雨雲は近づいて

 ——状況を、整理しよう。


 ピアノを弾きながら俺はさっき起きた出来事を思い返していた。


 まず俺には死神が見える。死神は背後にずっと纏わりつきながら徐々に近づき、死神が触れると、触れられた人は死ぬ。


 そんな死神がただ今絶賛片想い中の絢音に憑りついた。このままだと確実に死ぬけど、まだ少し距離があって、多分タイムリミットは日曜か月曜。だからそれまでになんとかして死神を離すか、あるいはタイムリミットの瞬間にやってくる死から絢音を守らなければならない。


 でも問題となるのが、その死が『どのような形で』やってくるのか分からないということ。もし俺が絢音を守るために前者の行動を取れば下手をすれば絢音の死期が早まるかもしれないし、後者を取ろうとしても予測不可能な死に一発勝負で完璧に対処できる可能性は俺の見立てでは非常に低い。


 だけど、現時点で絢音を確実に救えるかもしれない方法がたったひとつだけあった。それは俺が絢音とのDSJ観光を断ること。一見簡単そうなのだが、そうすると今度は俺が死神に目を付けられてしまう。絢音が助かる代わりに俺が死んでしまうのだ。



「……ゴミゲー、がよっ!」



 ボロン、とズレた音が鳴った。というより、さっきからずっとズレている。明後日コンクールだってのに、調子は最悪だ。


 もし俺に興味のない奴らが俺の立場を知れば、他人事のように迷わず断れと言うのだろう。それが彼女のためになるのだからと。


 そんなこと、俺だって分かってるよ。分かってるけど、それができるかどうかはまた別の話だろう?


 子どもの時に見たあの事故の光景が蘇る。何で死ぬかは知らないけどさ、あれをみた感じだと死ぬ瞬間って絶対に痛くて苦しいだろ。

 それに死んだあとだって、どうなるのか全然見当もつかないしさ。学校でそういうのを教えてもらってたらもう少し覚悟とかできたんだろうけど、誰も何も教えてくれないじゃん。


 無理だよ、俺には。俺はヒーローなんかじゃない、生きるので精一杯のただの一般人なんだよ。死ぬのが怖くて堪らない高校生なんだよ。


「——立鹿君」


 一通り課題曲や自由曲を弾き終えて、先生が静かに一言。


「今日は終わりましょう」


 そりゃそうだ。こんな精神状態でまともに弾けるわけがない。


 先生とは小学校以来の長い付き合いなので、きっとそれを分かった上で言ってくれたのだろう。ここ数年は惨敗の連続だったから今年こそは良い結果を残したかったのに、悔しさが募るばかりだ。


 と、思っていたのだが。


「明日も今日みたいな演奏だったら、コンクールは辞退しましょう」


「えっ、どうして!?」


「明らかにあなたの様子がおかしいからよ。演奏もそうだったけど、それだけじゃない。顔も真っ青だし、緊張や不安とはまた違う何かに、心が支配されてるように見える」


「——」


「あなたの抱えてるものが何なのかは分からないし、無理に問い質したりもしないわ。でも、それがなくなるまではピアノは休んだ方が良いと思うの」


 流石長い付き合いなだけあって、何もかもお見通しみたいだ。


 でもそうだよな。辞退した方が良いかもしれないな。その日も絢音の命が危ないかもっていう日だし、守れる時間は取れた方が良い。たとえ結果を残そうが残せまいが、人の生死に比べれば些細なことだ。


 …………でも。


「先生の生徒でさ、今までに全国行けた人っているんですか?」


「……いないわ。だからといって、今の立鹿君に無理矢理参加させるほど、名声に拘ってはいないの」


「それって、俺を期待してないってことですか」


「そんなことないわよ。あなたは本当によく頑張ってる。たくさん努力して、その甲斐あってここまで来たんだもの。いつか必ず全国大会に行けるし、入賞だってできるって信じてる。ただ、今のあなたの状態だと難しいって話」


「そう、ですか」


 そんなことを言われたらそれ以上は食い下がれない。

 結果さえも残せるかどうか分からなくて、また今年も先生に恩返しができないかもしれない。けれども今回はそうも言ってられないから、状況を飲み込む他なかった。


 俺は椅子から立ち上がり、俯きがちに玄関に向かう。


 ……何も解決してないのに、弾けるわけがないもんな。


 そこまで考えて、ふと思いついたことがあった。


「先生」


 玄関で靴を履いた俺は先生の方に振り返って、訊いてみた。


「先生には、命賭けてでも守りたいって人、いますか?」


「え、急に何、その質問」


 なんなんだ、と先生は困ったように笑った。しかしそれから先生はそうねぇ、としばし思考を巡らせて、


「主人と息子、あとは……いや、多分その場でピンチな人だったら誰でも関係なく助けようとするでしょうね」


「……それで自分が本当に死ぬかもしれなくても?」


「あんまりそういうのが想像つかないけれど、なんとなくそうだと思うのよね。昔から考えるよりも先に身体が動いちゃうの」


「そうなんですか」


 ちょっと意外だ。先生はいつも冷静に俺のピアノを見てくれてるし、どちらかというと理知的なイメージがあったのだが。


 先生は続けた。


「この教室だってそう。元々普通の企業で働く普通のOLだったのに、久々にコンクール観に行ったらピアノ熱が再燃してね。確かそこから会社辞めてここを開くのに1年もかからなかったんじゃなかったかしら」


「1年で……」


「そう。流石に思い返せば中々ぶっ飛んだことやってるわぁ、とは我ながら思うけどね」


「不安とか、なかったんですか?」


「んー、なかったと言えば嘘になるかしら。でも、なんとかなるでしょ、みたいな感じで動いたのよね」


「なんとかって……」


「ね。若さって凄いわよね」


 先生は腕組みしながら苦笑した。


「でもね、今になってそういう若さって大事なんだな、って思うのよね。全能感、って言うのかしら、人生楽しんだ者勝ち、みたいな精神。我慢とか将来のこととか、そういうの全部無視して、今自分が本当にしたいと思ったことだけをする、そんな精神がね」


「なる、ほど」


「大人になるとね、しがらみが多くなって動くこともままならない、ってことによくなるのよ。だから、当時を思い出すと羨ましくなるのよね」


「そうですか」


 なかなか面白い話が聞けた。思えば小学生の頃から先生に教わっていたというのに、先生のことを何も知らなかった。興味がなかったわけではなかったが、別に訊くほどのことでもないと思っていたからだ。


 可能ならもっと話をしたかったのだが、口惜しいことに今は時間も心の余裕もない。その機会がまた来ることを願うばかりだ。


 ——そう、つまりは。


「ということで」


 先生はパンと手を合わせた。


「もう何の話だったか分からなくなったのでこの話はおしまい。立鹿君はピアノが楽しくなって、また弾きたいと思うまでお休みです。あなたはまだ若いんだし、他に楽しいことをするなり見つけるなりして、心の支配がなくしてきなさい。どれだけ時間をかけてもいいんだから」


「……はい」


 結局、俺の心の叫びが先生の耳に届くことはなかったのだった。





 教室を出ると、空はまだ明るいが、昼間と比べて雲が占める面積が多いように見えた。


 とぼとぼと歩く帰り道。友達と鬼ごっこか何かをしている子どもとすれ違う。排気ガスを吹かせるバイクが俺を抜かす。楽しそうに話しながら帰路につく親子が道路対岸に見える。


 今この視界に見えるものすべてが、羨ましくて、妬ましくて、恨めしい。


 カンカンと目の前の踏切が鳴って、遮断機がゆっくりと降りていく。

 電車が過ぎ去るのを待ちながら、俺はスマホを点けてラインを開いた。


『メッセージを入力』という文字が不気味に表示される。


 そこから、俺の指が動かない。

 次に送るメッセージの内容で、すべてが決まるのだ。死神に捧げる命は誰の物なのかが。


「はっ、はっ……」


 考えれば考えるほど、呼吸が浅くなる。


 やっぱり、怖いよ。なんでこんなことになったんだよ。


 大体さ、こんなことしなくても、他に解決策が出てくるかもしれないだろ?


 ふたりとも助かる道だってあるはずなんだ。それをこの数日間で探せばいい。


 まだ時間はあるんだ、やりようはいくらでもあるだろ。


 それにさ、最近ちょっとノイローゼ気味なんだよ、俺。


 コンクール間近で毎日10時間以上ピアノの練習しててストレスやばいんだよ。


 なのにそこにこんなゴミゲー押し付けられてさ、ふざけんなよ。


 本当だったら今頃も教室でピアノ弾いてて、極限まで仕上げるつもりだったのに。何のための数ヶ月間だったんだよ。


「クソッ、クソッ、クソッ……」


 停車していた電車が走り出し、その煩い音が俺の吐いた毒を掻き消した。


 窓から車内の様子を眺めると、誰しもスマホを見てばっかりでちっとも俺のことを見てくれない。



 ——誰か、助けてくれよ。



 この状況を、この最悪な日々を、誰か止めてくれよ。



 俺がここからどうすればいいのか、教えてくれよ!





『——そういうの全部無視して、今自分が本当にしたいと思ったことだけをする、そんな精神がね』





 不意に、先生の言葉が想起される。


 先生はその精神を『若さ』とか『全能感』と称した。その『若さ』がどのくらいの年代まであるかは分からないが、先生が1年でピアノ教師に転職したのもその力によるものなんだとしたら、きっと当時の先生よりも年下の俺も持っているはずだ。 


「——」


 俺の、したいこと。


 俺が、本当にしたいこと。





 ————それは。



 俺はスマホに目を落とした。


 指は思い通りに動き、過呼吸気味だった身体は正常に空気を取り込んでいる。


 1文字ずつ、着実に文字を打ち込む。


『絢音、DSJのことなんだけど』


 ガタンゴトンと電車が鳴いている。

 しかしその音が段々と遠くなり、代わりに踏切の音が強くなる。


 カンカンカンカンカンカンカンカン——。


 そして音が止まり、遮断機が上がった時には。



『うん、分かった。残念だけどまたの機会にね』





 ——影は俺を背後から睨みつけていた。


「これでいいんですか、先生」


 頬に水滴が流れた。


 見上げると、夜へと変わりつつある空にどす黒い雲が広がっていた。

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