第22話

その後しばらくして、酔いを醒ますために彼は縁側へ出た。叔父の家の庭は良く手入れされていて、地面に生えた草は短く刈り込まれていた。庭の隅の方では、茶色と白の毛並みのぶちネコが静かに眠っていた。


彼が夜風に当たっていると、誰かが彼の肩を軽くたたいた。振り返ると夏希さんが

「久しぶり。」と言ってにっこりと笑った。

「タク、元気だった?」

彼は少し恥ずかしそうに、

「あー、うん。」と言って夏希さんを見上げた。

彼女のお腹は、やはり少し丸みを帯び始めていた。


「ねえ、今からドライブ行かない?」と夏希さんは言った。

昔から変わらない、明るくて優しい口調だった。

「そのお腹で運転して大丈夫なの?」と彼が尋ねると、

「大丈夫、まだ5か月だから。酔っぱらいに運転させる訳には行かないでしょ?」と言って夏希さんは笑った。酔っている以前に彼はそもそも運転免許を持っていなかったが、一応そうだねと相槌を打っておいた。




車の中で、夏希さんは近況について教えてくれた。

「東京の音大を卒業してから向こうで就職する予定だったんだけど、色々あって、春からこっちに戻って来てピアノを教えてるの。」と彼女は言った。

色々、というのは結婚予定だった男が急にいなくなったことを指しているのだろう。彼は何も言わずただそれにうなずいた。


駅前の赤信号で車がとまった時、カーステレオからどこか聞き覚えのある曲が流れた。夏希さんはその曲を口ずさみながら、ハンドルの上の方を指でとんとんと叩いていた。

彼は少し考えて、それがマイラバのHello againであることを思い出した。でも、これ別れた人を思い出す曲だよな、と思って夏希さんの方を見ると、彼女はただ物思いにふけるように、信号機のぼんやりとした明かりを眺めていた。


彼は何か言おうと思ったが、思い直して

「暑いね。」と言って助手席の窓を開けた。

やがて信号は青に変わり、夏希さんはアクセルをゆっくりと踏んだ。

車が走り出してからしばらくすると、カーステレオから流れる曲はスピッツの渚に変わっていた。


駅前のコンビニでコーラとお茶を買った後、夏希さんは車を海の方へ向けて走らせた。海沿いの道に入ると明かりは少なくなり、対向車もほとんどいなくなった。夏希さんの車のハイビームだけが、暗闇を一直線に照らしていた。


夏希さんが車を停めた所で外へ出ると、目の前には夜の砂浜が広がっていた。石の階段を降りて砂浜へ足を踏み入れると、砂が彼の体重を感じて少し沈んだ。彼の履いているサンダルの隙間から入る砂粒は、夜の空気の中で心地よく冷やされていた。2人は波が届かない場所に並んで腰を下ろした。


目の前には、絵にかいたような美しい景色が広がっていた。

浜辺に寄せては返す日本海の波は、いつもよりずっと穏やかだった。夜空に浮かぶ月と無数の星々が、2人のいる世界にある光のすべてだった。


夏希さんは彼を横目に見ながら、

「何でさっき飲んでる時来なかったの?何か、いつものタクらしくないじゃん。」と言った。

彼はつま先で砂をいじりながら、

「んー、特に理由はないけど。」と言ってとぼけた。本当は今の夏希さんと、どんな話をしたら良いのか分からなかったのだ。夏希さんと仲良く遊んでいた頃から、すでに7、8年が過ぎていた。


「ふーん、そっか。元気してた?」と聞いて、夏希さんは持ってきたお茶の蓋を開け、ひと口だけ口に含んで飲んだ。彼がそれを見てコーラの蓋を開けると、プシューという音がして泡が溢れ出てきた。どうやら車の振動でコーラは良くふられた状態になってしまっていたらしい。

「うわっ!」と言って彼はコーラで濡れた手を振った。それを見た夏希さんは笑って、

「ほらー、コーラなんて買うから~。」と言った。

「もう最悪だよー。」と彼が言うと夏希さんはハンカチを渡してくれた。


彼がハンカチで手を拭いていると、夏希さんは、

「それで、元気だったの?」と改めて尋ねた。

彼はハンカチを返しながら、

「最近さ、昔の事色々思い出しちゃって。」と言った。

「昔の事?」

「じいちゃんが死んだ時のこととか。ねえさんは覚えてる?」と言って、彼は気の抜けたコーラをごくりと飲んだ。


夏希さんは少し驚いた表情になって、

「ずいぶん昔の話ね。」と言った。

「覚えてるよ、もちろん。もう15年ぐらい前だよね。」

彼は脚が痛くなってきたので体育座りをやめて、砂浜の上にあぐらをかいた。膝から足にかけて砂のざらざらとした感触が伝わってきた。


「夏休みが始まったくらいの時に、あの時のことを思い出したんだ。じいちゃんが焼かれた火葬場のこととか、ねえさんと一緒に捕まえたバッタが水路に飛び込んで行ったこととか。そしたら何故だか分かんないんだけど、死ぬってことが急にリアルに思えてきて怖くなったんだ。それでずっと分かんなくなって、考えてるんだ。自分が今生きてる理由とか、いつか死んでいくこととか。答えなんか出るわけないのに馬鹿みたいだよね。」


夏希さんは彼の話を聞きながら、長い髪を左手でゆっくりとかき上げた。柑橘系のシャンプーの香りが、ほのかに漂った。

「私も覚えてるよ、あの時バッタを捕まえてたこと。子供だったけど、あんな風になってしまってショックだったんだろうね。今考えてみるとあのバッタたちと人間って、そんなに変わらないのかも知れないっていう気がする。いつか来る運命に向かって、ただ毎日必死で飛び続けてるんだよね、きっと。」

夏希さんは遠い目をして、波の彼方を見つめていた。この人はきっと運命に流される自分自身のことを言っているのだ、と彼は思った。

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