決戦の金曜あるいはヘプタゴンの変(その2)

 その朝、クレアが最初にエンゲルス王に謁見した大広間“金獅子の間”は、大勢の軍服姿の男たちでごった返していた。

 クレアの世界で数えてみると、その日は確か金曜のはずだ。

 この世界にはそういった曜日の“概念”があるのだろうかと、ふと頭を過ったが、そんなことは、すぐに掻き消えた。

 軍服の男たちの中に、ワグナーの姿もあったが、昨日会議で顔を合わせたヘーゲル大佐やブラウン中将の姿もあることに気づいて、それどころではなかった。

 別に慌てることはないのだが、彼らから向けられた視線が、何か自分を嘲っているように見えた。

それは気のせいばかりではなさそうだ。

 クレアの姿は、軍服の男たちの中にあっては、ひと際目立っていたからだ。

 ここにいる女性は、給仕を務めているいわゆるメイドのほかには、クレア一人しかいない。

 しかもその恰好といえば、ワルキューレが身に着けている銀色の甲冑だ。

 甲冑を身に着けているのが、自分だけというのは、ちょっと予想外だった。

 

 城の屋上に現れたスクルドを含めた数人のワルキューレたちは、約束通り、鎧と兜を持っていた。

 スクルドが用意してくれた鎧は、身に着けるまでは、重い金属のように見えたが、プラスチックのように軽く、表面は硬いのに、内側はスポンジのように柔らかく、柔軟性に富んでいるという不思議な材質だった。


「この素材は、カーボンファイバーじゃなさそうね」

「かーぼんふぃーばー? なんだ、それは」

 スクルドの問いかけを無視して、クレアは身に着けた甲冑を鏡に映してみた。

 クレアが鎧を身に着けると、その恰好がチェックできるように、ワルキューレたちは、姿見まで持参してくれていた。

「こうして鏡を持たせて姿を映せるなんて、まるでお姫様か、お嬢様の気分ね」

「死地に赴くお姫様だな」

 ぴったりだ、似合っているぞ、クレア」

スクルドはニコリともせずに言った。

「では、我々は作戦通り、広場の方で待機している」

「よろしく頼んだわよ。スクルド」

 クレアは握手しそうになってその手を引っ込めた。

 ここは握手をするべきところではなさそうだ。

 そして、その試着した甲冑を身に着けたまま、クレアは自室に戻り、ワグナーとの最終の打ち合わせを済ませた。

 甲冑姿のまま、定刻となるのをひたすら待った。

 自分は、待つことがあまり得意ではない。

 あと、30秒、15秒。

 この世界の時間の流れ方が果たして自分の世界と同じなのか、よくわらない。だが、1秒の刻み方は、感覚的には同じだ。

 10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、ゼロ!

 子供が湯船に浸かって、上がるまでに数を数えるように、頭の中でカウントダウンを終えると、椅子からガバッと立ち上がり、この大広間へと足を運んだ。 

  

 戦地へ赴くのであれば、少なからずフル装備の者が来ていると思ったが、広間の扉の向こうにいた他の男たちは、誰もが軍服を着こんでいた。

 この金獅子の間に、甲冑姿の男は、誰一人としていない。

 甲冑を身に着けた兵士は、そのほとんどが下級兵士であり、これから戦地に赴くにあたって、すでに宮廷の前庭の方に集合していた。

 そこには、クレアが指揮を執るワルキューレたちの姿もあるはずだ。

 兵士や戦士が甲冑を身に着けるのは防御のためであり、前線に出るための必要不可欠の装備なのだ。

 彼ら将校クラスの連中は戦地に向かうには向かうが、決して前線に出ることはない。

 クレアの甲冑姿は、勲章を幾つもぶら下げたカーキ色のジャケット連中の中にあっては、異様でしかない。

 

 彼ら上級軍人たちは、これから出陣するにはしては、緊張感が足りない。コンサートやスポーツ観戦に集まった群衆のように、がやがやとした空気に包まれていた。

 だが、エンゲルス王が姿を見せる段になると、その空気はさすがに一変した。

「皆さん、ご静粛に」

 袖口で司会兼、式の進行役を務めているのは、ヘーゲル大佐だった。

 彼は、軍の中でそうした役を任されているのだろうか。

 もしくは単に仕切り屋なのかもしれないと、クレアは思った。

「エンゲルス王のご入場です」

 袖口の方から華麗なファンファーレが鳴った。

 軍楽隊の生演奏だ。

 普段から練習を積んでいるのだろうか、ラッパの吹き方は、耳の肥えたクレアから見てもなかなか上手だ、と思う。

 鼓笛隊のドラムロールに合わせて扉が開くと、エンゲルスが入場してきた。

 最初に会ったときと同じ、王冠にマントを羽織ったいかにも王様という出で立ちだ。

「これより、出陣式を執り行います」

 軽く咳払いしたあとで、ヘーゲルが力強く宣言した。


 軍の出陣式というのは、こういうものなのだろうか、クレアには、戦争の経験はもちろんないのだが、何かが違うという気がした。

 これから生死をかけた戦いに赴くにしては、緊迫したムードがあまりにも薄い。

 それとも、このリラックスムードは、“こちらの世界”に特有のものなのだろうか。

 これではまるで王様の誕生パーティーだ。

「では、エンゲルス王から一言」

 エンゲルスの表情も、どこか和やかで、パーティーの乾杯の音頭を取るような雰囲気があった。

 実際、この広間には、人数分以上のシャンパングラスが用意されており、それぞれが手にし始めていた。

 近くにいたメイドからグラスの盆を差し出されて、クレアも反射的に手に取った。

 中身はどうやらシャンパンに類した発泡酒のようだ。

「それでは、皆さん、これから戦いの場に臨むにあたり……」

 エンゲルス王がグラスを高々と持ち上げた。

「いざ、出陣!」

 エンゲルスはグラスを持ち上げたまま、周りを見回した。

 周りの連中は杯を一気に飲み干すと、グラスを床に叩きつけたり……、はしなかった。

 静かにテーブルに戻すと、王に一礼してから、それぞれ静かに広間から出て行った。

 あらかじめ、どのように振る舞えがいいのか、何も聞いていなかったし、聞かされていなかったクレアは、見よう見真似でグラスを同じように持ち、頭上に掲げたあと、いったん口元まで運んだが、アルコールの匂いに噎(む)せそうなり、口を付けずにテーブルに戻した。

 エンゲルスは、将校たちへの挨拶のために、それまでたくわえていた笑みを抑えて、真顔になって見送りの言葉をかけていた。

 広間を埋めていた人々の半分が退出したあとで、ブラウン中将や、ヘーゲル大佐、ワグナー、そしてクレアなど、“大物”たちが最後に残っていた。

 クレアへ順番が回ってきたとき、一瞬、王の目が怒ったように光った気がしたが、それは自分の思い過ごしかもしれないと感じた。

「それでは、王様、行って参ります」

 腰を少し曲げ、左手に兜を持ち、片膝を付いて、王に会釈した。

 この甲冑はジャージでも着ているかのように、体を自由に動かすことができた。付けていることを忘れてしまいそうだ。

「よろしく頼むよ、救世主」

 王は弱弱しく微笑んで、クレアを見送った。

 クレアはワグナーに目配せをすると、大広間の出口へと向かった。

 背後で、さらに挨拶を交わす男たちの声が聞こえてきた。

「我が王に栄光あれ。神のご加護を」

 ヘーゲル大佐の声がする。

「エンゲルス王に栄光あれ」

 ブラウン中将の声だ。

 彼らの畏まった挨拶の声々に一切振り返ることなく、クレアは宮廷の広場へと降りる階段の方へゆっくりとした足取りで進んでいった。


 *


 エンゲルスは思う。

 自分は、随分、遠いところへ来たのだなと。

 それは距離とも違う。時空を超えた異世界というだけの話でもない。

 かつて自分がいた世界では、きっと平凡な一生を送って終わったことだろう。

 個人として、ある程度の成功は収めることはできたかもしれない。

 会社勤めで年収もそこそこに貰い、35年ぐらいのローンを組んで家を買い、結婚して家庭を持つ。

 だか、最高に出世したとしても、一企業の雇われ社長になるぐらいが関の山だ。

 ところがどうだ。

 この世界に救世主として招かれ、ほぼ一年の月日は掛ったが、一国の王となることができたのだ。

 どちらの人生を取るか、エンゲルスはさほど迷うことなく、“こちらの世界”を選んだ。

 かつての名前を捨て、エンゲルスというこの国の歴代の王が使う名前を名乗った。

 正式にはエンゲルス6世だ。

 重臣たちを両翼に従え、これから戦地に赴く、将校たちの挨拶を受けながら、頭の中には、この一年に自分の身に起こったことが走馬灯のように駆け巡っていた。

 挨拶を受けている最中は、できるだけ王としての威厳を保っていたが、実のところ、今からこの国と自分の身に起こるであろうことを考えただけで身震いする思いがする。


「今日は長い一日になりそうだな」

 広間にいた将校たちとすべての挨拶を終えて、エンゲルスは誰ともなしにそう言った。

「そうですな」

 王の独り言に答えたのは、すぐ近くにいたワグナーだった。

 周りにいた重臣たちは、不審な顔でワグナーを見ていた。

 なぜ、この男が王の最もそばにいるのだ。

 失脚したかつての首領が、現王のそばにいるなど、誰にとっても面白いわけがない。

 昨夜遅く、王の自室に赴くワグナーの姿を見たという噂は、宮殿から、重臣たちの間へとすぐに伝わった。

 今朝、その噂を耳にして、最も警戒心をもっていたのが、ヘーゲル大佐とブラウン中将だった。


「まさか、一夜にして返り咲いたのですかな」

 王への挨拶が済み、傍らで待機していたヘーゲルは、ワグナーを睨み付けながら、ブラウンの耳元で囁いた。

「さあな」

 ブラウンは火の付いていない葉巻のようなものを咥えて胸元の勲章の曲がりを正しながら、吐き捨てるように言った。

「さて、我々も行くとするか」

 ブラウンは申し訳程度の兜を頭に被り、戦闘には向かなそうな美術品のようなサーベルを腰に下げると、一番最後に広間を後にした。

 エンゲルスは広間にいた軍人たちが一人残らず退席すると、宮廷の前庭を見下ろすバルコニーへと向かった。

 ワグナーは、王の真後ろにまるで側近のように従っていた。


 *


 王宮の広場には大勢の兵士たちが集まっていた。

 これからパレードに出発するかのように、てんでんバラバラで、彼らは整列というものを知らないのか、その必要がないのか。

 クレアから見て、この軍隊は統制が取れていないと感じた。

 それでも各グループの小隊長が先頭に立ち、号令をかけ始めると、野外コンサートのオーディエンス程度の並び方ではあったが、なんとか見られる形にはなってきた。

 宮殿の見晴台に現れたエンゲルスは、片手を上げて、兵士たちの歓声に応えた。

 兵士たちの中央には、クレア率いるワルキューレ軍がいる。

 Y国軍兵士たちが歓声を上げるなか、彼女たちだけは静かに佇んでいた。

 そして、その中央に、王への挨拶を終えたクレアが進み出て、幌のない馬車へと乗り込んだ。

 銀色の兜を目深に被り、背中には、アルテミスの弓をたすき掛けにし、腰にはスクルドから授かったブラッド・パールをぶら下げている。

 クレアが乗っているのは、馬車といっても、古代のギリシャ軍などが用いた戦車型の一台だ。

 馬を扱い慣れていないクレアは、車体を引っ張る馬の操舵を、ワルキューレの一人に任せることにした。

 ワルキューレの部隊が他の部隊と異なるのは、その人数だ。

 Y国軍の小部隊は、少なくとも、五十名から百名程度の兵士たちで構成されている。

 一方、ワルキューレ軍は、スクルドをはじめ、十数名といったところか。

 彼女たち一騎当千の手練れであれば、Y国軍の小部隊に匹敵するどころか、圧倒するのも容易いだろう。

 数少ない戦闘シーンに居合わせたクレアにはその点はよく心得ていた。

 しかし実際にこうして兵士が集まる中にいて、少人数にもかかわらず、強烈に目立つのは、彼女たちのコスチュームだけに、その理由はとどまらないのだろう。

 ある人の存在が際立つとき、オーラが見えるという表現は、クレアはあまり科学的ではないと思っているが、実際に彼女たちに間近で接していると、身体から放出されるエネルギーというものを感じざるを得ない。


 *


 エンゲルスは、広場に集まった多くの兵士たちをぐるりと見渡して、中央に屯している少人数の集団に目が奪われないわけにはいかなかった。

 いわずとしれたワルキューレの軍団である。

 遠目に見ても、他の兵士たちよりも肌の露出が多い。

 攻撃面では有利かもしれないが、防御という面では、かなり危うい恰好だ。

 一年前、この世界に飛ばされたときに、最初に彼に救いの手を差し伸べてくれたのは、彼女たちだった。

 その後、為政者としてこの国を先導するようになってからは、彼女たちとも疎遠になっているが、久しぶりにスクルドの姿を見て、エンゲルスは、クレアに対して嫉妬に似た気持ちを抱いていたのかもしれない。

 必要がなくなれば、離れるのは当然だし、必要とされる人間が現れれば、その人に協力する。

 それが彼女たちの使命だし、そのことは理屈としてわかる。

 だが、もう少し、何らかの形で近くにいてくれてもよいのではないかと、エンゲルスは寂しく感じていたのだ。

 自分はどういう感情で、スクルドを必要としていたのか。

 側近の一人としてか、あるいは護衛か、もっと身近な存在として、純粋に女性として欲したのか。

 いやいや、それはない。決してない。

 自分には権力者になったからといって、ハーレムを作るような願望はない、と今のところは言い聞かせ続けている。

 エンゲルスは心の中でふと湧いた妄想を振り切るように頭を振って、自分を戒めた。

 片手を上げて兵士たちを鼓舞していると、宮廷の門扉付近にいた小隊が徐々に行軍を開始し始めた。


「では、出発進行!」


 各小隊長の掛け声で、兵士たちはぞろぞろと門を抜け、宮廷のある丘を下り、街の中央を抜けて、T国へ続く丘へと再び登っていく。

 ブラウン中将率いる部隊も進み始めた。

 この部隊はY国軍の中でも、中核を担う部隊だ。

 ヘーゲル大佐は、小隊長ではないが、ブラウン配下の部隊全体をまとめる役を担っている。

 彼らは最前線ではなく、Y国内の守備的な場所で待機することになっている。

 サッカーに例えるなら、ディフェンダーのポジションといえる位置だ。

 万が一、彼らの元までT国軍が侵入することがあるなら、それは、かなりの緊急事態といえるだろう。

 宮廷の前庭から徐々に兵士たちの数が減っていく様子をエンゲルスは片手を上げたまま見送り続けた。

 やがて中央にいたクレア率いるワルキューレの部隊の番になった。

「さあ、行くぞ」

 スクルドの掛け声で、少数精鋭の女性部隊が進み始めた。

 クレアの馬車を弾く馬に軽く鞭が当てられた。

 クレアが被る銀色の兜は、王の方を振り返らずに、ゆっくりと門を潜り抜けていった。

 クレアの被る銀色の兜は、最初にクレアがこの地に降り立った丘へと続く坂道を、朝日を受けてサーチライトのように光りながら、ゆっくりと進んでいった。


   *


 前庭には、先ほどまでひしめいていた兵士たちのざわめきの余韻が残っていた。

出陣するすべての兵士が門扉から消えたのを確認して、エンゲルスは、バルコニーから宮殿の中へと踵を返した。

 ワグナーはまだ王の傍にいる。

 バルコニーから延びる廊下を数人の侍従、さらにワグナーとともに、ぞろぞろと歩いて、陣頭指揮を執るために急ごしらえの作戦本部となった紅蝙蝠の間へと向かった。

 階下からは、さまざまな命令を伝える声、バタバタと忙しそうに走り回る衛兵や下働きの者たちの足音が聞こえてくる。

 広間の扉を開くと、中央には、Y国とT国の拡大地図が張られたボードがあった。

 その手前に王のためのテーブルと椅子が用意されていた。

 今日は出陣のため重臣や将校はすべて出払い、空っぽとなった空間で、エンゲルスは執事に引かれた椅子に腰かけた。


「やれやれだな」

 やや疲れたようなエンゲルスの声に傍らにいたワグナーが頷き返した。

 別の執事がピッチャーからグラスに注いだミネラルウォーターを飲んでエンゲルスは一息ついた。

 正直な話、エンゲルスはこの世界に来て最も気にいったのが、この「水」だった。

 その他の食事は、特にうまいともまずいとも思わない。

 前の世界では、彼はどちらかと言えば、小食だったし、特別好物というものがあったわけでもない。

 強いてあげれば、とあるメーカーのミネラルウォーターを愛飲していたので、それが飲めないのは少し残念だったぐらいだ。

 ところが、王になってこの宮殿に住まうようになって、執事から出された水がとても気に入ったのだ。

「この水は、なんていう水だ」

 エンゲルスの問いかけに、執事は、これは以前から王室御用達の特別な飲料水だと答えた。

「Y国と交流のある西のO国の、ある地方の山地から出る湧き水でございます」

「まさか、六甲の水じゃないだろうな」

「は?」

「いや、なんでもない」

 そんなやりとりがあって、エンゲルスは、この水だけはとても気にいって飲んできた。

 しかし、今日はいつもより喉にひりつく感じがする。

 たぶん、それは気のせいだろう。

 机に広げられた縮刷版の地図をぼんやり眺めていると、戸口の方で何やら騒がしい物音がした。


「何事だ」

 扉が乱暴に開かれる大きな音に、エンゲルスの傍らにいたワグナーが振り返って呼びかけた。


「エンゲルス王、神妙になさい」


 開かれた扉からは、武装したクレアが先頭に立って現れた。

 あのキラキラと光る銀の兜は付けていなかった。

 スクルドと同じような形に髪の毛を後ろで編み込んでいた。

 傍から見れば、彼女もワルキューレの一員に思われたかもしれない。

 ただし、身長に関しては他のワルキューレに比べれば、圧倒的に足りていなかったが。


「この場で、おとなしくお縄に付くか、さもなくば……」


 腰に下げていたブラッド・パールを抜いて、切っ先を真っすぐ王に向けた。

 クレアの後ろには、スクルドのほか、他のワルキューレの姿もあった。

 クレアは、この場でどんなセリフを吐けばいいのか、そこまでは具体的に考えていなかった。

 正確には、クレアのほかにいるのは、たった五人の女性たちだ。

 こんな少ない人数で国家を揺るがすような反乱を起こすとは、他の者たちは考えもしないだろう。

 クレアはそれも計算の一つに入れていた。

 出陣という慌ただしい時間帯に宮廷内を甲冑姿でうろついていても、少人数であれば怪しまれないで済む。

 そしてこれをクーデターと呼ぶべきか、反乱と呼ぶべきか、明智光秀にちなんで、「事変」と呼ぶべきか、そんなことがいまさらのように頭に過っていた。

 本能寺の変をもじり、さしずめ「ヘプタゴンの変」といったところか。


「さもなくば、どうする」


 エンゲルスはゆっくり立ち上がると、クレアに対して、これまでに見せたこともないような不敵な笑みを込めて言った。

「なあ、ワグナー、このお嬢さんは、私をどうしようというのだろう」

 クレアはクーデターを受けたというのに、あまり驚いた様子のないエンゲルスに、むしろ自分の方が驚かされていた。

 クレアはエンゲルスの傍らにいたワグナーの方を振り向いた。

 事前の打ち合わせでは、ここでワグナーが衛兵を呼び、エンゲルスを捕らえることになっていた。

 ワグナーは、胸にぶら下げていた鎖の付いた呼び笛を取り出すと、「ピー」と甲高い音を立てて、衛兵を呼んだ。

 部屋中に衛兵たちがどかどかと踏み込んできて集まった。

 しかし、衛兵はエンゲルスを捕らえるどころか、王の身を守るように取り囲み、前方の兵士たちは、取り出したその槍をクレアの方に向けていた。


(何かがおかしい)


 クレアは動悸が早まるのを感じた。

「クレア、何か変だぞ」

 後ろにいたスクルドが自分の思っていることを先に告げた。

「ワグナー、さん?」

 ワグナーに問い掛けるように呼びかけた。

「クレア様、観念するのは、あなたの方です」

 ワグナーはクレアの目を見ずにそういった。


(まさか、これでは三日天下どころか、三分天下じゃないの)

 自嘲しているような余裕はない。

 クレアの構えたブラッド・パールの切っ先が、プルプルと小刻みに震え始めている。

 同時に、眼の淵に涙が溜まってくるの感じていた。


  *


「それは無理です」

 昨晩、クレアの計画を聞かされて、ワグナーはすぐさまそう答えた。

「幾らワルキューレが一騎当千とはいえ、宮廷内でそのようなクーデターを起こしては、ただでは済みますまい。

 下手をすれば、あなたも討ち死にです」

 クレアには予想通りの答えだった。

 だが、ここで引くつもりはなかった。

 ワグナーに反対されても、残りのわずかな時間でこの世界を救う方法、作戦はこのほかにはない。

 要するに、Y国とT国の間で起きてしまったこの戦争を終わらせることが、ネルバからの依頼を達成することにほかならないと、クレアは考えるに至った。

 それには、自分がこの戦争に参加していては切りがない。

 泥沼の戦闘状態はいつ終わるともしれない。

 短くても一年、長くて数年、場合によっては、数十年、数百年に及んでしまうかもしれない。

 もっとも戦争を早く終わらせるには、T国もしくはY国が停戦を申し出ればいいのだ。

 それには、国家転覆を図るのが一番早い。

 ワグナーは、エンゲルスによって、その地位を追われたわけで、仮に反対したとしても、心の中では喜んで協力したいはずだとクレアは思っていた。

「ワグナー、あなたが、反対したとしても、私はこの計画を進めるつもりです。

 だから、協力できないとしても、黙って見守ってほしい」

 クレアは無理に説得するつもりはなかった。

「いえ、このままでは無理だということです。

 何も協力しないとは申しておりません」

 ワグナーはポケットからハンカチを取り出すと、額の汗を拭った。

 クレアには室内の空気はそんなに暑くは感じなかったが、ワグナーは暑がりなのか、人よりも汗っ掻きのようだ。

「私にも、兵士や衛兵の中にかつての部下が何人か残っています。

 エンゲルスのやり方が面白くない、気に食わないという連中がかなりいます。

 実をいうと、これまでも機を伺っていたのです。

 今回はそれが少し早まったということで、明日は、我々の仲間でエンゲルスを捕らえましょう」

 ワグナーから協力を得られるという返事を貰えばこれ以上心強いことはない。

「ワグナー、いえ、

 ワグナーさん、ありがとう」

 クレアは嬉しさのあまりワグナーの額にキスぐらいはしてもいいかという気分になったが、さすがにそれは無理だと思いとどまった。

「クレア様は、ワルキューレとともにエンゲルスの元に飛び込んだら、投降するよう呼び掛けて頂くだけで結構です」

 

  *


 クレアは、人間不信に陥りそうだった。

 ワグナーはこの世界でも、信頼できる人だと思っていた。

 初めて会った時からの印象で、悪い人ではないと感じていた。

 いったいどうしたというのか。

 やはり、小娘の立てた俄かクーデーターなど、うまく行くわけがないとクレアの部屋を出たあとで思い直したのか、それとも、鼻っから、馬鹿にしていたのか。


  *


 昨夜、ワグナーはクレアの部屋を出た後、その足でエンゲルスの部屋へと向かった。

「お父様?」

 自室の方に戻らず、廊下をさらに進む父を見て、娘のイゾルデが声をかけた。

「心配するな。お前は自分の部屋に戻っていなさい」

 ワグナーは娘の方は見ずに、足早に歩いた。

 王の部屋の前には、二人の衛兵が立っていた。

「王に面会がしたい。

 ワグナーが急用があって来たと伝えてくれ」

 衛兵の一人は、ただならぬ様子を察してと扉の中へ消えていった。

 晩餐を終えたエンゲルスは、寝室の手前にある執務室にいた。

「ワグナー様が、内密にお話したいことがあると申しております」

衛兵が飛び込んできてそう告げた。

「ここへ呼んでくれ」

 そろそろ寝支度を始めようとしていたエンゲルスは、何やら重要な要件だと察して、居住まいを正した。

 ワグナーは毛足の長い絨毯をゆっくりとした足取りで踏みしめながら執務室に入り、後ろに付いてきた衛兵や中にいた執事をじろりと睨んだ。

「お前たちは、下がっていなさい」

 エンゲルスが人払いをしたあとで、ワグナーが静かに告げた。

「エンゲルス王、申し上げたいことがございます」

 そして、クレアと相談したばかりの計画の概略を話し始めた。


「つまり、あの小娘は、明朝、ワルキューレとともに戦地に向かうふりをしてこの宮殿に引き返し、あなたを捕らえようという魂胆なのです」

「ふむ」

「まあ、実際に部隊とともに門を出てしまっては、途中で引き返すのも難しくなるので、そこはワルキューレの一人を自分の替え玉として出発したと見せかける、そんなところです」

「なるほど」

 エンゲルスはさほど怒った様子もみせず、デスクの上にあった飲みかけのワイングラスを口にして「君も一杯、どうだ」とワグナーに勧めた。

 ワグナーは遠慮することなく、

「はっ、頂きます」

 そういって、ワインのボトルではなく、サイドテーブルに置いてあったブランデーの瓶を取り上げ、コップに注いで口にした。

「あれをご覧ください」

 目を丸くしてみていたエンゲルスを他所に、ワグナーは中庭に面し部屋の窓際につかつかと歩み寄り、屋上の方を指さした。

 そこには、月明かりに照らされたワルキューレとクレアの二人の姿があった。

「今申し上げました計画について事前に相談しているのでしょう」

 ワグナーは残りのブランデーを飲み干すと、王に告げた。

「明日は私に、お任せください。

 あのバカな小娘をひっ捕らえて牢屋にぶち込んでやりますわい」

 

  *

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