記念式典の日1

 式典当日の朝。ニグレドは朝早くから椅子に腰掛けさせられ、侍女たちに囲まれて支度をしていた。

 侍女の一人がニグレドの金色の髪を梳く傍らに、スターズがぬっと立ち控える。魔導士はいつもと変わらぬ無表情ながらも、眼光鋭く、見張っていると言っても過言ではないほどにその様子を凝視していた。

 控室の反対側では、サムエル王もまた侍女や侍従たちに囲まれ準備を整えている。侍従が盆に載せた儀式用の宝剣を持ってきて、うやうやしく王に差し出す。サムエルはうなずき、宝剣をしっかと手に取った。


 その時。扉の開く予期せぬ音がした。みなが一斉にその方を向く。

 そこにいたのは王妃エナリアその人。

 ヴェールを顔にかけてはいるが、それは誰の目にも明らかだった。


「エナリア……!」

 水を打ったような沈黙を破って、サムエルの声が響く。

 その手が思わず宝剣を取り落とした。侍従が慌てて拾い上げるが、サムエルはそれすらももう目に入らない様子だった。一歩、また一歩と妻に向かって足を踏み出す。

「ありがとう、ありがとう……」

 そうしてサムエルは数歩踏み出した足のまま立ち止まり、ぼろぼろと涙を零した。

 その声は、昨日ニグレドが塔で聞いた響きととてもよく似ていた。




 パレードの準備のため城内を移動する途中、一行は王国騎士団たちの前を通った。

「王家の皆々様方に、敬礼!」

 騎士団長の掛け声で騎士たちが、一糸乱れぬ動きで手を上げる。きらびやかな鎧が朝の光を受け、白銀色にまばゆく輝いた。

「うむ。騎士団長アーバル、並びに騎士団員諸君。御苦労である」

 サムエルは足を止め、老境の騎士団長アーバルと言葉を交わした。

「王、此度は誠におめでとうございます」

「騎士団あっての我が国だ。今後とも頼むぞ、アーバル」


 その隙に、ニグレドは騎士団の隊列の中からミディアを見つけて声をかけた。

「ミディア、ミディア!」

 きりりとした面持ちで敬礼の姿勢を保つミディアの目が、驚きで一瞬丸くなる。

「ニグレド! ダメよ、公務中に勝手に一兵卒の私なんかと喋っちゃ……」

 小声で囁くようにそう咎めつつも、その大きな目がいたずらっぽく微笑んだ。

「良かった、今日はちゃんとした格好をしているのね」

 ニグレドは同じくいたずらっぽくニッと笑い、立派な王子のマントを羽織った肩をすくめて見せた。

「……でも、私はその髪じゃないあなたの方が好きよ」

「騎士団、前へ!」

 ミディアがそう言うのと同時に騎士団長の号令がかかった。ニグレドがハッと後ろを振り返ると、サムエルとエナリアがスターズを伴い、再び歩きはじめていた。

「じゃあ、またね」

 ミディアの声にうなずくと、ニグレドは金色の髪をひるがえし足を進めた。




 なんだか夢のような一日だった。

 馬の引く輿に乗って城下町の中を進み、居並ぶ民から口々に祝福の言葉を浴びる。ニグレドのそばには、微笑む母親と、穏やかな表情を浮かべる王がいて……。

 怒りも憎しみもわだかまりも、そういった感情の何もかもが、春の日差しに照らされた残雪のようにゆるゆると解けて流れていくようだった。

(ああ、これなら。この日々の中なら。呼べるかもしれない。彼のことを、家族だと)




 城下町を一巡し華々しく城に戻る。向かう先は城の大庭に面した謁見のバルコニー。多くの民がその大庭に集まっている。

 王の話が始まる。バルコニーの上で国王サムエル、その後に王妃エナリアと王子であるニグレドが続いて、一歩、二歩と前に出る。


 その時。


「わたしは知っている! この悪魔め!」


 異様な叫び声が城の大庭に響き渡った。民たちの歓喜に満ちた声とはまるで違う。耳をつんざくような、狂気に満ちた声。


「死ね! この、悪魔ぁぁあああっ!」


 ヒュッと空を切り裂く音。それがかすかにニグレドの耳に届く。太陽の光を冷たく反射して飛んでくるもの。彼めがけまっすぐに。

 逃げなくては。だが、体が動かない。


「――――!」


 誰かの叫び声が聞こえる。その声は自分の名前を呼んだのだと気づくと同時にニグレドは体を突き飛ばされた。彼の視界に一瞬、麦の穂のような金色が映る。そして。


「――母さん――!」


 彼の視界に、赤い飛沫が広がった。




 人々のざわめきが消える。誰も、何も、動かない。ゆっくりと地面に倒れていく、彼の母親以外は。




 ドッ――――




 倒れ込むエナリアの体。場に戦慄が走る。誰かが悲鳴を上げた。それを皮切りに、金切り声、怒号、喚き声、ありとあらゆる騒音が場を支配する。


「エナリア……! だ、誰だ。誰が、誰がこんな……! ええい、探せ! 捕まえろ! 許さん、許さんぞ、いったい、誰が、こんな……!」

 サムエルが吼える。階下で騎士団長アーバルが剣を振り抜いて叫んだ。

「騎士団、配置に着け! 全ての門を塞げ! 何人たりとも外に出してはならぬ!」


 大庭の喧騒も耳に入らず、ニグレドは息をするのも忘れて、ただひたすらに一点を見つめていた。床に投げ出されて広がった、麦の穂の如き金色を。

「か、母さん……」

 ニグレドは這うようにしてエナリアに近付いた。

 倒れ伏した母の体。その左胸には一本の矢。

 エナリアはぐったりと目を閉じていたが、ニグレドが近付くとうっすらその目を開けた。

「ニグ、レ、ド……、よかっ、た。無事、で……」

 彼女の顔を覆っていたヴェールは乱れ、その美しい顔が顕わになっていた。口の端からは血が流れ、その目は今にも再び閉じられてしまいそうだ。それでもエナリアは、ニグレドに優しい微笑みを投げかけた。

「か、母さん……、母さん!」

 ニグレドの涙が、エナリアの顔に零れ落ちる。

「ごめ、ん……ね、ニグレ、ド……。あなたの元服姿、見れ、な、く……て……」

 ゆっくりと持ち上げられたエナリアの手が、ニグレドの頬に触れる。やわらかく、温かい手。

 彼がその温かさを感じた次の瞬間、その手がパタリ、と地面に落ちた。

「母さん! いやだ、いやだ……!」

 ニグレドは母親の体にしがみつき泣き喚いた。その温かさに追い縋るように。


「王子、治癒魔法を施します。どうか、そこを!」

 杖を掲げスターズが駆け寄ってくる。それでもニグレドはその場から動かなかった。まだ、温かい。

 スターズは滑りこむようにしてエナリアの傍らに跪いた。緑色の光がエナリアの体を包む。スターズの杖を握りしめる両腕がぶるぶると震えた。額に脂汗がにじむ。

 まだ、温かい。まだ。でも、その温かさは、徐々に喪われて……。


「母さん、か……あさん……。母さぁぁぁぁんっっ!」

 ニグレドは絶叫した。目の前が真っ暗になる。ニグレドはそこで意識を手放した。

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