このなつ Dual

常陸乃ひかる

01 It's up to you

 ――砂埃すなぼこりが上がった。

 細かい粒子の中にぼんやり浮かんでいたのは、わたしが探し求めていた彼だった。

 〇〇くん。あぁ、名前を忘れたわ。

『キミが事故った時間。わたしはここで待ってる。あとはキミ次第よ』

 It's up to youキミ次第よ.



  1


 日毎ひごとに、我が子をほったらかし、大声で喧嘩する両親。

 最後は、布団の中で、お決まりの仲直りセックスを繰り返す両親。

 奴らは、単細胞ほどの価値もない両親。

 むしろ、性行為を奪われたら単細胞と化す両親。

 そうか、悲しいかな、それがわたしの親なのだ。

 すでに、縁は切っている。

 元より、アイツらにつけられたDQNドキュンネームも捨てた。

 なのに、全身を巡る血が心的外傷を思い出させる。


 うちは、昔から貧乏だった。

 母親は、世話もできない猫を多頭飼たとうがいした。

 父親は、ハイオクしか飲まない車に乱費らんぴした。

 つまり、子供にかけるお金なんて存在していなかったのだ。

 程度は、一人娘が公立の高校にさえ行けないくらいである。

 けれど、幸か不幸か、奨学金という借金をしてまで進学しようとは思わなかった。


『お金を貯められるのは選ばれた者だけ! どうせ悪い奴だ』

『女はすぐに結婚して男の世話になるべき! それが女の幸せだ』

『ウチには進学させる財源なんてない! 中学を出たら働くしかないのだ』


 という、ステレオタイプ教育があったからだ。

 毒親の、昭和感満載な演説を聞かされ続け、勉強とゴミの区別がつかなくなった。

 中学で、わたしは当然のように非行に走った。

 酒煙草、そういったものをやらない代わりに、体を売って他家を転々とした。

 だって、家に帰るよりは知らない男に体を許すほうがマシだったから。

 とまあ、現代には未成年を抱く大人オッサンがそれだけ居るのだ。

 そりゃ、そういう人種は心の底からキモかった。

 しかし、屋根のあるところで眠れ、未成年にとっての大金が手に入った。

 だから、最善の選択肢だと言い聞かせていた――

 But、                   



  2


 ある町に、東西を分断するような高速道路がある。その境界線の東側では発展した光が街を照らしており、西側では少子高齢化が進む田舎町が広がっている。わたしは東にある、光が届かない貧民街で育った。

 ――あれは十六歳の冬だった。

 高校に通わず、仕事もせず、繁華街を一歩進むごとに心身をすり減らし、無音を求めて町の西側へと向かった。そこは、LED化していない街灯がぼんやりと浮かんでいたり、町と街との境界線にラーメン屋台の赤提灯が鎮座していたりする、明度の低い辺境だった。

 誰が好き好んで、こんな片田舎に住みたいと思うだろうか。歯牙しがにもかけない疑問を浮かべながら、わたしは高架の柱に寄りかかって尻を地面につけた。

 心身の疲労を硬い地面に沈めて何分か――ふと、太ももの横に投げ出していた手の甲に、ぞわぞわする感触が走った。驚いて重い瞼を開けると、小さな毛玉が縋るように声を上げていた。

「ノラ……か」

 それは薄汚れた野良猫で、社会のド底辺にニャーニャーと助けを求めてくるくらい見境がなかった。年頃の女子なら『ネコかわいい!』なんてほざいて、自分をぐうかわアピールするのだが、わたしは多頭飼いの件があり猫は好きにはなれなかった。

 けれど、自分よりも弱い存在を見ていると、自己満足にすぎない偽善と慈愛が湧いてきて、ショルダーバックの中に詰めこんでいた菓子パンを取り出し、それをちぎって野良の近くに投げていた。

 そいつは匂いを嗅いだあと喜んでむさぼり、ふたつみっつと要求してきた。

 猫に食べさせて良いもの、悪いもの。そんなものは知らない。冬の野良猫なんて、生きるか死ぬかの狭間で今日も糧を求めているのだ。生殺与奪せいさつよだつはわたしの手にあり。

 とまあ非情に振舞ったのに、なぜだかそいつに懐かれてしまった。同時に、わたしには生まれて初めての友達ができた。そいつは目が良くないのだろう、常にはるか彼方を見つめているので、『ハルカ』と名づけた。

 家に帰るくらいなら――見知らぬ大人に体を許すくらいなら――

 モフモフなんて形容が一切浮かんでこない、ゴツゴツした骨と皮だけの彼女を抱きかかえ、一緒に暖を取って朝を待つほうがマシだった。それこそ、生きている実感があったから。そのうち、わたしもハルカも死んだように眠ってしまった。

 羸痩るいそうしたふたりは、心の奥底で逝こうとしていたのかもしれない。


 そんな時だった、わたしの耳をぶっ壊そうとする騒音が、すぐ側で轟いたのは。その音にビックリしたハルカが、腕の中から飛び出してしまった。何事かと目を開けると、暗がりにはげんチャリが転倒しており、ついでに人影も転がっていた。恐る恐る近寄ってみると、少年が呻きながら人語のような――なにかを、現世に生み出しているではないか。

 ハルカが少年の目の前を通りすぎ、暗闇に身を潜めてしまった。

「あ、キミのせいで……ハルカがどっか行っちゃったじゃない」

 半ヘルを被った少年は、朦朧とした意識で地を這い、わたしの言葉なんてまるで無視している。肘を曲げて手を振っても、まるで無反応だった。

「あの、ちょっと? 聞いてる?」

 ハリガネムシに寄生されたカマキリが水辺を求めるように、この少年は目を虚ろにさせ、生を求めている。彼は今、なにを思い浮かべているのだろうか? 大好きな恋人? 大事な両親? かけがえのないペット?

「ふふっ……ツラそうね」

 ――なんでも良い。

 わたしは自分よりも弱い人間を見た瞬間、興奮が最高潮に達してしまい、この少年を好きにする権利や、ハルカが逃げてしまった責任を取らせる義務感を理由に、仰向けに倒れた体へと馬乗りになっていた。

 その姿を俯瞰すると、野良猫の時とは比べ物にならないくらいのエクスタシーを感じた。彼の上着のファスナーを下ろすと、『豊田』という名札がついた、飲食店の制服が覗いた。どうやらアルバイトの格好のまま帰宅していたようだ。

「ふふっ……トヨタくん? 絞めるわよ?」

 わたしは少年の首に両手を回し、ゆっくりと力を込めていった。

 彼の喉は、排水溝が詰まったような音を吐き出した。

 あまりの愉悦に抗えず、両手へ体重をかけていった。

 今度は、壊れた楽器のように不協和音を奏でた。

 小さい頃、音楽室でテキトーに鍵盤を叩いた時の無邪気さに酷似していた。

 なにより、同年代の異性が弱っているのを見て、下半身が異様に熱くなった。

「ダメよ……死んではダメよ? ちゃんと生きるの」

 わたしはしばらく、目の色がなくなってゆく少年を弄んだあと、スマホを取り出して119をタップした。オペレータの声を聞いているうちに興奮が冷めてゆき、状況を説明しきった二十一時四十分。通話を終えて手持無沙汰になってしまい、寒風が余計に冷たく感じていた。

 オペレータは救護してやってくれと言っていたが、命の恩人に対してその要求はあまりにも横暴ではないだろうか? わたしが居なければ、彼は死んでいただろうに。

「仕方ないなあ。わたしが、あなたの『ハルカ』になってあげる」

 様々なファクターが交じり合った結果、わたしが出した答えはだった。容体も定かでない少年に吸いつくように密着し、目を閉じ、浅い眠りへと落ちるのが、なによりも正当に近い権利だと思ったから。

 ――ほどなく、わたしは救急隊員の罵声によって叩き起こされた。ひどい。

 その後、少年がどこの病院に搬送されたのか、運良く保護されたハルカがどこに行ってしまったのか、どうしてわたしが補導されたのか、なにもかもわからないまま史上最低で最高の夜が更けていった。



  3


 あの事故から何年が経っただろう。

 わたしは黒とピンクを基調とした服を着て、ストロング系のチューハイにストローをさし、それを片手に街をブラつく――悪性度の高い社会のガンになっていた。そういう生産性のない女には、ヤりたいだけのバカな男たんさいぼうがたくさんお金をくれるから。

 顔を晒してSNSをしているメンヘラのほうが、まだ生産性がある気がする。どの時代でも単細胞おとこたちは、社会的弱者が大好物なのだと、わたしは身をもって実感していた。

 そのたびに思うのが、ジェンダー平等という言葉の愚劣さだった。生きて、男の世話になるほうが、よほど救われる人間がこの世にどれだけ居ると思っている。

 これは決して逆張りなんかではない。個の意地なんて捨てて、能力のないことを認め、ここ数百年で築かれた摂理に身を任せるほうがラクだろうに。

 もうわたしは――なにもかもが面倒だった。

 何度ベッドの上で、不特定多数に乗っても乗られても、性感帯を舐め回されても、のエクスタシーなんて得られないのだから。あの少年と触れ合った一夜は、もう二度と訪れないのだろうか。


 人生の足枷あしかせになっていたDQNネームを捨て、『はるか』と改名し、悲壮と希望を足して二で割った答えが『幸せ』なのだと思いこませて生きるのが精一杯だった。

 こんな二十うん歳。保存料、香料、人工甘味料がたっぷりのチューハイは飲み飽きた、午前中の酔いも干上がりそうな夏の日。わたしは行動までイカれていた。

 ――あの田舎町へ足を運んでいたのだ。彼が居る気がして。無駄足とわかっていて行動するのも幸せなのだと思って。木にとまって求愛し続ける男性諸君より惨めなのだと思うことが、己の存在証明だと信じて。

 けれど、うつむいてフラフラする田舎の道端には、その男性諸君の死骸さえ落ちていなかった。浅すぎる夏、過去への嫉妬すら得られないまま、東の繁華街へ戻る以外の選択肢が用意されていなかったのだ。

 ――瞬間的に夏風が、潤んだ目を乾かすように通りすぎてゆき、正面で砂埃を巻き起こした。思わず目をつむり、ほどなく風音が耳から消えたタイミングで顔を上げると、黄土色の中では奇跡のホログラムが再生されていた。

 両眼に映ったのは都合の良い追想か、はたまたメンヘラの幻想か。海馬の奥底に置き忘れてきた元少年が良い感じに成長し、わたしを見つめているのだ。

 間違いない! 七年前、わたしが助けてあげた彼である! 確か〇〇くん!

 疑似的に止まっていた血流がふたたび流れ始め、抑えきれない興奮が押し寄せ、荒くなる息とともに全身が熱くなっていった!


 蘇る、あの夜の温もりと感触。

 あぁ、互いの汗にまみれ、体液を交換できればどれだけ幸せか。

 いや、わたしはもうなにも考えられず、彼を見つめて手を振っていた。

 けど、彼はわたしを覚えていなかったのだ。

 この、非情な現実は、わたしを干からびたミミズ同様に扱おうとする。

 違う、彼が忘れているのなら、わたしが彼のあらたな思い出になれば良い。

 そう、すべてはわたしの行動次第。

 して、あとは彼次第である。

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