第10話 警察が捜していた坂上、ヤクザに襲われ入院!

 真里菜の転落死事件から9日後。

 朝日体育大学の大麻事件を捜査している豊島警察署の生活安全課では、サッカー部員に大麻を売りさばいていたのは、井坂に間違いないと断定し、井坂に大麻をおろしていた共犯者を追っていた。

 他方、帝都大学の事件を捜査している歌舞伎町警察署でも、売人は井坂ではないかと疑ったが、こちらの方は、別人の可能性が出てきた。

 マリファナパーティーを主催した神崎尚志に井坂の写真を見せたところ、買った相手は、井坂ではないと証言した。外見は、細身の長身で35歳ぐらいだという。とても大学生には見えず、講師か、大学院生ではないかと思ったらしい。

 歌舞伎町警察署でも、神崎の証言をもとに売人の似顔絵を作成し、身元の洗い出しに全力をあげていた。


 豊島警察署の生活安全課の部屋で、高山純一が夜食のラーメンを食べていると、部下の時田洋二が入ってくるなり、大声をはりあげた。

「わかりました、係長。こいつ、坂上さかがみ和也かずやです。どこかで見たことあると思ってたら、坂上でした。北口のパチンコ屋でうろついている野郎ですよ」

 歌舞伎町警察署から送付されてきた似顔絵で思わぬ成果をあげた時田は、顔がほころんでいた。

「ヤクザか、そいつは?」高山が身元を確認した。

「いえ。組には属してないチンピラですよ。自分では、パチプロといってるらしいが、そんなに稼いでいるようにはとても見えませんよ。このご時世、パチンコで食うのも難しい時代ですから」


「何者なんだ? その坂上という男は」

「詳しくはわかりませんが、噂では元銀行員のようで、なにかでしくじってクビになったようです」

「その元銀行員が、小遣い稼ぎに大麻を売りさばいてたというのか?」

「ええ、おそらくどこかの組からまわしてもらったのを大学生にさばいてたんじゃないですかね」

「よし、とり敢えず坂上を任意で引っぱろう!」

「はい。今行方を追ってます。あの野郎、1週間ほど前から姿をくらましてるんですよ。いつも顔を出すパチンコ屋にもまったく姿を見せなくなってるようで。ヤバいと気づいて、逃げ出したのかもしれませんよ」



 豊島警察署の生活安全課が坂上和也の行方を追っていた頃、坂上は、病院のベッドに横たわっていた。肋骨と鎖骨を骨折し、重傷を負って。

 1週間前の夜、同棲相手の大西おおにし響子きょうこが経営しているバーで飲んでいたところ、ヤクザ者に呼び出され、路地裏に連れこまれて袋叩ふくろだたきにったのだ。

 殺すつもりがなかったのか、凶器は持っておらず、しかも顔や頭を狙わず、素手で首から下をボコボコに殴られた。肋骨が何本か折れたかなと思ったが、ヤクザ者が引きあげぎわに、置き土産のように蹴りを入れられ、それが肩に命中し、痛みでそのまま気を失ってしまった。気がついたら病院のベッドの上。

 なかなか戻ってこないのを心配した響子が、路地裏で倒れている坂上を見つけ、慌てて救急車を呼んだのだった。


 意識をとり戻した坂上は、治療をしてくれた医師から、どうしてこんな怪我を負ったのかと問いただされたが、階段から落ちたと嘘をついた。そんな怪我ではないといいたげな医師だったが、坂上は、階段から落ちたといいはった。

 到底信じられる話ではないことは、坂上も十分承知していたが、今は、警察にかかわるのは得策ではないと判断し、医師には最後まで嘘をついてとぼけるつもりだった。


 しかし、坂上のたくらみとは裏腹に、翌日の早朝、豊島警察署の刑事が事情聴取にやってきた。やはり坂上の怪我に不審を抱いた医師が警察に通報したのだ。

「喧嘩でもしたのか」という刑事の問いに、今度は、惚けるのはまずいと判断した坂上は、「実は、ヤクザ風の男と喧嘩をしてやられた」と、前言をひるがえして正直に話した。ただし、相手のことはヤクザ風の男で、知らない男だったとしかいわず、喧嘩の原因も、呼び出されたことを隠し、路上で肩が触れたとイチャモンをつけられたからだと話した。


 職務上仕方なくきたというのが顔に描いている若い刑事は、坂上の説明に疑問を挟まず、納得した様子だった。帰りぎわに刑事は、「被害届を出すつもりはあるのか?」と尋ねた。

「相手もかなり怪我をしたはずで、お互い様なので被害届は出すつもりはない」と見栄をはった嘘をついた。

 坂上の供述に疑問を抱くことなく信用した刑事は、あっさり納得し、これで仕事は済んだという顔をして帰っていった。


 実は、坂上は、襲ってきた相手におおよその見当はついていた。山城組の若い組員とそれをとり巻くチンピラに間違いないだろうと。

 しかし、なぜ自分が襲われたのか、皆目見当がつかなかった。立ち去りぎわに若い組員がいった「素人が手を出すからこんなことになるんだ。痛い目に遭いたくなければ、今後一切手を引くことだなぁ」といった言葉が耳に残っていた。


 坂上はベッドの上で、自分がなぜ山城組にやられたのかを考えた。

(まさか、大麻の件がバレたか?)思わず声が出そうになったが、隣のベッドに寝ている中年の男に気づき、慌ててそれを呑みこんだ。

(いや、そんなはずはない。あれだけ慎重にヤクザの縄ばりを荒らさずにさばいたのだから。ヤツらが気づくはずはない)坂上は、自分にいい聞かせた。

 寝返りを打とうとしたが、息がとまるような痛みが胸を襲う。思わず「うっうっ」とうなり声をあげた。


(だが、あの脅しは本物だ。今回、命だけは助けてやるが、二度目はそうじゃないぞという脅しに違いない。きっとそうだ。ヤツらは、俺が大麻をさばいているのに気づいたのだ。それで脅しにかかってきたのだ。間違いない!)坂上は、今回のヤクザの襲撃を結論づけた。

(それじゃあ、いったい誰がチクりやがったのか? 俺から買ったヤツか? まさか大学生にヤクザの知りあいはいないだろう。でもほかに誰がいる?)胸と肩の痛みに耐えながら坂上は、懸命にヤクザに密告した者を見つけ出そうとしていた。


 入院から1週間、ベッドの上で痛みをこらえながら考えたが、依然としてヤクザに密告した者はわからなかった。

 こんを詰めて考えれば考えるほど、ヤクザにやられて大怪我を負ったことが悔やまれ、今の境遇を情けなく思い、つくづく自分の運のなさをうらめしく思うのだった。

 今は10歳も年上の、池袋で小さなバーを営む大西響子に生活の面倒を看させ、小遣いをパチンコで稼いでいる坂上だが、元はエリート銀行員だった。


 城北大学の附属高校から大学に進学した坂上は、法学部を優秀な成績で卒業し、誰もがうらやむ大手都市銀行に就職した。配属された支店の営業成績もよく、入行5年で、早くも主任に昇進し、周囲から一目いちもく置かれるエリート行員だったが、思わぬ転落を招くことになった。

 仕事でストレスが溜まり、精神的にも肉体的にも疲れ果てていたとき、競馬好きの同僚に誘われて、はじめて競馬場に出かけた。馬券を握り締め、賭けた馬がゴール前でかわすか、交わされるかをハラハラドキドキしながら観るのが、思わぬストレスの解消になった。


 一か八かのギャンブルが、常に堅実に業務をこなさなければならない銀行員にとって、なんともいえぬ息抜きにとなり、日頃の嫌なことを忘れさせてくれた。

 それ以来、気がついたときには、毎週欠かさず馬券を買うようになっていた。ビギナーズラックという言葉があるが、坂上もその例に漏れず、やり始めはそこそこ儲けたが、そんなにうまくいくはずはない。負けがかさみ始めるのに時間はかからなかった。


 最初の数千円の馬券が、いつの間にか数万円の馬券になり、ここぞというときは、十万単位の馬券を買うようになっていた。一度みつきになったものは、そう簡単にやめられるはずはなく、手もちの金がなくなると、クレジットカードのキャッシングに手を出していた。

 プライドが高く、つきあっている彼女にも金がないといえない坂上は、生活費や交遊費の大半をクレジットカードで支払い、結果的にクレジットの支払いとキャッシングで借金が300万円ほどに膨れあがっていた。


 資産家である親に泣きつけば、なんとかしてくれると思ったが、それもプライドが許さず、返済期限が迫ったとき、やってはいけないと知りつつ、顧客の預金に一時的に手をつけてしまった。すぐに返すつもりであったが、運悪く突然の内部監査で坂上の遣いこみは発覚してしまった。

 直ちに親と相談し、全額返済したが、大手都市銀行は、たった一度の坂上のあやまちを許してくれなかった。銀行の体面で懲戒ちょうかい免職は免れたものの、依願いがん退職は避けられず、銀行からほうり出されてしまったのだ。


 その後の坂上の人生は、散々たるものだった。

 数ヵ月後、銀行をクビになった痛手からようやく立ち直った坂上は、親の紹介で印刷会社に再就職することができた。仕事の内容は、スーパーや量販店をまわり、広告を印刷する仕事をとってくる営業。僅か数万円の仕事をとるのに、何度も呼びつけられ、下げたくもない頭を下げ、いいたくもないお世辞をいわなければならないことに我慢できず、ふた月ももたずにやめてしまった。

 小口の仕事のために汗水らして働くことが、エリート銀行員だったプライドが許さなかった。


 家でブラブラしている坂上を見かねて、再び親戚の者が車のディーラーの仕事を世話してくれたが、今度はひと月ももたなかった。

 堪忍袋かんにんぶくろがきれた父親から勘当かんどうをいい渡され、実家にもいられなくなった坂上は、大学時代の先輩を頼り、池袋のキャバクラでボーイの仕事を始めたが、ここでも長続きはしなかった。


 ちょうどその頃、いきつけのバーのママである響子と関係ができ、そのままバーの2階の響子の自宅に転がりこんだのだった。

 以来、定職にはつかず、朝10時のパチンコ屋の開店にあわせて出勤するという自称『パチプロ』の生活をするようになった。10歳年上の響子は、惚れた弱みか、文句もいわず坂上の生活の面倒を看ていた。



 坂上がベッドでうつらうつらしていた昼下がり、病室のドアをノックする音が聞こえた。坂上も隣に寝ている男も返事をしなかったが、勝手知ったる顔で響子が黙って入ってきた。

 定期便のように店を開ける前、響子は、必ず坂上の病室に顔を見せる。

 響子は、紙袋から下着とパジャマの着替えを出し、「あなた、着替えをここに入れておくから」といって、ベッドの下の収納ボックスに入れた。

 その代わりに隣にあるバケツから、着終えた下着とパジャマを持ってきた紙袋に詰め直した。

「なにか食べたいものある?」

「いいや。なにを食べても旨くないから」坂上は、素っ気なく返事をしたが、響子も「そう」といって、それ以上なにもいわなかった。


 3ヵ月前から坂上の様子がおかしいことに響子は気づいていた。

 急に坂上の金まわりがよくなり、羽振りをきかせ、店の常連客にすしおごってやったりしていたのを見て、いぶかしく思った。坂上にただしても、パチンコの調子がいいのだとしかいわなかった。

 響子は、坂上がなにか危ないことをやって稼いでいるのではないかと気になり始めた。服装も変わった。これまでは、Tシャツやポロシャツにジーンズというラフな格好だったが、スーツやジャケットを着るようになり、小ざっぱりしたどこか勤め人のような雰囲気を出すようになっていた。元銀行員だけあって、坂上にはスーツが似あうと、響子は思っていたが……。


 1週間前、突然店にヤクザ風の男たちがやってきたとき、響子は一抹の不安を覚え、なかなか戻ってこない坂上を心配して店の外まで捜しにいった。

 倒れていた坂上を見つけたときも、救急車を呼ぶと、警察に連絡される恐れがあるので、呼ばない方がよいのかもしれないと、冷静に判断した。

 しかし、いくら身体からだを揺すっても、意識が戻らない坂上を見て気が動転し、このまま死んでしまうのではないかと不安になり、気がついたときには、119番をダイヤルしていた。


「それじゃ、私、帰るね」といって、響子がドアの取っ手に手をかけたとき、思い出したように振り返っていった。

「あっ、そういえば、昨日、陣内さんっていったかしら、あなたの大学時代の同級生。お店にお見えになったわ」

「陣内が? あいつがなんだって?」

「近くにきたから、あなたに会いにきたっていってたわ。どうしてるかって聞かれたので、怪我して入院してるとだけ話したけど」

「ほかになにかいってたか?」

「特になにも。ビール1杯だけ飲んで、すぐ帰ったわ」


(なぜ陣内が店にきたんだ)坂上はに落ちなかった。

(そういえば、怪我をしてから、陣内は連絡を寄こさない。俺の方も、痛みでそれどころではなかったが……。

 その陣内がなぜ店に顔を見せたのか? 俺と話したければ、携帯にかければそれで済むはずだ。それなのに、なぜわざわざ店にきたのか?

 あれほど俺と直接会うことを避けていた野郎が……)


「あっ、あの野郎、あの野郎が裏ぎりやがったんだ!」入院以来モヤモヤしていた坂上の脳裏が一瞬にして氷解した。

「どうしたのよ?」

「陣内だ! 陣内の野郎が山城組にチクリやがったんだ! この俺を裏ぎって」

「いったい、どうしたのよ? あなた」心配そうに響子が呼びかけても、無視して相手にしない坂上の表情は、怒りに満ちていた。

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