忘れた男、恋する女。

しいらし ゆう

第1話 忘れた男


 あの光景を忘れることなど出来る訳がない。中学2年の夏だった。家族で乗った車が緩いカーブに差し掛かったちょうどその時、対向車線から勢いよく飛び出してきたトラックが、俺たちの車に真正面から激突した。

 ガソリンとタイヤの焦げる匂い。車内に響き渡る悲鳴が聞こえたのはほんの一瞬で、気づいたら俺は病院にいた。家族で無事だったのは俺だけだった。

 俺の怪我は決して軽くなかった。脳へのダメージが大きく、人の喜怒哀楽を司ると言われている大脳辺縁系を損傷した。医者はそう言った。

 最初はその言葉を信じられなかった。退院した後も、たまに酷い頭痛があるぐらいで、大脳辺縁系に障がいが残っているとは到底思えなかった。

 だが、俺が脳の異変に気づいたのは葬式の場だった。棺桶に入った親の顔を見た時、俺の心はなぜかほとんど空っぽだった。悲しいという気持ちはあったがそれ以上に大きな感情、「愛」を感じることができなかった。それ故に俺は、親の顔を見ても恐ろしく冷静で、ただ他人が死んだだけのような、そんな残酷すぎる感情しかなかった。そんな自分が何よりも怖かった。

 その時、俺は察したのだ。俺は「愛」を失ったのだと。それは親への愛に限らず、異性に対する愛、友人に対する愛、物に対する愛など、範囲は広かった。

 当時の彼女にはすぐフられた。友達はだんだん減っていった。小説もドラマや映画も楽しめなくなった。意識すればするほど、俺には人を愛する気持ち、人を好きになる気持ちを忘れてしまったのだと、自分を責める時間が続いた。

 そして、それは6年が経ち大学生になった今も同じだ。



 2限の授業が終わった。学生たちは先を急ぐように教室を出て行って、食堂を目指す。リュックの中身を整理しているうちに、教室は俺ただ1人になってしまった。

 背中に担いだリュックは軽い。せっかく晴れているのだから、今日は歩いて帰ろう。そう思いながら、俺も教室を出た。

「よ!悠真」

 ちょうど廊下に出た瞬間、松岡若葉がいきなり声をかけてきた。俺の脳のこと、事故のことを唯一知っている幼馴染だ。

「おう。どうした急に」

「外でご飯でもどうかなーって。それだけ」

「いいけど、午後は授業ないの?」

「ないよ。悠真は?」

「ない」

「じゃあ決まりだね。連れて行きたい店があったんだ」

 そう言うと彼女はせかせかと歩き始めた。

「足速いって!」

「ランチの時間は混むの。急いで!」


 彼女に連れてこられた場所は、大学を出て5分ほど歩いたところ、駅前に新しくできたパンケーキ屋だった。看板はフランス語のような文字が書かれており、オシャレな仕上がりになっている。

 彼女の言葉通り、店内はそれなりに混んでいた。どの席も女の子ばかりで目がチカチカしてしまう。

「ね、何がいい?」

「なんでこんなところに俺を?」

「いいじゃんいいじゃん。早く選んで。私はもう決まってるから」

 彼女は俺にメニューを渡した。蛍光色強めの冊子を開いて、1番シンプルなものをチョイスした。注文は店長らしき男性が取った。

「で、なんで俺をここに?」

「悠真さ、前のバイト、クビになってお金困ってるでしょ?」

「まあ、そうだけど」

「この前の面接は上手くいったの?」

「いや、もう2週間経つけど電話のひとつもない」

 彼女は俺を事故の前から知っている。だからこそ、こうやって俺のことを気にかけてくれる。

「実はこの店の店長さん、私のお父さんの知り合いなの」

「あ、そうなんだ」

「そう。でね、店長さんなら悠真のこともちゃんと理解してくれるんじゃないかなって。この店も出来たばっかりで人手も足りてないし」

「でも俺、人前には立てないよ、きっと」

「大丈夫。仕事内容は事務。店のSNSの管理とかホームページの管理とか、そんなの」

「……」

 酷い頭痛があるせいでアルバイトも満足にすることは出来なかった。

「ね、どう?お金のこともあるんだしさ」

 両親を亡くした俺にとっては、アルバイトをしなければ生きていくことさえできない。今の状況が続けば、大学を辞めなければいけないのだ。

「……わかった。ありがとう。やってみる」

「ホントに!?」

 若葉はホッとした様子を見せた。彼女には感謝をしてもしきれない。こうして支えてもらった機会は数えきれないほどある。

「じゃあさ、私も一緒にやろうかな。ここでバイト」

「え?若葉も?」

「いいでしょ?別に」

「まあ、俺がとやかく言えることじゃないからな……」

「じゃあそうする」

 ちょうどその時、俺たちのテーブルにパンケーキが運ばれてきた。しかしそれは俺の知っているパンケーキよりもかなり分厚く、一見カップケーキのような見た目をしている。

「これ、すごいね」

「でしょ?」

 彼女は鼻が高そうだった。お昼ご飯には少し高いが、甘いハチミツのかかったパンケーキはそれに値する美味しさであった。

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