天壌霊柩 ~超高層のマヨヒガ~ 第26回

 浴衣姿の康成が、拓也に言った。

「真弓君をここに呼んだのは、どうしても確かめたいことがあったからなんだ」

 拓也が怪訝な顔をすると、

「なぜ沙耶がいじめられていた件を、わざわざ週刊誌にリークしたのか」

 拓也には意外すぎる話だった。

「君が驚くのも無理はない。私の言葉だけでは信じられないだろう。しかし私だって、何の確証もなく人を拉致したりしない。これでも昔は公務員だ。偽善かもしれないが、いつも『全体の奉仕者』であろうと努めていた。貞子さんや伽椰子さんとは立場が違う」

 康成は台所の方に手招きして、

「坂本君、ちょっといいかな」

 正座していた中から、私服の男が一人、ゆらりと立ち上がった。

 その男に注目した拍子に、拓也は横にいる別の二人の顔に気づいた。中学の教頭と、あの若い市教職員の一人――自分が見せられた佐伯康成の夢は、役者が限られているらしい。

 坂本と呼ばれた三十才前後の男は、生気のない表情と力の抜けた歩調で、佐伯一家の横に控えた。

「君の名刺を、彼に見せてくれたまえ」

 男は拓也に近寄って膝をつき、オープンシャツの胸ポケットから一枚の名刺を差し出した。

 この人も、もう生きていないのか。さっきの死体の中にいたなら、かなり前に死んだはずだ――そう拓也は思ったが、目上への敬意を払い、会釈して名刺を受け取った。

 名刺には『週間文潮 報道部 坂本京三』とあった。

「週間文潮……」

 午前中に会った兵藤信夫と、同じ職場の記者である。ビジネスマンらしくない風体も、確かに兵藤記者と共通している。

 康成は言った。

「彼の取材用パソコンを見せてもらった。彼自身にパスワードを解除してもらってね。間違いなく真弓君と連絡を取っている。それも五月からだ」

 拓也は迷わずに返した。

「僕にも見せてください」

 真偽を確認しない限り、当惑も推測も無意味である。

「残念ながら、それはできない。もうバッテリーが切れている。充電器があったとしても、ここには使えるコンセントがない」

「それじゃ信用できません」

 康成は微笑して、浴衣の懐から手帳型のスマホケースを取り出し、

「でも、これが誰のスマホか、拓也君なら判るね」

 ワインレッドの本革の隅に、黒い猫のシルエットが型押しされている。

「……はい」

 康成はケースを開いて、拓也に手渡した。

「近頃の技術進化は大したものだ。私がここに落ち着く前は、指紋認証を備えたスマホなんて、まだ噂程度しかなかった。たびたび真弓君の指を借りるのも気が引けるから、隠しフォルダを開いたままにしてある」

「…………」

「五月の頭に、週間文潮からメールが届いているね」

「……はい」

 拓也が目を通すと、おおむね以下のような内容だった。

 ――あなたの投書に同封されていた写真は、確かに合意の上の冗談事ではなく、強制されたものと見受けられる。それが事実なら、いじめを超えた悪質な犯罪行為に他ならない。ついては当編集部の記者が、近日中に蔦沼市を訪れて現地取材を行うが、その際、よろしければ、あなたからも詳しい話を伺いたい――。

「そして真弓君は、すぐに承諾の旨を返信している」

 それが事実なら、妥当な理由が必要だ――拓也は数瞬の沈黙を経て、

「……たぶん麻田さんは、あの件を、うやむやにしたくなかったんだと思います」

「確かに、少女らしい潔癖さ、若さゆえの正義感――そう受け取れないこともない」

 康成は、拓也自身の逡巡を見透かしたように、

「しかし、仮にも一度は片づいた件を、なぜ何ヶ月も後になって蒸し返したんだろうね。君に負けない思慮分別を備えているはずの真弓君だよ。この件が日本中に広まったら、沙耶や綾子は以前の何倍も苦しむことになる。その程度の事を、想像できないはずがない」

 その通りなのである。仮に、真弓も犬木茉莉からあの写真を誤送信されており、正義感に駆られて行動を起こしたなら、沙耶と綾子が泣き寝入りする前、あるいは直後でなければ不自然だ。

 拓也が反論できずにいると、康成は続けて言った。

「拓也君、今の君には解らないかもしれないが、すべての女性に対して優しい男は、時としてすべての女性に罪を振りまくよ。誰にでも優しい上に、顔と体と頭、その三拍子が見事に揃っている男なら、もはや台風の目になる。周りの御婦人方が、ずぶ濡れで宙を舞っている台風の真ん中で、一人だけ、何も知らずに青空を見上げていたりするのさ」

 康成は微笑しながらも、目の奥に鋭い皮肉を宿していた。

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