第25話

翌日の朝、彼は敦賀駅まで母を見送りに行った。夜中に雨が降っていたのか、アスファルトには所々水たまりが出来ていた。

荷物を渡した時母は

「何時の電車で帰るつもりなの?」と彼に尋ねた。

彼は「実はさ、」と言って母の方を見た。

「もう少しここに残って、叔父さんが教えてくれたお寺で座禅の体験をしてみようかと思うんだ。中々できない経験だから。」

母は一瞬驚いたような表情になったが、分かったという風にうなずくと

「そう。でも、秋の授業が始まるまでには帰りなさいよ。」と言って笑った。


母を乗せた列車が発車したのを見届けた後、彼は叔父が教えてくれた禅寺へと向かって歩き始めた。これから暑い日になりそうな、良く晴れた8月の朝だった。

彼はスマホの地図を見ながら市街地を歩いた。しばらく歩くと山道へ入り、草木が生い茂って民家はまばらになった。その後も車が通れないような細い道が続き、彼の額には汗が浮かんだ。


2、30分ほど歩いただろうか。視界が急に開けて、彼の目の前には叔父が教えてくれた禅寺があった。両側を林に囲まれて、その寺はひっそりと建っていた。大きな寺ではないが、歴史を感じさせるような趣きがあった。

「ごめんください。」と言いながら、彼は境内へと足を踏み入れた。しかし蝉が鳴いている以外は、誰からも返事はなかった。彼はしばらくの間寺の前に立っていたが、誰も出てこないので周りを歩いてみることにした。


裏へ行ってみると、一人の僧侶が箒を持って掃き掃除をしている所だった。彼の足音を聞くと、僧侶は手を止めて彼の方を見た。

彼が軽く頭を下げると、僧侶は

「何かご用でしょうか?」と尋ねた。その声は、穏やかで深みのある声だった。

「あの、座禅の体験に来た藤本です。」と彼は答えた。

「ああ、藤本さん。お待ちしていましたよ。」と言って僧侶はにっこりと笑った。そして寺の方を手で指しながら、

「とりあえず中へ入りましょうか。」と言った。


二人は座敷へ入ると、畳の上で正座になって向かい合った。部屋を見回してみると、そこは大きな机と掛け軸があるだけの質素な作りの部屋だった。

僧侶は姿勢を正して彼の目を真っすぐに見据えると、

「この寺の住職をしている水野と申します。」と言った。

「おじさんからは色々と悩まれているようだと聞いたのですが、本当ですか?」


彼は「はい。」と答えて、机の上に置かれた湯飲みへ視線を落とした。

「最近、考え込んでしまうことが多くなってしまいまして。」

それを見た水野住職はうなずいて、

「そうですか。座禅をしに来られる方は、何か悩みを持っていることが多いですよ。」と答えた。


「座禅をすれば、悩みは解決するものですか?」と彼は尋ねた。

水野住職はお茶をずずっと飲むと、

「解決するときもあれば、しない時もあります。」と答えた。

「座禅の体験をするだけで、すぐに悩みが解決したり、悟れたりすることはありません。そういった事は、長く続ける中で見えてくることだからです。ただ、考え方を変える何かのきっかけになる可能性はあります。これまでにも、座禅の体験をして表情が変わった人を私は何人も見てきました。」


「なるほど、分かりました。」と彼は言った。

「どのくらいここに居る予定ですか?」と水野住職は尋ねた。

「まだ決めてないのですが、秋に大学の授業が始まるまでまだかなり期間があるので、しばらく置いて頂いても良いでしょうか?」

水野住職は微笑んで、

「いいですよ、好きなだけ座禅に打ち込んでください。幸い今は藤本さんの他に来られているのはお一人だけなので、部屋も空いていますから。」と言ってくれた。

「ありがとうございます。よろしくお願いします。」と言って、彼は頭を下げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る