影法師の恋

第1話 聖女というもの




 聖女の話をしよう。

 一般的に聖女と言えば宗教の聖人に列せられた女性を示す言葉といえる。気高き信仰心を他者が推し量る矛盾を含みながらも大陸の他の国では概ねその使い方で間違いは無い。ただ、ヒューゲルに関しては話は別だ。端緒は、聖女ウルヴィナの存在である。彼女は生まれた時から聖女だったわけではない。その生涯を閉じる間際になって、功績を讃えられた純粋な人間である。聖女ウルヴィナの奇蹟は枚挙に暇が無い。死の淵にあった不遇の青年を陰府から引き戻し、汚れた川を澄み切った川に戻し、日照りには雨を降らせ、石をパンに変える事すら出来たという。数多の奇蹟に彩られた彼女は畏敬の念を込めて、“聖女”と評された。そして、時は経て、彼女と同じような奇蹟を起こす存在もまた聖女と歌われるようになった。嘗てのように異形の力をもってではなく奇蹟の程度は小さくなれども、民衆からの激しい支持は変わらない。体制に阿る事なく活動するからこそ、聖女は聖女たらしめた。聖女は常に権力の外側に有り、神聖にして侵すべからず存在となっていた。だが、それを転換させたのはラインヴァルト4世である。時として体制に逆らう聖女は民衆といううねる力を持つ厄介な存在でもあった。聖女ウルヴィナ以降数多の悲劇が聖女を見舞う厳然たる事実があり、それを庇護するという名目で聖女という存在を御すことに成功する。ここに、聖女は権勢に飲み込まれる事となる。純然たる市井の人ではなくなった聖女への尊崇の念が陰るわけでもなく、民衆にとってやはり聖女は特別な存在であり続けた。だが、聖女が形骸化してきたのもこの時分であった。功業に基づいて聖女だと認識されてきたがラインヴァルト4世は特異な力で聖女を可視化することに成功する。聖女の鏡と呼ばれるそれは、万人を映し出し、唯一、聖女のみを映さない鏡であった。そして、やがて国は年頃の娘を鏡に映しては、その姿を留めなかった者を手元で養育するようになる。庇蔭するといえば聞こえが良いが何も為していない少女の全権を国が掌握するという異常事態に異を唱えるのは、聖女本人であろうとも出来なくなっていった。次第に国が聖女を自分達の為に運用するようになり、聖女は、国の鼓吹という枠に押し込められることになった。嘗て、諸国を回っていた聖女が、悪しき人によって危害を加えられたのは珍しい話ではない。聖女であることは危険と隣り合わせでもあった時代と比べれば、今の待遇は雲泥万里だろう。だが、逆転したのは聖女としての在り方も同様だ。尊いから聖女なのではなく、聖女なのだから尊い、という王権によってすり替えられた認識の固着は誰を咎める事は出来ないだろう。


 聖女とは、万能の救済者ではない。





「ちょっと、先刻の振る舞い、なんなのよっ」

 華のある容に慍色を浮かべた少女は椅子から立ち上がり、仁王立ちをする。落陽の時の色をした長い髪を鬱陶しそうに手で払うと、蒼穹の如く澄み切った青色をした双眸を鋭く走らせ、“聖女”ユーディットは目の前の人物を威嚇する。

「ごっ、ごめん」

 ユーディットの怒気を真正面から馬鹿正直に受け取った薄茶色の髪と蒼海の如く深い青色の眼を持つ少年は萎縮する。

「ごめんじゃないわ、テオフィル」

 ユーディットは謝罪をにべにもせず不服そうに頭を振る。合わせ鏡のように淑女としての同じ格好を二人はしている。

「あんな風に私は微笑まないわ。聖女らしく気高く、そして静謐に、麗々としたものではなく瀟洒とした控えめな笑み。庇護を抱かせるのではなく恭順を、こうよ」

 笑みを象ったユーディットにテオフィルは自分の出来ないそれに感服する。一縷の隙の無い完璧な笑みは美しさを極めたもので魅入るのが普通だろう。付き合いが長いテオフィルですら一瞬、時が止まったと錯誤するのだから一般民衆には強力な武器となるだろう。

「あんなヘラヘラと締まりの無い。私の身代わりだという意識はあるの?」

「……分かってるよ。でも――」

「でもも何も無いわ。私の代役なんだからしっかりとしてよね」

 ユーディットの言葉に逆らうことなど出来ずテオフィルは顔を俯かせる。

「ユーディット、フィルは反省している。助言は十分だろう」

「……分かったわよ」

 自身の騎士に窘められたユーディットは溜息一つ漏らして頷いた。救いの声に感謝の意を伝えるべくテオフィルは顔を向けるが視線が絡む事はない。二人の遣り取りを唯一目撃していたフォルトゥナートは普段通り、感情の起伏を見せない容を見せるだけだ。

「自分の役割というものを自覚しなさい。そうでなければ――」

 言い足りないのか途端説伏になりかけるユーディットの様子にテオフィルはげんなりとするがそれを表層には浮かび上がらせない。再度の救援を求めるようにテオフィルはフォルトゥナートに視線を投げかけるが、一方通行のそれは虚しく宙を掻くだけだ。

「――聖女ちゃん、元気?」

 ノックもなく開け放たれたドアと響き渡った声にユーディットの表情が固まったのをテオフィルは目視する。尤も、硬直したのは一瞬で即座に笑みを浮かべ、腰に当てていた手は淑やかに前で組まれ、中腰になっていたユーディットは椅子にポスンと座る。キラキラと目映いばかりの笑みで誤魔化そうとするユーディットに感服しながらテオフィルは控え室に飛び込んできたノルドに目を遣った。

 ノルド・シュトラウス――聖女の警備を主務としている軍人の一人である。一人、というのは、警備は幾人かで一つのグループを組まされており、交代制で成り立っている為だ。そのグループの一つの隊長がノルドである。神聖にして侵すことを許されない聖女と民衆の距離を保つ調整弁のような役割を担っている。

「まぁ、ノルド様、唐突で驚きましたわ」

 卒の無い振る舞いと涼やかな風のような声を発したユーディットは笑みを崩さない。ノックぐらいしろよ、というユーディットの心底の不満を肌で感じとったテオフィルは余所事ながら顔を青ざめる。ユーディットの機嫌はテオフィルの精神状態と直結していると言っても過言ではない。ユーディットの慍憤は密やかに周囲に波及するのだから仕方が無いことだ。

「ノック忘れちゃって、ごめんね。聖女ちゃん、式典に出てこなかったから心配してね。急に影ちゃんに交代してたから吃驚した」

 その軫憂に欺瞞は見受けられない。少なくともテオフィルの持つ惻隠の情には近いものだが、ユーディットの笑みが崩れないことが警戒を示している。

「お伝え出来ずにごめんなさい。急に目眩がしてしまって、テオフィルにお願いしたの」

 儚げに微笑んだユーディットにノルドは納得の頷きを見せる。


 『こんな儀礼的な式典、私が出る必要は無いわ』


 『猥雑なものだもの、テオフィルで十分よ』


 式典の前に襟首を掴まれて投げかけられた言葉を思い出してテオフィルは思わず遠い目をしてしまう。それを見ていたのはフォルトゥナートのみで言葉を差し挟む余地など当然のようになかった。ユーディットと同じ色のウィッグを被り、痩躯に豪奢なドレスを身に纏いテオフィルは代打の役割を全うした。尤も、全うしたと思っているのはテオフィルだけで、ユーディットは納得していないから冒頭に戻るわけだ。

「影ちゃんもお疲れ様」

「いや、俺は全然役に立てなかったから」

 叱責を思い出してテオフィルが気落ちした様子で返答すればノルドは首を傾げる。

「聖女ちゃん、身体弱いんだから気を付けてね。なにかあったら僕達のこと頼ってくれて良いからね」

「ノルド様、何度も申し上げましたが、その大仰な呼び方……私にはユーディットという名前がありますわ」

 付き合いの長いテオフィルとフォルトゥナートには察知出来る僅かな苛立ちを滲ませたユーディットはさも困っていますという表情を前面に押し出す。

「ああ、ごめんね。僕なんかが名前を呼んだら申し訳なくてね」

 ノルドの言葉にテオフィルは直感的に、嘘だと感じ取る。理由は分からなくとも、ノルドは敢えてそれを選んでいるような気がしてならない。

「まぁ、ノルド様ったら」

 ふふ、と笑みを漏らしたユーディットの心底を思うとこの後八つ当たりをされるのではないかとテオフィルは不安に襲われる。ふと、フォルトゥナートを窃視すればユーディットに視線を注ぐばかりでテオフィルの視線には気付いていないのか、それとも意識を割く必要が無いと判断しているのか眼差しに揺らぎはない。

「予定ではこの後、病院に慰問だけど大丈夫?」

「ええ、這ってでも完遂して見せますわ」

 耳朶に触れる言葉には芯があって、ユーディットにとって本日最優先の予定がそれであったとテオフィルは今更ながら思い出す。

「聖女ちゃんは強いね」

 ノルドの言葉に反応を返すことはなくユーディットは椅子から立ち上がるとテオフィルに視線を向ける。

「表にいる民衆の対応はテオフィルに任せます。私は先に裏から馬車で病院に向かいます。フォルトゥナートを貸しますので分かっていますね」

 同じ轍を踏むなよ、と視線に込められたユーディットの意図を受け取ってテオフィルは凋んだ心を抱きながら首肯する。

「フォルトゥナート、テオフィルを頼みます」

「承知しました」

 騎士然として胸に手を当て軽く頭を下げたフォルトゥナートは言葉少なに、受け入れる。ユーディットとフォルトゥナートの視線は絡み合うが、それで十分だと視線は一瞬で直ぐさま切られた。

「では、ご案内しますよ。聖女ちゃん」

 ユーディットの蟀谷がヒクリと微かに上下に動いたのを横目で確認しながら、テオフィルは机に置いたウィッグに手を伸ばした。

「フィル、行くぞ」




 騎士とは主君に仕え忠孝を果たす者、というのが多くの国にとっての認識だろう。ヒューゲルにとっても中興の祖ではあるのだが、それは一昔前の話だ。現在において、騎士という存在はいない。騎士に類似した役割を担っているのが軍人だろう。だが、武人としての役割が重なっているだけで忠義を求められていない軍人は些か騎士道精神から逸脱している。最早、儀典の役職の一つに過ぎなかった騎士を表舞台に引き摺り出したのが当代の“聖女の騎士”であるフォルトゥナートであった。今迄の聖女の騎士には形骸化した役割しか与えられていなかったし、儀礼的なものであった。実際に、現在において聖女の身の安全を確保するのは警備隊に回された軍人であり、聖女の騎士というのはやはり聖女を装飾する仕組みの一つでしかなかった。聖女の警護をする軍人を凌駕する武威を誇ったフォルトゥナートの着任はそれこそ異例と言われるものであった。その証拠に“ヒューゲルの厄災”“黒の双剣”と彼を指し示す通り名が畏敬を持って語られる。そのフォルトゥナートが聖女の騎士になることを渇望したというのは公になっている有名な話だ。顔貌優れるフォルトゥナートが聖女に傅くその様子は大衆から歓迎され受け入れられている。騎士と聖女は年若い少女の羨望の的となっている。

「どうした? 俺の顔に何か?」

 テオフィルの視線を感じ取ったフォルトゥナートは前に向けた顔を逸らすことなくテオフィルに声を掛ける。黒を基調とした軍人の纏う軍服よりも装飾過多なそれを鬱陶しがることなく悠然と歩く様子が様になっていてテオフィルは目を奪われる。スラリと伸びた手足に服の上からでも分かる筋肉の付いた肢体は羨むばかりだ。

「いや、別に」

 嫉妬するのが馬鹿らしいほどフォルトゥナートは同性から見ても惚れ惚れとする男っぷりだ。これで中身が下種であれば溜飲も下げることができただろうが、人格者なのだから文句の付けようがない。

「そうか、なにか問題があるようなら言ってくれ」

 絨毯の引かれた廊下を進みながらテオフィルは裏口から病院へ向かうというユーディットの状況を気にしながら外から聞こえてくる歓声に耳を傾ける。

「相変わらず、凄いな」

 民衆の熱のようなものを感じ取ってテオフィルは思わず声を漏らしてしまう。

「そうだな。ユーディットは敬慕されている」

 深く頷いたフォルトゥナートに茶々を入れる雰囲気ではなくテオフィルは口を噤む。歩幅に注意をしてドレスの裾に足を引っかけないように注意しながらテオフィルは足下ばかり気にしてしまう。

「胸を張って前を見ろ。ユーディットはこういう場合俯かない」

 よく知っている、とテオフィルはフォルトゥナートの助言を受け入れて頷く。付き合いの長さで言えば影として付き従わざるを得なかったテオフィルの方が時間の共有はあるというのに、ユーディットを理解しているのはフォルトゥナートの方ではないかとテオフィルは思わざるを得なかった。ユーディットが聖女の間に連れて行かれ鏡にその姿を留めなかったのは十を過ぎた頃だった。遠縁のテオフィルは聖女の身代わりとして、従者として国に招聘された。それからの付き合いだから、五年はユーディットに付き合っているのである。五年で相互理解に至っているのかと言えばテオフィルは強く頷く事は出来ない。聖女然とすることもあれば、聖女である事を放棄して職務を押しつけてくる事もあるのだから、万人が平伏する高潔な聖女だとは言えないだろう。我が儘も言うし、気軽に苛立ちをぶつけてくるし、テオフィルにとってユーディットは歳の近い、ありふれた少女でしかない。手の掛かる妹分のその負担を軽くする為、日夜、精神を磨り減らしているのである。苛立つ事もあるが、尽力したいと素直に思うのだから仕方がない。

「覚悟は出来ているか」

 フォルトゥナートの言葉にテオフィルは頷く。こちらに向けられた顔に、漸く、こちらを見た、と妙な感想を抱くがそれは一瞬で掻き消される。

 フォルトゥナートの手が両開きのドアを開いた。途端、視界に広がる吹き抜ける青にテオフィルはたじろいでしまう。

「馬車に乗る、それだけだ」

 耳元でフォルトゥナートに囁かれてテオフィルは足を踏み出す。耳を劈くような歓声に笑みで応えて手を振る。歩くべき道は警備されているが両脇から民衆がこちらに手を伸ばしてくる。数十メートル先の馬車に乗り込むのにどれだけ時間が掛かるだろうかとテオフィルは笑みの下で考える。警備の隙間からなだれ込もうとする人の姿を視認してテオフィルの歩みが止まる刹那、強い力で身体が引っ張られる。

「こちらへ」

 テオフィルの腰に手を回して自身の方へと引き寄せたフォルトゥナートの行動に群衆が一層ざわめく。節張った男らしい大きな掌に腰を掴まれたテオフィルは、心臓が一際強く跳ねたのを感じ取る。咎めるように視線を向けるが、受け流したのかフォルトゥナートはテオフィルを見ることなく前を見据えている。

「聖女様、どうかこちらに笑みを下さい」

「この国の行く先をお願いします。頑張って下さい」

「ユーディット様、この子に祝福を授けて下さい!」

「どうか幸運を与えて下さい」

「聖女様、これからも応援しています!」

 フォルトゥナートの歩幅に合わせて大股で歩きながらテオフィルは馬車へと導かれる。歓声の波濤に飲み込まれないように回避したテオフィルは後ろから背中を乱雑に押される。ドレスの裾に左足が突っかかり更に前のめりになりそうなテオフィルの腹にフォルトゥナートは後ろから手を回した。

「大丈夫か?」

 声色を潜めたフォルトゥナートに、誰の所為か、とテオフィルは睨み付けようと顔を後ろに向けるが思いの外近い、フォルトゥナートの顔に驚いてしまう。

「っ!」

「どうした」

 息が触れ合うほどの距離に、テオフィルは思わず息を呑んでしまう。肌のきめも細かく鼻筋もスッと通っていて、切れ長の目も人を惹き付けて止まない。

「っ……、嫌味なくらい美形だな」

 吐き捨てるように告げればフォルトゥナートは首を竦めるだけだ。そんな姿すら様になるのだから美形とは全く得だな、とテオフィルは心の裡に漏らした。

「きゃあ、フォルトゥナート様がユーディット様をお支えしてますわ」

「お二人が見つめ合っている」

「お似合いな二人だ」

 一際高い歓声に押し込まれるような形で馬車の奥へとテオフィルは不格好なまま滑り込む。この姿をユーディットに目撃されたならば見咎められただろうが、ユーディットは裏手から出立している手筈なのでテオフィルのそれは杞憂となった。

 馬車へ乗り込んできたフォルトゥナートが扉を閉めるとテオフィルは安堵の息を漏らす。周囲は人に囲まれているが、一息吐くことが出来る閉ざされた空間だ。窓はカーテンが引かれていて、無駄に手を振る必要はなく、神経を尖らせる必要もない。

「……表情が崩れてる」

 フォルトゥナートの指摘にテオフィルは慌てて頬を両手で押さえてしまう。途端、横からクツリという笑みが漏れるものだから咄嗟に睨んでしまう。

「出してくれ」

 御者へと声を掛けたフォルトゥナートの横顔を見詰めながらテオフィルはガタンと緩慢と動く馬車に身を委ねた。




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