第14話

「でも私、試験の点数なんて結局どうでもいいと思うんだよね。それより大事なことが、もっとたくさんあるんじゃないかって。」

「例えば、どんなこと?」と彼は尋ねた。


松岡さんは草履を履いた両足をゆっくりと伸ばすと、自分のつま先を眺めた。まるでそこに、何かの答えが書かれているかの様に。

「んー例えば、誰かが助けをしてる時に、周りの目なんて気にしないで、すぐに手を差し伸べられるような、そんな人であることかな。」

彼女の答えは彼が全く予期していなかったものだったが、彼は思わず

「確かに、それは大事なことだね。」と答えて頷いた。


「でしょ?」と言って松岡さんは笑った。

「私、小学校の頃なんだけど、仲良くしてたグループから追い出されちゃって、誰とも話せなかった時期があるの。」

「そうだったんだ。」と彼は驚いて言った。彼の記憶の中の松岡さんは、いつも女の子の輪の中心にいた。

「うん。それで、いつも昼食の時は友達同士で集まって食べるんだけど、私ずっと一人で、いつも泣きそうになりながら食べてたの。」


彼はその場面を想像して、胸の奥が痛くなった。いじめられる事も辛いが、誰とも話せずにひとりぼっちでいることも、小学生にとっては辛い経験だ。


「そんなある日にね、それまで全然話したこともなかった子が、一人で食べてる私の所に来て、一緒に食べよ!って言ってくれたの。信じられなかった。のけ者にされてる私のことなんて誘っても、その子が得することなんてないもの。私はただ感動して、泣きそうなくらいに胸がいっぱいになった。彼女はきっとそんな昔の事忘れちゃっただろうけど、私は一生忘れないと思う。あの時のことを思い出すといつも思うの。たった一言で、人は心の底から救われることがあるんだって。」

松岡さんはそう言って、彼に微笑みかけた。


信濃町駅の改札につくと、彼は笑顔で

「じゃあ、また今度。」と言った。

しかし松岡さんはそれには答えずに、少し困ったような表情になった。


残業を終えたサラリーマンたちが、疲れた足取りで改札を通りぬけて行った。

彼は突然の沈黙に戸惑いを感じながら、松岡さんを見つめていた。彼女はしばらくの間何かを考えていたが、やがて穏やかな口調で言った。

「今日はありがと。藤本君と野球観に来れて、すごく嬉しかった。でも、なんか長い時間が経っちゃったんだなって、そんな気がして。」


彼は周囲に溢れていた音が、急に小さくなっていくのを感じた。何もかもが、彼の手の届かない所へ行ってしまうような、そんな感覚があった。

お互いに成長して、中学生の頃のような純粋な関係ではないこと。それは彼も今日ずっと感じていたことだった。今の松岡さんはとても素敵で綺麗だったが、彼が昔好きだった松岡さんとは何かが違っていた。きっと、彼自身も中学生の頃に持っていた何かを、すでに失ってしまっていたのだろう。

「確かに、そうかもしれないね。」と彼はつぶやいた。


松岡さんはふっと笑って、

「藤本君、大学でモテるでしょ?」と言った。

彼は驚いて、

「全然、そんなことないよ。」と答えた。

「そんな風に見える?」

「うん。喫茶店で会った時、ビックリしちゃった。カッコよくなってたから。」


彼は何だか嬉しくて、心が少し熱くなるのを感じた。

「ねえ、これからも何かあったら連絡していい?」と松岡さんは彼に尋ねた。

「そりゃあ、もちろん。」と彼は答えた。

「約束だよ?」と言って、彼女は彼の手をそっと握った。

「うん。」と言って、彼は頷いた。


改札を通り抜けた後、松岡さんは、

「じゃあ、またね!」と言って手を振った。艶やかな浴衣の袖が、彼女の腕の動きに合わせて小刻みに揺れた。

彼が笑って手を小さく上げると、松岡さんは何度か彼の方を振り返って手を振りながら、人ごみの中へ消えて行った。


彼はしばらくの間、その後ろ姿を見ながらぽつんと立っていた。

神宮球場を出てから、まるで夢を見ていたかのような、あっという間の出来事だった。

サラリーマンたちが、そんな彼の横を足早に通り過ぎて行った。


彼はやがて小さく息を吐いて、松岡さんとは反対側のホームへと降り、丁度到着していた電車へと乗り込んだ。

その電車に乗り込むと、彼は吊り革につかまった。目の前のガラスには、少し疲れた様子の彼が映っていた。それを見た彼は思わずふっと笑って、お疲れ様、と心の中でつぶやいた。

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