンス。大野おおのの父親がひいきにしているホテル。今週末の土曜、二人はそこにいく」

「帝国プリンス……それって超一流の?」

「たぶんそれ……。ホテルのレストランで夕食をとった後、山瀬やませさんは部屋に連れ込まれる。そこで大野おおのに襲われるわ」

「へ……? 嘘でしょ……。知ってるホテルの名前を適当に言っただけだよね……?」

「そう思うならホテルの前で見張ってみなよ。もし二人が現れなかったら、私のこと存分に責めていいよ。どんな言葉で罵ってもいいよ。でもね、これは絶対起こることだから」

「絶対ってなんでそんなこと……それはおかしいって……」

「ううん。残念だけど……ほんとなの。だから二人を見つけたらホテルに入るのを止めてね。私ができることってここまで。後はしげちゃん次第だよ」


 ミライはとても淡々とした口調だった。

 それは感情に任せて話していた先ほどよりも、よほど僕の心に突き刺さる響きを持っていた。


 行き場のない怒りを静かにぶつけるかのようでもあり、そしてきっと煮え切らない僕に対しての憤りも含んでいたのだと思う。

 

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