第16話

二人は電車を乗り継いて、東京湾の沿岸にある海浜公園へと向かった。途中釣り具店に立ち寄って釣り竿を借り、餌のゴカイをひとつかみずつ買った。園内に入ると、夏休みのひとときを楽しむ親子連れの姿が多くみられた。


防波堤に着いてみると、既に何人かの釣り人が釣り糸を垂らしていた。二人は釣り人達の横を通り過ぎ、防波堤の先端へと向かった。彼が歩くたびにコンクリートが吸収した熱がサンダルを通して伝わってきた。先端に着いてそこへ直に腰を下ろした時、彼は椅子を持ってこなかったことを秘かに後悔した。


暑くて、風のない午後だった。

彼は買ってきたゴカイを釣り針に刺し、穏やかに波打つ東京湾に向かって投げた。ゴカイは海面近くで一瞬ゆらりと揺れたあと、底の方へ沈んで見えなくなった。

「あっついなあ。」と言いながら、園田はいつものメガネを外してサングラスをかけた。サングラスをかけると、園田はいいともを抜け出してきたタモリのように見えたが、怒りそうなのでそのことは言わないでおいた。


ジリジリと焼き付けるような日差しが、彼らのいる防波堤に容赦なく照り付けていた。園田は売店で買ったスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、美味そうに飲んだ。その首筋には、いつの間にか大粒の汗が浮かんでいた。


風がないせいか、周りの釣り人には全然当たりが来ていない様だった。午後の一番暑い時間帯になると、彼らは場所を変えるために移動して行った。

二人が持つ竿にも当たりが来る気配は一向になかった。彼が何かかかっていることを期待してたまに竿を上げてみると、ゴカイはつけた時より少しくたびれてぶら下がったままだった。


「場所、変えてみる?」と彼は聞いてみた。

「うーん。」と園田は、海の方を向いたままうなった。

「何か、移動するのも面倒くさくない?」

「まあ、それはそうだな。」


カモメが、防波堤の先端に止まってのんびりと彼らを眺めていた。もし魚がいるのならカモメも海の上を飛んでいそうなものだったが、そうでないということはつまり今日は釣れないということだな、と彼は思った。

売店で買った凍ったレモン水は、気が付くと完全に溶けてぬるくなっていた。隣をみると、園田は首にタオルをかけたまま、垂らした糸の先をじっと見つめていた。


夕方近くになると、その防波堤で釣りをしているのは彼ら二人だけになっていた。

活きの良かったゴカイも元気が無くなり、針につけるだけですぐに切れるようになってしまった。

「園田、これ今日釣れねえなあ。」と彼は痺れを切らすように言った。

「まあ、確かにダメっぽいな。」と答えて園田はサングラスを額へ上げた。園田の目の周りには、綺麗に白い跡が付いていた。


「何だよー、来た意味なかったじゃん。」と言って、彼は防波堤の上で大の字に寝そべった。コンクリートには、昼間にたまった熱がまだしっかりと残っていた。

「釣れるか釣れないかなんて、どうでも良いんだよ。」と、園田は海を見たままぽつりと言った。

「え?」と言って、彼は少しだけ体を起こした。

「他に何があるんだよ?」


園田は何も言わずに、しばらく海を眺めていた。優しく吹いてきた潮風が、その額にかかった髪を軽く揺らした。遠くの方で、カモメが海の上をぐるりと回りながら飛んでいた。


園田はやがて彼の方を見てふっと笑うと、

「この時間だよ。」と言った。

「お前と釣りしてる、この時間だよ。」


彼は一瞬、また園田が冗談を言っているのかと思った。しかしサングラスの跡がくっきりと付いたその横顔は、潮風に吹かれ、なぜかいつもよりずっと凛々しく見えた。

彼があっけに取られていると、横に置いてあった竿が急にビクンと引っ張られた。彼は慌てて竿を手に取ってリールを巻いた。手には久々に伝わってくる、生きた魚の感触があった。


釣りあげてみるとそれは立派な大きさのカサゴだった。カサゴは防波堤の上で、水を求めて勢いよく跳ねた。

「ほらな?」と言って園田は笑った。

「変な欲が無くなると、釣れるもんなんだよ。」


その後二人は夜になるまでにそれぞれ三匹ほどの魚を釣り上げた。クーラーボックスが無かったので、釣った魚は海に返した。

すっかり暗くなった公園を歩きながら、

「どう、気分転換になった?」と園田が尋ねた。

「ありがとう。何か、めちゃ楽しかったわ。」と答えて彼は頷いた。

「なら良かった。」と言って、園田は満足げに鼻歌を歌い始めた。どこかで聞いたことがあるような適当なメロディーだった。夜空にはもう星が瞬き始めていた。

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