啼泣

 夫の消息がわからぬまま、寿永四年(一一八五)を迎えた。


 都は落ち着きを取りもどしており、姫の日常もつつがなく過ぎている。

 ただ、資盛がどこにいるのか、平家はどういう状況なのか、姫が知りたくてたまらないことは、いっさい教えられなかった。


「殿……どこにいらっしゃるの……」


 ぽつりと、姫はつぶやきを落とした。

 いまの姫には、夫から預かった一張ひとはりそうだけが、お互いを慰めあうことのできる心の拠り所になっている。


「あなたも寂しいでしょう。殿は、あなたをとても大切に扱っていたものね」


 指先に爪をはめ込み、弦をそっとはじく。

 持ち主を探して泣いているような切ない音に、姫の目にも涙が浮かんだ。


「……わたしね、これまでのことも、自分のことも、みんな忘れてしまいたいの。そうして、もう一度、殿と出会うの。まっさらになって、だれも知らない場所で、殿とふたりきりで暮らすのよ。もちろん、あなたも連れて行ってあげるわ。ねえ、素敵だと思わない?」


 日がな一日、そうを相手に話しつづける姫を、女房たちは腫れ物に触るように扱った。

 彼女たちは資盛に愛人がいることも知っていたが、同時にこの夫婦の睦まじさも目の当たりにしてきた。それだけに、まだ年若い女主人の姿が哀れでならなかった。


 そして雪が溶け、梅が香り、鶯の声に耳を澄ましているうちに、そこかしこで山桜が咲き誇り、やがて散っていった。


 姫のもとに平家滅亡の報せが届いたのは、四月のことだった。

 女院や、姫の両親が乳母を務めていた皇子など、命を取り留めた人たちはすでに都へ向かっているという。


 しかし、そのなかに、資盛の名はなかった。


 それらの話を、父がぼそぼそと、目も合わせずに知らせるのを、姫は眉ひとつ動かさずに聞いた。すべての感情が一瞬にして凍りついたかのように、なにを聞かされても心はぴくりとも反応しなかった。


 父が退出したあとも、姫は自分がどうすればいいのかわからず、一点を見つめたままぼんやりと座っていた。

 

(殿が、身罷られた……波の底へ、行ってしまわれた……)


 のろのろと、姫は資盛のそうを見やった。


「あなたを大切に思っていらした方が、儚くおなりになったそうよ」


 慰めあい、心の支えでもあった相手にそう伝え、夫がそこにいた痕跡を求めて手を伸ばした。その瞬間、一本の弦がピシッと短い悲鳴のような音を立てて千切れ、姫の指を鋭く切りつけた。


「あっ……」


 白い指先にじわりと赤い筋が浮かびあがると、姫は箏に向かって倒れ込むように突っ伏し、悲痛な叫び声をあげた。ぎょっとする女房たちには構わず、堰を切ったようにあふれ出る感情のまま、声にならない声をあげる。


「あぁっ、わたしのせいだわ! わたしが浅はかだったから! 殿を……わたしのせいで――殿っ!」


 夫は助けを求めていたのに、そして自分には夫を助ける機会があったのに、それを無下にも取りこぼしてしまった。

 夫は自分を恨んでいるのではないか、薄情で冷酷な妻だと思ったまま逝ってしまったのではないか――そう思うと、姫は苦しさに身もだえした。


 幼子のように泣き叫ぶ姫の背中を、乳母がとんとんと撫でつけてくれる。しかし姫には、そのやわらかな手がひどく煩わしく感じられた。


(わたしにやさしくしないで! わたしには、やさしくされる道理なんてないのに!)


 姫は乳母の手をぞんざいに押しのけ、ひとり帳台へ引きこもった。

 資盛のそうも引きいれ、千切れてしまった弦が力なく垂れている姿を見ると、ふたたび涙がこぼれた。


(ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい!)


 長く連れ添ったであろうあるじを失ったそうへ、姫は謝りつづけた。


 やがて、夢とも、うつつとも、どちらともつかぬままに季節を過ごすうちに、いまだ千切れたままの弦と、それを支える琴柱ことじが所在なさげにそこにあることが気になりはじめた。


――調弦も、忘れずに頼むよ


 夫が残していった最後の言葉。

 自分だと思って大切にしてほしいと、姫に託したそうの琴。


「わたしはまた、殿のお気持ちをないがしろにしていた……」


 姫は支えるべき相手のいない琴柱ことじをつまみ上げ、握りしめた。

 弦と琴柱ことじは、ふたつでひとつ。どちらかが欠けても、奏でることはできない。


「わたしも、殿がいらしてこその、わたしだったの……。でも、あなたは欠けたままでいてはだめ。せめて、あなただけは」


 姫が弦を張り替え、折を見ては調弦をするようになると、それを見計らったように父が顔を見せた。もう、夏も終わろうとしている。


「姫や、少しは元気になったようだな。いや、安心した。そなたには、つらい思いをさせてしまったな」

「いえ……」


 やけにおもねるような笑顔を見せる父に、姫は短く返事をした。しかし父は気にする様子もなく、話をつづける。


「舅殿も出家してしまわれてな、やはり思うところがあるのだろうな」

「そうですか」


 切って捨てるような姫の返事に、父は一瞬ひるんだようだった。しかし、軽く咳払いをすると、もごもごと言い出した。


「……その、気が早いようだがな、姫も喪が明けたら、関東へ行く心づもりをしておいてほしい」

「……」


 無言で、まっすぐに見つめる姫に、父はうろうろと視線を泳がせた。

 鎌倉の御家人との再婚を本気で考えていたらしいことに、怒りを通り越して笑いがこみ上げそうになる。しかし、姫は涼しい顔で鋭く言った。


「毒と呪詛、どちらがよろしいですか」

「ん? なんと?」

「新しい夫を、毒殺するか呪い殺すか、どちらがよろしいかとお聞きしたのです。ああ、鎌倉殿とやらも呪詛して差しあげましょうか」

「姫や……」

「わたしは本気です。それが叶わないのなら、道中で自害するまで」

「……や、まあ、忌明けはまだ先のこと。なによりも、姫は心を安んじることが肝要だったな。いやいや、悪かった」


 逃げるように去っていく父には目もくれず、姫は帳台へ籠って資盛のそうへ話しかけた。


「あなたを関東へ連れて行ったりはしないから、安心して」


 姫は覚悟を決めたように、うなずいてみせた。


 

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