第38話

 うっすら無精ひげを生やしたエルクシードが宮殿に帰還をすると、待ち構えていたようにニコライの部屋へと通された。

 昨日からずっと警邏隊の詰め所で書類を読み込んでいたのだ。


「お疲れ様。まさか、きみたちが出席をしていた仮面舞踏会の場で堂々と盗みが起こるとはね」


「泥棒はおそらく、招待客に紛れていたのでしょう。仮面舞踏会ですから、たやすく会場内に入り込むことが出来ます。また、途中から麻薬と思しき香りが漂ってきました。招待客らは高揚感に包まれ、誰かが不審な動きをしていようと、気に留めることは無かったと思われます」


 セルディノ家主催の仮面舞踏会は、表向きこそ平和であった。度を越す風紀の乱れもなかったことに、エルクシードは安堵した。

 招待客らは大勢いて、エルクシードの本命でもあるトラバーニ伯爵も訪れていた。彼は自身が支援しているという芸術家を何人か連れて来ていた。


 しかし、途中から様子がおかしくなった。会場内を独特の甘い香りが充満したのだ。

 それに気が付き、エルクシードは庭へと降り立った。あれは麻薬の一種だ。エルクシードはセルディノ公爵を探した。これが彼の趣向ならずいぶんと度が過ぎている。


 招待客の一人であるエルクシードにはどうすることもできず、他の使者たちを先に返した。

 なるべく会場内の空気を吸わぬよう、バルコニーからトラバーニ伯爵の様子を窺っていたのだが、彼はとくに目立った動きをすることはなかった。何の収穫も無いまま夜は更け、エルクシードは夜半も大きく超えた時刻に宿に戻った。


「結局、麻薬を焚いたのは大泥棒ということか」

「ええ。セルディノ公爵は何の覚えも無いと」

「まあ、たとえ自分で用意をしていても、大泥棒のせいにするよね」


 この国で麻薬は治療目的以外の使用は禁止されている。とはいえ、人の目をかいくぐってあのような場所で楽しむ輩がいることも事実だ。下町などでも手に入るため、ニコライは治安維持のため取締りに注力している。


「公爵と話をしましたが、盗まれた品が実は盗品だと白状する気も無いでしょう。入手経路についてはのらりくらりと躱し、大泥棒を捕まえろと叫ぶばかりです」

「もちろん、トラバーニ伯爵との取引の証拠もない、か」

「ええ」


 それなりに人を使って探らせているのだが、伯爵も長い間隠し通していただけあって、なかなか尻尾を掴ませない。したたかな男であるというのが共通の認識だ。


「厄介だなあ。強権を発動してしまおうか」

「証拠が出ないと、こっちが非難されますよ。それなりに人脈を持っていますし」

「そこが難しいところだね。やはりエルメニド側から崩すのが先決か」


 ふう、っとニコライが息を吐いた。

 あの麻薬を用意したのが大泥棒なのかそうではないのか。当人が捕まっていないのだから真実は分からない。


 しかし、己が出席をしているあの舞踏会から絵画が盗まれたのだ。腹立たしくもなる。翌日知らされた報にエルクシードは驚愕し、そのあとは事後処理に忙殺されることになった。


「例の大泥棒、もしもきみが捕まえたら一躍英雄じゃないか」

「ならばその役、殿下にお譲りします」


「そうしたら、クラウディーネも見直してくれるかなあ。彼女、ダリアン・ロンターニを今度の演奏会に呼ぶというんだ。まったく、ご婦人方のミーハー心には参ってしまうよね。私の方が断然にいい男だろうに」


「ダリアンだと?」


 エルクシードは目を眇めた。

 思い出すのはリリアージェと楽し気に談笑をしていた、マリボン最終日の早朝の光景だ。人気のない中庭で、二人が向かい合っている場面が目に飛び込んできたとき、エルクシードは目の前が真っ赤に染まった。


 己よりもよほどお似合いだと感じてしまい、余計にどす黒い感情に心が支配された。

 互いに、何もないと口をそろえたところにも嫉妬をしてしまい、頭の冷静な部分では、二人は本当に偶然に出会っただけなのだと告げるのに、感情が付いていかなかった。


「ふむ……。ダリアンに対して、なにかあるのかい?」

「……何も」


 さすがに嫉妬心をニコライに晒すわけにはいかない。


「では、この数日のきみの仕事への逃避は一体何が原因なんだ?」

「別に逃避していません。仕事をまっとうに行っているだけです」

「クラウディーネが言っていたよ。マリボンでエルクシードが何か、失敗をやらかしたようだと」

「……」


 思い当たることがあり過ぎてエルクシードは黙り込んだ。リリアージェのことが心配で、己の目の届く範囲に留めておきたくて、結果いつも失敗をしてしまう。そのたびに、彼女との距離が開いていく。


(いや、当然か。彼女は、私が口にした言葉の数々を聞いていた。本心ではなかったとはいえ、彼女にとっては、あの言葉こそが、私の気持ちだったんだ)


 それは二年前の園遊会でのことだった。招待客の中にはエルクシードと同世代の青年貴族たちの姿もあった。


 彼らは美しく成長したリリアージェに興味津々だった。サフィル貴族社会の間で、エルクシードとリリアージェの結婚は有名だった。当時の年の差を思えば、注目もされるというもの。

 美しく成長したリリアージェの姿に人々は息を呑んだ。一部の男たちは悔しそうな、惜しいといった視線を彼女に向けた。

 同世代の男たちはエルクシードを捕まえて、あけすけな言葉を紡いでいった。


「最初はおまえの結婚に同情したが、えらく美人に育ったな」「あれだけ美しいと隣に連れて歩くだけで映えるな」「あの若い身体を自分好みに育てられるんだろう。羨ましい限りだ」「今となっては、当たりだったな」「俺が手をあげたかったくらいだ」などと、皆好き勝手なことばかり言っていく。


 嫁いできた当時の年齢が強く意識に残っているのか、彼らは美しく成長したリリアージェへの興味を隠そうともしなかった。


 エルクシードは平静を装っていたが、内心では酷く憤っていた。

 彼女を見る邪な眼差し、値踏みをするあからさまな視線。そしてこの会話である。反吐が出そうだった。


 そして、一番に厭っていたのは、ほかならぬ己自身に対してであった。


 当時、エルクシードは己の気持ちを持て余していた。

 薔薇の蕾がゆっくりとほころぶように、毎年美しく、そして大人へと成長をしていくリリアージェ。彼女が眩しかった。


 少女から年頃の女性へと変貌を遂げていく過程の危うげな魅力を前に、彼女に無体を強いてしまうのではないか。ともすれば手を伸ばしそうになる男の劣情を必死に制御をしていた。純粋なリリアージェには見せられない、ほの暗い感情と征服心。

 彼らは己の奥底に潜む欲望を写した鏡ではないのか。エルクシードはそれらから顔を反らしたくて、本心とは真逆のことを言った。ああ言えば、彼らが興味を失くすと考えた。


 まさか、それを彼女が聞いていたとはエルクシードは露ほども思わなかった。

 リリアージェの口から出た真実に、エルクシードは脳天を鈍器で強く殴られたかのような錯覚を覚えた。


 ああだからか。軋む胸を抱えながらエルクシードはたくさんのことが腑に落ちた。

 リリアージェの態度が急に変わったこと。手紙が素っ気なくなったこと。目を合わせてくれなくなったこと。全てはエルクシードが原因だった。


 リリアージェは十六歳の頃からずっと傷ついていた。すべてはエルクシードが元凶だった。彼女にとってあの言葉こそが真実なのに、離婚をしたくないと言う己の言葉はさぞ傲慢だっただろう。


「すべては私の責任だ。妻一人、幸せにできないのだから、私は結婚をする価値など無い男なんだ」

「急にどうしたんだ?」


 ニコライが秀麗な面差しを陰らせた。

 扉が勢いよく開かれたのは、ニコライが続けて口を開きかけたのと同時だった。


「ヴィワース子爵はこちらかしら!」


 先触れも使わずに入室をしてきたのはクラウディーネだった。急いた声と共に室内にずかずかと進みこんでくる。


「クラウディーネ。一体どうしたんだい?」

「どうしたも、ないわ。大変なのよ」


 よほど急いできたのか、クラウディーネはそこまで言うと、呼吸を整え始めた。


「大変よ。あなたのお母様が。ブリュネル公爵夫人が危篤だそうよ」

「なっ――」


 エルクシードは突然の報せに息を呑んだ。


「先ほどリリアージェを帰らせたわ。あなたも今すぐに屋敷へ向かいなさい」

「エル、仕事はいいから、すぐに帰れ」

「ご配慮ありがとうございます」


 エルクシードは一礼をして、部屋から出ていこうとする。


「ヴィワース子爵、リリアージェを頼んだわよ。あの子、今にも倒れそうだったわ」

 背後からクラウディーネの悲痛な声が刺さった。


「わかりました」


 短く返事をすると、エルクシードは今度こそ駆け出した。途中、クラウディーネ付きの女官とすれ違った。彼女は礼儀も作法もかなぐり捨てて、エルクシードのために報せに来てくれた。

 エルクシードは急いで馬車を走らせ、屋敷へ向かった。

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