第4話  ジニア・スオンの遠い記憶


 ――ジニア・スオンは夢を見た。何年か前、幼い頃の記憶。


 今の彼女からすれば下らないことだったが、いじめられたことがあった。父親が葬儀屋だということで、線香くせえだの、人が死んだら嬉しいんだろ、儲かってよ、だの。男子連中に取り囲まれ、子供らしい罵声を浴びせられた。辺りはコンクリートの壁に囲まれた路地裏、人は誰もいなかった。

 今から思えば恥だったが、涙ぐむジニアは後ずさった。それもすぐに壁へ行き当たる。乱雑に電線が這い、新旧の様々なビラが一面に、層を成して貼られた壁。むき出しの配管から液体が滴り、所々に苔が生えている。


 男子たちが笑いながら近づいたとき。足音が一つ響いた。


 路地の端に男がいた。サングラスをかけた不精ひげの男。何か仕事の帰りか、薄汚れた作業着を着て工具箱を抱えていた。

 男は何も言わなかった。ただ、立ち去る気配もなかった。両足を開き、背筋を伸ばし、不機嫌げに眉根を寄せていた。そういう形をした石像のように、男は動かなかった。


 そちらを向いた男子らが、決まり悪げに視線をそらしたとき。

 男は、音を立てて工具箱を落とす。同時。壁へ向かい、左脚を小さく出す。右脚をその後ろへ引きつけ、音を立てて地面を踏み込む。斜め下へ伸ばした右の縦拳が壁を打った。硬い音が路地に響き、そして。


 拳の回り、壁一面に重ねて貼られたビラが、ぶわり、と浮き上がって剥がれる。それはまるで波のように円く広がり、止まらず広がり、ジニアの方へ迫る。目の前で散ったビラが顔にかぶさり、壁についていた背が、ぶ、と震えた。


 舞い落ちるビラの中を、工具箱を抱え直して男は歩く。

「女にグダグダぬかすな……男だろうが」

 男子たちは顔を引きつらせ、我先にと逃げ出していた。


「あの……」

 ジニアは礼を言おうとしたが。男は歩みを緩めず脇を通り過ぎた。一瞥をもくれることはなく、サングラスに隠れた目の色もうかがうことはできなかった。


 家に帰り、父、ユンシュにそのことを話した。その人のことを聞くと、ほんの一瞬黙ってから父は言った。その男は、マーチという配管工だと。かつて父が拳法をやっていたころ、同門だったと――


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