失われた記憶

 東京にいい思い出はない。

 白一面の病室。カーテンが白く、床が白く、窓の外から漏れる景色からも雪が降っていた。小学校に上がる前、あたしは東京の病院に数か月入院していた。

 熱もないし、咳もないし、重大な病気にかかっているわけでもない。島中を走り回っていた手足を、暴れるという理由から簡易的な紐に拘束されていたのが嫌だった。

 朝は六時に起きて、夜は六時に電池が切れるように意識を失う特異体質だっただけなのに。あたしを水鏡島から東京の病院へ『研究』の名目で、連れ去ったやつらは、「眠り病」の研究に必要なのだと言った。

 ナルコレプシー、過眠症、概日リズム運動障害、REM睡眠行動障害……。仰々しい病名を医師から聞かされて、そのたびに検査を受けた。薬も飲んだ。

 それでも、何も変わらない。

 健康に配慮されて作られた病院食は、味が薄くてすぐに飽きた。水鏡島の新鮮なフルーツや、海の幸を食べたかった。おばあちゃんの料理とあたたかな笑顔に会いたい、おじいちゃんの寡黙な職人技と、頭を撫でてくれるごつい手に会いたい。

 誰も味方がいなかった。さみしかった。

 看護師の人はみんな優しかったけれど、あたしの夢や会話はすべてメモをされて、医師に報告されていた。

 病室には防犯カメラがつけられ、気を抜ける時間は何もなかった。

 水鏡島から環境が一変し、閉鎖された病室で一か月も過ごすうちに、あたしはすっかり口数が少なく、内にこもりがちになった。

 入院二か月目になると、悪夢にうなされるようになった。業火に焼かれる夢、深海の底に沈んでいく夢。

 眠るのが怖かった。夜六時になると、機械仕掛けのように眠りに落ちてしまう自分の体質が恐ろしいのに、眠らない努力をしてもダメだった。

 外で身体を動かすことがかなわず、精神的にも限界が近づいていた。

 そんなときに、一人の少女に出会った。

 



 ある夜。いつもの悪夢とは気色が違った。あたしは、水鏡湖のほとりに立っていた。


『どうしてここに……?』


 水鏡島を夢に見ることは、なかったのに。

 空調で管理されていた病室と空気が違う。夏の夜のややじめっとした空気。

 まさに戻ることを切望した土地。冬の東京じゃない!

 あたしは引き寄せられるように、ふらふらと水鏡湖の湖面を目指した。透き通る湖面をのぞいて、自分の姿を確認したかった。夜空から差し込む月光を頼りに、湖面をのぞいた。

 色素の薄くなった肌と、青みがかった瞳。うん、顔色は悪いけどいつものあたしだ。


『哀れだな』


 音もなく風が吹き、湖面がさざ波立った。きつく目をつむって、次に目を開けた時には、湖面に一人の少女の顔が映っていた。

 齢はあたしと同じくらいだろうか。雪のように白い肌と、絹糸のように細い銀髪。そして、宝石のような瑠璃色の瞳。とても美しい少女だった。

 人形めいた美しい造形に全く見覚えはないが、不思議と見慣れている覚えがある。

 少女は驚いて口が利けないあたしを、頭のてっぺんからつま先まで一瞥すると、やがて鼻を鳴らした。


『やれやれ。よりにもよって、こんなちんちくりんと閉じ込められているなんて。わらわの高貴さと月とすっぽんくらい釣り合わんぞ』

『えぇ……』


 見た目の儚さと毒舌のギャップがえぐい。


『ここは夢の世界なの? どうしてあたしは、水鏡湖の前にいるの? あなたは誰?』

『いちいちやかましい。小童の質問にわざわざ答えてやるほど、わらわは暇ではない』


 やっぱり辛辣。だけれど、血が通っている存在と話したからか、この少女に不思議と親近感があるからか、あたしは―――泣いていた。


『あ、あれ、おかしいな。泣くことなんてなにもないのに、なんでかな』


 しゃくりあげていると、少女は面倒くさそうに鼻を鳴らした。


『フン。涙など不合理的なものを流すな馬鹿が。時間はないというのに』

『うぇ、時間?』

『ああ。べそべそ泣くのをやめろ。わらわはお前と交渉をしにきたのだ』

『コーショー?』


 少女はけだるげに顎を上にしゃくった。

 一瞬で目を奪われる。そこには夜の景色が、あたしが眺めたかったものが広がっていた。満点の星空。実際に見ることが叶わなかった、人づてにしか知りえない景色。


『お前は夜を見たいと望んでいるのだろう? わらわは昼を見たいのだ。さんさんと降り注ぐ陽光と、青い海と白い砂浜をこの目で見たい。お前が昼の世界に閉じ込められているのなら、わらわは夜の暗闇に閉じ込められている』

『夜の、世界に……』


 それは昼の世界以上に、孤独なのではないだろうか。


『全く。夜なら夜を謳歌しようとしておったのに、お前がべそべそ毎日泣き言を言うから、こちらの気まで参ってくるではないか! だからしびれを切らして、交渉しに来てやったのだ。お礼の言葉の一つくらいよこすのが筋だろうに。これだから、信心の薄い人間は』


 立て板に水のようにまくしたてると、少女はキッとあたしをにらみつけた。

 情報を整理することができないまま、あたしは混乱したまま、口を開く。


『で、でもできるの? どうやって……? たくさんのお医者さんに診てもらっても、あたしの体質は治らなかったのに……』

『まず前提として、お前は健康体でそれは体質でもないが、面倒だから説明を省く。簡単なことだよ。わらわと盟約を交わせばいい。忌々しい雑兵が睨みを利かせているから、術の完全解除とまでは叶わぬが、縛りを緩ませることはできる。』

『え、ええっと』

『お前の理解は必要ない。さあ、湖面に触れろ』


 得体のしれない少女の言うままに、あたしは手を伸ばした。信じられるかは分からないが、この少女の言うことは信じたかった。

 少女の鏡像に向かって手を伸ばすと、ぐいと強い力で引かれて、あたしは湖の中に落ちた。不思議と息はできて、水は冷たくはない。思い通りに、身体を動かすことができた。

 湖の底から、まばゆい銀の光が筋のように差している。あの少女がいるという確信を持ち、あたしは光へ向かって泳いだ。透明な魚や、虹色の魚とすれ違った。


『来たな』


 少女は湖の底で、あたしを待っていた。全身の姿も美しい。銀の髪をたなびかせて、尊大な態度で腕を組んでいる。身体のラインにフィットした蒼のワンピースがとてもよく似合っていた。

 少女に近づいていくと、なにかの壁にぶちあたった。なんの障害はないのに、叩くとカンカンカンと行き止まりの感触。この少女に触れることはできないようだ。

 少女もぺたぺたと見えない壁を触っていた。


『全く、あの連中の用心深さときたら。まあいい。壁に向かって利き手を合わせろ。そして、互いの心臓の位置に手をおけ』

『う、うん』


 あたしと少女は、透明な壁越しに互いの心臓を触れた。


『よし。そしてわらわのあとについて、同じ言葉を唱えろ。「蒼の一族の第一王女の名の元に命じる。時は満ちた。血を分けし、異形を縛る時の盟約よ。暫し封印を解き放たん。光の時間と闇の時間の境を薙ぎ払い、一つの世界へと導かん!」』


 あたしは少女と同じ言葉をたどたどしく唱えた。

 心臓がつきりと痛み、思わずしゃがみこんだ。少女の手が置かれた心臓のあたりが眩しく光っている。バチバチと火花を放っているかと思えば、線香花火のようにあっけなく消えた。


『い、今のは……』

『これはいずれ効果を失う術だが、わらわにとっても不本意ながらお前にとっても、楽になるだろうよ。さあ、とっとと自分の世界へ帰れ』

『ま、待って』


 湖の底から急激に水が引いていった。白い霧が少女にまとわりついた。


『お前は夢から覚めれば、このことを忘れる。だから、些末な疑問は無駄だ』

『そんな』


 口が悪くて高飛車だけど助けてくれた少女のことも忘れてしまうなんて。

 そんなの、嫌だよ。


『行かないで』


 少女は目を閉じた。


『待って、お願いだから』


 少女は霧に包まれて、下半身が消えてしまった。


 あたしは必死だった。言葉が自然と口をついて出た。


『待って、おねえちゃん!』


 刹那。霧が、少女をかき消すまえに、瑠璃色の瞳と目がかち合った。

 どうして、そんな驚くのさ―――

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