第7話

翌日の昼近く、彼は松岡さんの働いている喫茶店へ行ってみる事にした。

乗り換えのために降りた新宿駅はいつもの通りごった返していて、あらゆる人々の熱気に満ちていた。そのせいか中央線に乗り込むと、天井の扇風機から送られる冷気はいつもより新鮮に感じられた。


20分程経って彼の乗った電車は武蔵境駅に到着した。

駅は彼が子供の頃に来た時よりもずっと開発されて、お洒落な雰囲気に変わっていた。彼は駅ナカにある店を少し覗いてから改札を通り抜けた。駅前に植えられた緑は、夏の太陽からの光を目一杯吸収していた。


駅前から続く大通りを10分程歩いてわき道に入った所に、松岡さんの働いているという喫茶店はあった。こぢんまりとしていて隠れ家の様な雰囲気のある喫茶店だった。茶色い古びた扉にはすりガラスの窓が付いていて、中の様子をぼんやりと映し出していた。


彼が扉を開けた時、内側に付いていた小さな鈴がからからという乾いた音を立てた。喫茶店の中には松岡さんの姿はなく、カウンターの中には店主らしき男性が立っていた。口元に蓄えられた髭のおかげで40代のように見えたが、本当はもっと若いのかも知れなかった。男性はにっこりとした笑顔を見せて、

「お好きな所へどうぞ。」と言った。


周りを見回してみると客は彼のほかはふた組だけで、どちらも初老の女性同士だった。

彼は一番奥の窓際の席に腰を下ろした。店内にはアンティークの机や椅子が置かれ、小さな音でジャズがかかっていた。


彼が注文をしようとカウンターの方を見た時、お冷をお盆に乗せて運んでくる店員の女性と目が合った。

エプロン姿が良く似合うその人は、間違いなく松岡さんだった。

昔より少し背が伸びて長かった髪は肩ぐらいまでに変わっていたが、その落ち着いた雰囲気は昔のままだった。

その時彼は懐かしさと喜びで、心が一杯になるのを感じた。


彼女の方も彼に気づいたようで、嬉しそうな笑顔を見せてお冷を置くと

「ご注文はお決まりですか?」と尋ねた。

その声の響きの中には、仲の良い友人に対するような親しみが込められていた。

彼は眉をちょっと上げて屈託のない笑顔を見せると、

「じゃあ、アイスコーヒーで。」と答えた。

その時彼はほんの少しだけ、時が巻き戻った様な気がした。


そのあとしばらくの間彼はアイスコーヒーを飲みながら、大学で出されたレポートを書いていた。アイスコーヒーはブラックで最初の一杯をすぐに飲んでしまうと、お代わりをして今度はミルクと砂糖を入れて飲んだ。

彼は友達の前ではコーヒーをブラックで飲むことが多かったが、本当は甘い方が好きだった。店内は彼が入った時よりもだいぶ客が増えてきて、松岡さんはあちこちで注文を取ったり机の片づけをしたりしていた。彼は時折視線を上げてその姿を眺め、氷の溶けかけたアイスコーヒーをごくりと飲んだ。

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