第2話

彼はスマホの乗り換え案内に従って山手線で田端まで行き、そこで京浜東北線に乗り換えた。冷房の良く効いた車内には、人がまばらに座っていた。小学校がまだ夏休みに入っていないせいか子供の姿は見えず、大体は主婦か老人だった。

彼は長椅子に腰を下ろすと、何となく車外の景色に目を向けた。晴れ割った空から注ぐ日差しが、線路の石をジリジリと焼いていた。


20分程で目的の南浦和駅に着きホームへ降りると、彼は全身に茹だる様な暑さを感じた。

改札を抜けると、夏の強い日差しに彼は思わず目を細めた。ゆっくりと歩いていても、Tシャツにはうっすらと汗が浮かんできた。

子供の頃の夏も暑かったけれどここまでは暑くはなかったよな、と彼は思った。「これが地球温暖化ってやつなのかな。」と言って彼はため息をついた。


駅から10分程歩いて、彼は祖母の住むアパートに辿り着いた。アパートと言っても2階までしかなく、外の階段を上がれば直接入れる作りの簡単なものだった。向かいの家の前では、中年の男性が道路に水を撒いていた。彼は念のため表札を確認してから玄関の呼び鈴を鳴らした。


しばらく経ってから、祖母が顔を出した。

「あら、珍しいねえ。」と言うと、祖母は少し嬉しそうな表情になった。

部屋に入ると、むっとした熱気が彼を包んだ。

「ばあちゃん、ちゃんとクーラー入れないと熱中症になるよ。」と言いながら、彼は冷房のスイッチを押した。

久しぶりに見る祖母は前よりも腰が曲がった印象で、心なしか歩く速さも遅くなった様だった。ただ笑ったときにくしゃっとなる笑顔は、昔と全く変わっていなかった。


「お腹、減ってない?」と祖母に聞かれ、彼はまだ昼食を取っていなかった事を思い出した。

「食べてない。」と彼が言うと、祖母はそうめんを湯がいてくれた。

湯気の立つそうめんが氷水の中に入れられると、しゃりん、という心地の良い音がした。


昼食の後祖母がテレビを見始めたので、彼は何となく隣の和室の襖を開けた。

和室の中もやはり冷房は付いていなかったが、何故か暑さは気にならなかった。和室は8畳ほどの広さで、窓から差し込んだ光の中に埃がきらきらと舞っていた。襖を閉めると、そこには畳の懐かしい匂いが満ちていた。


ふと彼は、その部屋がとても静かな事に気が付いた。ただ単に静かなのではない。まるで襖を隔てて違う世界に来てしまったかのように、不思議なほど静かなのだ。隣の部屋で祖母が見ているテレビの音が、遠の方で小さく響いていた。時折通り過ぎるバイクのエンジン音は、その部屋の静けさを逆に際立たせていた。


彼は畳に腰を下ろし、ぼんやりと窓の外に目を向けた。その部屋には、時がゆっくりと流れていく様な感覚があった。部屋の隅に置かれた琴や薄らとほこりを被った電灯は、まるで何十年も前に歩みを止めてしまったかのようにただそこに存在していた。


ずっと前にどこかに、この部屋と同じように驚くほど静かな部屋があったような気がする、と彼はふと思った。

しかしその部屋のことを思い出そうとすると、彼は急に耐え難い程の息苦しさを感じた。心拍数が上がり、手のひらにはじっとりと汗が浮かんだ。何故そんな事が起きたのか、彼にはその理由が全く分からなかった。


彼は心を落ち着かせるために、目を閉じて深呼吸を始めた。

「心が乱れた時にはな、息を大きく吸ってゆっくりと吐くんだ。そうすれば、そのうちに心は落ち着きを取り戻すから。」と、昔彼の父がよく言っていたのだった。しばらくすると確かに、彼が感じていた息苦しさは和らいでいった。


息苦しさが去って行った後も、彼はそのまま目を瞑ってじっと畳の上に座っていた。そうしていると普段彼を取り囲んでいる騒音に満ちた世界から、自分自身を切り離せる様な気がしたからだった。その間も時は、ただゆっくりと流れて行った。


気が付くと彼は、全身にじっとりと汗を掻いていた。彼が立ち上がって襖を開くと、祖母は椅子に座ったままうたた寝をしていた。

時計はいつの間にか午後3時を回っていた。彼は祖母の肩にそっと手を乗せ、「そろそろ帰るね。」と伝えた。

祖母は目を覚ますと、「早いわねえ。」と少し残念そうに言った。

玄関のドアを開くと外の世界は相変わらず、騒々しい音に満ち溢れていた。

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