10 スパイの本分


 その日、約束された時間にヴィクトールの部屋を訪ねたものの、執務室はからっぽだった。


 仕事が詰まっていて忙しいらしく、しかしユーフェとの一日一回のお茶を捻出するため、今日は執務室でお茶をと言うことになったのだ。お茶の時間なんか別に一日くらいなくなったっていいのに、変なところで律義な人だと思う。


「すぐにお戻りになるでしょうし、お茶の準備をして待っていましょうか」


 ティーセットの乗ったカートを押して中に入ったネリは「あっ」と声を漏らした。


「……すみません、私としたことが……。昨日お出しした茶葉と同じものを持ってきてしまいました。すぐに取り換えて参りますので、ユーフェ様はお座りになってこちらでお待ちください」


「わかったわ」


 茶葉だって別に毎日同じでもいいのに、ネリもヴィクトール同様真面目だ。


 しかし、これは絶好のチャンスだった。


 執務室のソファにぽつんと残されたユーフェの心臓は早鐘をうつ。


 部屋の外には見張りがいるが、この部屋にいるのはユーフェただ一人。

 そっと足音を殺して執務机に近づけば、大陸の地図とからくり時計、インク壺にガラス製のペンが置いてあるのが見て取れる。


 大切な書類を入れているとすればどこだろう。

 きっと引き出しを開ければ、機密情報満載の書類が入っているに違いない。


『――いい子だ、フェリス。お前はきっと私の役に立つよ』


 ユーフェが上手くやれば、ヨハンは見直してくれる。


(わたしは役立たずなんかじゃない)


 一番上の引き出しに手をかける。


 優しくしてくれたヴィクトールの顔がよぎった。


(わたしは聖女なんかじゃない)


 博愛の心を持ち、怪我や病気を治す聖女は尊敬されるべき人間で。

 神様から特別な力を授かった特別な存在は、こんな汚れ仕事なんてやらないはずだもの……。


 ――――。

 ――。


「――ユーフェ?」


 がちゃりと、部屋の扉が開けられた。


「あ。おかえりなさい、ヴィクトール様」


 執務机の側に立っていたユーフェは、無邪気な顔をして机の上のからくり時計を指さした。


「ごめんなさい。この時計が面白くて、つい近くで見入ってしまいました」


「ああ、それ? 異国で作られた品なんだよ。長針がてっぺんにくると小鳥がくるくる回って可愛いだろう?」


「はい、とっても!」


 再び部屋の扉が開く。


「申し訳ありません、ヴィクトール様、ユーフェ様」


「おや、ネリ。どこへ行っていたの?」


「今日の茶葉を取りに行っておりました。すぐに支度をいたしますね」


「慌てないでいいよ、ネリ。今日のお菓子は何かな?」


「今日はリンゴのマフィンでございます。ユーフェ様、前にリンゴがお好きだとおっしゃっていましたでしょう?」


「わあ嬉しい。ありがとう、ネリ」


 ヴィクトールと向かい合わせに座りながら、ユーフェは何食わない顔で話を続けた。内心ではどっと冷や汗をかいている。


(……何もなかった)


 引き出しの一段目と二段目は空だった。


 まるでユーフェが開けるのを見越していたように、不自然に空っぽだったのだ。


 三段目に辿り着く前にヴィクトールの足音が聞こえたため、音を立てないように引き出しを戻したところで終わってしまった。何気ない素振りで会話を続けているが、緊張から解放されたユーフェの指先は震えている。


「へえ、ユーフェはリンゴが好きなんだ。ノルド村って産地だっけ?」


「行商人さんから買っていたんです。野菜は畑で育てていたんですけど、果物はあまり取れなくて」


「野菜か。どんなものを育てて食べていたの?」


「色々ですよ。今の時期だとナスやパプリカでしょうか。炒めて、チーズと一緒にオムレツにして食べていたんですよ」


 堂々と嘘をついて微笑む。

 ネリが入れてくれた紅茶で指先を温めていると、ヴィクトールが小首をかしげてユーフェに尋ねた。


「ユーフェ……、ちょっと元気がない?」


「えっ?」

 慌てて笑顔を作った。


「そんなことありませんよ!」


「本当? お兄さんと話して、故郷が恋しくなっちゃったんじゃない?」


「……いえ。帰る場所はもうありませんし……、わたしはヴィクトール様のお役に立てるように頑張りたいと思っていますから……」


 ノルド村はもうない。

 ユーフェたちが国境を超える少し前に小競り合いで壊滅した村だ。


 しょんぼりしたそぶりを見せれば、ヴィクトールは話題を変えたほうが良いと思ったのか「そうだったね……。ごめんね」と詫びてくれた。


「そうだ! それなら今度、気分転換に俺とデートしない?」


「デート……ですか?」


「ユーフェはこの城下町を散策したことはまだないだろう? 俺が案内するよ」


 すると、ネリが険しい顔をした。


「ヴィクトール様……、今の情勢で遊びに行かれるのはちょっと……」


「ネリと僕の従者ロバートが黙っていてくれればいい話じゃないか」


「だめですってば」


「ユーフェを元気づけるためだよ。ネリとロバートがちょこちょこっとアリバイ工作をしてくれたら済むだけの話だろう?」


 ね! と強引に押し切ったヴィクトールは、明後日の午後に遊びに出ようとユーフェに約束してくれた。そのぶん、明日のお茶の時間はやむなくなくなるらしい。


(王族が使うお忍びルートを教えてくれるなんて最高だわ)


 ユーフェは笑顔で頷いた。


「ヴィクトール様と遊びに行けるなんて、楽しみです!」



 ◇



「いいですか? くれぐれも、くれぐれも気をつけてくださいね!」


 ネリにしつこく念を押されつつ、ユーフェはヴィクトールと共に王宮を抜け出すことになった。髪を編み込み、町娘風の格好をしたユーフェと、下町の青年風の格好をしたヴィクトールは二階の書庫へと入る。


「こっちこっち!」


 いたずらっ子のような顔でユーフェを手招いたヴィクトールは、王家に関する文献が詰められた書棚の壁を指した。書庫は落ち着いたモスグリーンの壁紙が貼られており、腰の高さで板張りに切り替えられたデザインだ。その板張りの部分が少しだけ周囲と色が違う部分がある。ヴィクトールが壁をスライドすると、下に降りる階段があった。


「秘密の抜け道。……内緒だよ」


 唇に指をあてて微笑むヴィクトールにユーフェは頷いた。狭い階段は地下まで続いており、そこの地下道から城壁の外に出られるようになっているのだと言う。


「ヴィクトール様、わたしなんかにこんな秘密を教えてしまって大丈夫なんですか?」


「大丈夫だよ。だってきみは俺に誓いのキスをくれたじゃないか」


(あれってそんなに重要なことなの?)


 言霊は身を縛ると言うがそこまで拘束力があるようなものには思えない。この国の人たちにとっては意味のある行為なのかもしれないが、ユーフェは異国人なのだ。こんなに簡単に城の秘密を教えてしまうなんてどうかしている。


 ごごごご、と石壁をずらすと、眩しい陽光が抜け道に差し込んだ。


 人一人が通れる隙間から外に出る。本当に外の外に出られてしまった……。


「ほら、行こう。急がないと見回りの兵に見つかってしまう」


「わっ、待ってください!」


 ヴィクトールが手を引っ張って走り出す。

 さながら逃避行のように二人は人混みに紛れた。

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