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 早苗の身を案じる一方で、私自身も着々と下り坂を転げ落ちていた。

 薬を変えるなどして悪あがきのような治療を続けているが、やはり大した効果は得られていない。ほぼ唯一の希望である心臓移植もドナーが現れる気配はなく、私が置かれている状況は悪くなっていくばかりである。

 そんな手詰まり感が漂っていた、年の瀬のある日の午後。

「人工心臓の装着をお勧めします」

「人工心臓?」

 診察中に友永先生が口にした耳慣れない言葉に、私はきょとんと呆けた。同席していた母も同じだったようで、先生に詳しい説明を求める。

「それはどういったものなんですか?」

「心臓の代わりに血液を循環させる役割を担う装置です。装着には手術が必要になりますが、術後は普通の心臓とほぼ同じはたらきを実現できます」

「そんなことができるんですね」

 医療技術の偉大さに感心する私であったが、ふとおかしなことに気付く。

「あれ? そんなものがあるんだったら、最初からそれを使えばよかったんじゃ……?」

 人工心臓とやらがあるのなら、わざわざ治る見込みが薄い心臓を治療せずともよかったし、心臓移植を受ける必要もなくなる。そう思ったのだが、事はそう簡単ではないようだ。

「残念ながら、現時点の人工心臓は完璧ではありません。血栓が生じて脳の血管が詰まったり、感染症にかかるなどの可能性があり、永久的に使うにはリスクが高いんです」

 友永先生は私の疑問に答えた後、人工心臓の活用法を説明する。

「そのため人工心臓は、主に心臓移植を受けるまでの繋ぎとして用いられています。人工心臓で少しでも長く生きて、心臓移植を受けられる日を待つ、ということです。今回提案させていただくのもそういったプランになります」

「なるほど」

 心臓移植はとにかく順番待ちが長く、移植が間に合わずに命を落とす患者が圧倒的に多い。人工心臓を使えば、そのような事態が起こるのを少しでも減らせるというわけだ。

 良い案ではないだろうか。私は人工心臓に期待を抱いたのだが。

「人工心臓を使う場合のデメリットを教えていただけますか?」

 母が質問を挟む。慎重な母は欠点もしっかりと把握しておきたいようだ。それに対して、友永先生が人差し指を立てる。

「一つは先ほども申し上げましたが、血栓形成や感染症で亡くなるリスクがあります。人工心臓を装着した患者の生存率は一年で九割、三年で六~七割ほどです。陽子さんの場合、今のまま治療を続けてもってあと一年ですが、人工心臓を使えばもう数年は時間を稼げるかと思います」

 聞かされた生存率が高いのかどうかは分かりかねるが、何もしないよりは長く生きられそうだとのことなので、これはあってないようなデメリットだろう。

 だが問題は次だった。友永先生が二本目の指を伸ばす。

「もう一つは、患者の行動に制限がかかります。人工心臓の駆動装置は体の外側に設置されるため、人工心臓を装着している間は入院を継続してもらわなければならず、また移動や外出もやむを得ない場合を除いて控えていただくことになります」

「えっ?」

 私は弾かれたように顔を上げた。

「それって、病室から出られなくなるってことですか?」

「原則そうなります。少なくとも今のようには自由に歩き回れなくなると思ってください」

「そんな……」

 無情な宣告だった。行動の自由を奪われる。大きすぎるその代償に愕然としていたとき。

「この件、ぜひお願いいたします」

 一通り説明を聴き終えた母が、迷いのない目でそう申し出た。

 私は反射的に声を上げた。

「ちょっと待ってよ!」

「何?」

「私はまだいいって言ってない! 部屋から出られなくなるなんて、私は嫌!」

「はあ⁉」

 自分の意見を断固主張する。私はあまりに厳しい行動制限に拒否感を抱いていた。人工心臓の装着は、とてもじゃないが受け入れられない。

 ノーを突きつける私に、母が声を荒げる。

「阿呆なこと言ってんじゃないわよ! 命かかってんでしょうが。それくらい我慢なさい」

「ダメ! 嫌なものは嫌!」

「なんだとこの馬鹿娘!」

「馬鹿で結構!」

 ヒートアップする親子喧嘩を前に、友永先生が顔に似合わず情けない声で叫ぶ。

「ちょっと、二人とも落ち着いてください! 話し合い! 話し合いましょう!」



 私と母のいさかいをどうにか仲裁した友永先生は、人工心臓について再度詳しく説明した後、「この場で決める必要はないので、お二人でよく話し合ってください」とその場を締めた。

 診察室を出た私たちは一旦病室に戻ってきた。私はベッドに横たわり、母は椅子に掛ける。

「……で。あんたどういうつもり?」

 居心地悪い沈黙の後、母が私の腹積もりを問う。

 火花が散るような怒鳴り合いはもうしないものの、私たちの意見は真っ向からぶつかったまま、議論はまとまっていなかった。

 私が人工心臓の装着を拒否する理由。

 それには私の生き甲斐が関わっている。

「絵が描けなくなる。私はそれが嫌だ」

 人工心臓を使うと行動に制限がかかり、基本的に病室に閉じこもる生活を送ることになる。そうなれば、これまでのように絵を描き続けられなくなる。そんな不自由は受容できなかった。

 私の返答に母が唖然とする。

「あんたが絵を描くのが好きなのはよく知ってる。でも、それは病気を治してからでいいじゃない」

 その意見は一理あった。まずは病気を完治させて、差し迫る命の危機を回避することを優先する。やりたいことはその後にいくらでもやればいい。ほとんどの人はそう考えるだろう。

 だが、それはハッピーエンドを前提とした話だ。

「もし移植を受ける前に死んじゃったらどうするの? それまでの苦労は全部無駄になっちゃうよ?」

 人工心臓はあくまで延命手段であり、最終的に目指すのは心臓移植で新しい心臓を手に入れることである。そのゴールに到達する前に死んでしまった場合、人工心臓を使い始めてから死ぬまでの間、私は無為な時間を過ごすことになる。

 心臓移植の順番待ちは上手くいって三年、長ければ五年を超えることもあるという。人工心臓に頼ったとしても、心臓を提供してくれるドナーが現れるまで私が保つかどうかは五分五分なのだ。

「人工心臓を使っても、ただ時間を棒に振るだけかもしれない、それなら私は、今確実に残されている時間を好きなように使いたい」

 私は自分の意思を伝えるが、母はそれでもまだ納得してくれなかった。

「分からないわ。ねえ陽子、よく考えなさい。絵を描くのって、生きることよりも大事? 死んでしまったら元も子もないじゃない」

「……え?」

 その説得で私はようやく気付いた。なぜ私と母の意見が対立しているのか。私にとって創作がどういう意味を持っているのか、母は理解していない。

「お母さん。私にとって絵を描くことは、生きることそのものなんだよ」

 私はこれまでに培われた人生観を説く。

「病気が判明して、いつまで生きられるか分からないって知ったとき、生きているうちに何かを遺さなきゃ、って思ったんだ。この世に何も遺せないまま死んだら、私が生まれてきた意味がなくなっちゃうから」

 何かを遺す。それが私の考える、人が生きる意味だ。裏を返せば、何も遺せない人生に意味はないということになる。

「だから私はずっと絵を描いてきた。いっぱい絵を描いたら、すごい作品を描けたら、たとえどんなに短くても、私の人生はきっと価値のあるものになる。そう信じて私は描き続けてきたんだよ」

 絵は私がこの世に遺せる唯一のもの。絵を描くことでしか私は生きる意味を作れない。だから、絵を描くことと生きることは、私の中では同義であり、不可分なのだ。

「私はまだ満足のいく作品を描けてない。何も遺せてない。このまま死んじゃったら、私が生きてきた意味は何もない」

 人生が意味なきものになる。私にとって、それは死ぬよりも怖いことだった。ゆえに私は、生き延びる確率を上げることよりも、自分が納得のいく絵を描き上げられる確率を上げることを優先したい。

 その信念を、ぶつける。

「だからお願い。私から絵を奪わないで」

 私の懇願に、母が唇を噛む。苦悩が窺えるその様子に、早苗にドナーの件で言いくるめられたときの自分の姿が重なった。心では納得できていないが、相手の主張を退けられる反論を見つけられず、押し黙るしかない。その無念さを私はよく知っていた。

 やがて母は顔を手で覆い、深い溜め息を吐いた。

「……あんたの好きになさい」

 母の震える声に混じるすすり泣きが、私の胸をく。母が泣くのを見たのは、私の病気が判明したとき以来だった。そのくらい母は涙を見せない人だったし、今も両手で目元を隠し、嗚咽おえつを必死に押し殺している。

 母の心境を察して良心がズタズタに切り刻まれる。

 だがそれでも、私が折れることはなかった。



 この日以降、母との関係は気まずくなった。

 表面上は今まで通り。必要な会話は普通にやり取りする。だが、以前は頻繁に交わしていた雑談や軽口などはめっきりなくなった。そして人工心臓の件で言い争ったことについては、暗黙の了解でお互いに触れないようにしている。

 それは皮肉にも、いつかの私が非難した、早苗と葵さんの関係に酷似しているのであった。

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