17

 翌日から心臓移植の希望手続きが始まった。

 手続きといっても難しいことはほとんどなかった。この病院で形ばかりの診察を受けると、数日後、私への心臓移植の妥当性を検討する会議が院内で開かれた。友永先生が言っていたように、私のJOT登録の審議は無事に可決となった。

 その後はとんとん拍子で事が運んだ。

 ドナーの臓器と私の身体が適合するか判断する際に用いられる血清を保存するため、採血を行って。

 病院側の担当の方に私のデータをJOTのシステムに登録してもらって。

 母にJOTの登録料を振り込んでもらって。

 手続き開始から二週間後。

 私は晴れて、移植を受けられるレシピエントとなった。



「おはよ」

「おはよう。あなたがこっちに来るのは久しぶりね」

 読書をしていた早苗が、顔を上げて私に目を向ける。

 早苗が言った通り、私が早苗の病室を訪れるのは久しぶりだった。前回不整脈を起こしてからしばらく私は体調が良くならず、必要な用事で出掛ける以外はベッドの上で大人しく過ごしていた。そのため、ここ最近私たちが会うときはいつも、早苗に私の病室まで来てもらっていたのである。

「もう体は大丈夫なの?」

「うん。だいぶ元気になったよ」

 ここのところ続いていた倦怠感は既にほとんど引いていた。体を動かしすぎるとまだ息切れを起こすが、こうして早苗のもとに足を運ぶくらいなら平気だった。

「そうだ。心臓移植の希望手続き、無事に終わったよ」

 私はレシピエントになれたことを早苗に伝えた。早苗には前に移植に対する悩み事を聞いてもらっていたので、ぜひ知らせたかったのだ。

「そう。良かったわ」

 報告を受けた早苗は、読んでいた本を脇に置いた。そしてベッド横のスツールの上から、ボールペンと一枚のカードを手に取り、ベッドテーブルの上に置く。

「陽子。今日は私からも、あなたに言っておきたいことがあるの」

「言っておきたいこと?」

 なんだろう、と疑問に思う私の前で、早苗はカードにボールペンで何かを書き始める。首を捻りながらその作業を見守る私だったが、ふと、スツールの上に見覚えのあるものを発見して、そこから目を離せなくなった。

 私は早苗のベッドの反対側に回り込んで、それ――日本臓器移植ネットワークの案内パンフレットを手に取る。間違いない。先々週、心臓移植のことを聞いたとき渡されたものと同じだ。

 なぜ早苗がこのパンフレットを持っている? 早苗が患っているのは脳の病気である。臓器移植は彼女にはまったく関係がないはずだった。

 だが。

 パンフレットの目次の中に『臓器を提供したい方へ』という項目を見つけた瞬間、全身に鳥肌が浮いた。

 私は早苗の手元を凝視する。早苗が先ほど手に取ったカードの正体は、健康保険証だった。そしてちょうど今、早苗はその裏面に署名を終えたところだ。

「これでよし、と」

 早苗が記入事項を確認した後、私に保険証を見せてくる。

 保険証の裏面には、死後に自分の臓器を移植用に提供するかどうか、選択形式で記す欄が設けられている。早苗が○を付けた項目には、こう書かれていた。


 1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します


「私が死んだら、自分の臓器を提供することにしたわ」

 早苗が事もなげに表明した意思に、私はそれこそ心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。

「どうして⁉ どうして早苗がそんなこと」

「決まってるじゃない。陽子、あなたのためよ」

 動転して青ざめる私に、早苗が経緯を説明する。

「あなたから臓器移植の話を聞いたとき、私がドナーになればあなたの役に立てると思ったの。私が死んでしまったときに、私の心臓を提供すれば、あなたの命を救えるんじゃないかって。だからこの二週間、臓器提供について色々調べて準備をしていたのよ」

 そう言って早苗は、私が持っているパンフレットを指差した。

「結論から言うと、ドナーになるために私ができることはほとんどなかったわ。臓器を提供する意思表示は、一五歳未満だと無効になるらしいから」

 それは私もパンフレットで読んだ覚えがあった。死後に臓器を提供するかしないかの意思は、保険証や専用の意思表示カード等に記しておくことができる。ただし、一五歳未満の者による臓器を提供するという意思表示については、有効なものとして認められないことが法律で決められている。したがって、一三歳の早苗が臓器を提供する意思を示しても、それは無効扱いになる。今しがた早苗が保険証に記入した意思も、法的には何の意味も持たないのであった。

 では早苗は臓器を提供できないのかといえば、そうではない。昔は一五歳未満の子供による臓器提供は出来なかったが、今年の法改正によって現在は可能になっていた。そして臓器を提供するかしないかの判断は、死亡した子供の親に委ねられるのである。

 早苗は先ほど、『できることはほとんどなかった』と言っていたが、裏を返せば、少なくとも何かしらできることがあったわけである。ドナーになるために早苗ができること。それは。

「だから、両親に頼んだの。もしも私が死んだときは、私の臓器提供を承諾して、って」

 家族への意思表示と説得。自身が死亡した際に臓器を提供してもらうよう伝えておく。言わば、遺言を遺すようなものだった。

「そういうわけで。もしものことがあったら。そのときは、私の心臓をもらってちょうだい」

 早苗がドナーになった顛末てんまつを聴いて、私は激しく動揺していた。思考と感情がバラバラに裁断されて、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。一通り説明を受けても頭の中から消えない大量の疑問符を、私は片っ端から早苗にぶつけていく。

「どうして? もし心臓を提供したとしても、私のもとに届くかは分からないんだよ?」

「百も承知よ。でも私たちは、性別も、年頃も、体格も、血液型だって一致している。厳密なことは私には分からないけれど、移植における私たちの適合度は高いに違いない。あなたが移植先に選ばれる可能性は充分にあると思わない?」

 一理ある意見だった。ちなみに血液型については早苗と仲直りした日、お互いに自己紹介をしたときに、二人ともO型であることが判明している。

「それに選ばれたのが別のレシピエントだったとしても、心臓移植の順番待ちが一つ進むわけだから、ほんの少しだけどあなたが助かる確率を引き上げられるはずよ」

「それは、そうだけど」

 隙のない理詰めを受けて、私は別の話を持ち出す。

「死因は? 心臓の提供はドナーの脳死が条件だよ?」

 脳死以外の死因で亡くなったドナーは心臓を提供できないことを指摘するが、早苗の返答はまたしても万全だった。

「脳腫瘍によって脳出血や脳梗塞を引き起こすことはよくあることよ。私が脳死で死ぬ可能性は充分にあるわ」

「ならドナーの健康状態は? 嫌なこと言って申し訳ないけど、病人の臓器を提供できるの?」

「それはドナーの死後に医師が判断する話。臓器提供の意思表示だけなら病人でもできるそうよ。それに私は脳以外は健康体なの。臓器に関してはふるいに引っ掛からないと思うわ」

「ぐっ……」

 捨て鉢の言いがかりも完全に論破され、私はいよいよ項垂うなだれた。そんな私に、早苗が問う。

「陽子は、私がドナーになるのが嫌なの?」

「嫌だよ!」

「なぜ?」

「私は、早苗が死んだときのことなんて考えたくない……!」

 早苗がドナーになることに、私は強烈な抵抗感を抱いていた。私を救いたいというその気持ちはありがたい。だが、早苗から心臓をもらって生き延びる未来に、生きている彼女はいない。私は、自分が助かりたいのと同じくらい、早苗にも生きていてほしいと思っている。だから、彼女から心臓をもらうなんてことは想像もしたくなかった。

 ドナーの件に拒否感を示す私に、しかし早苗は残酷な現実を説く。

「残念だけれど、あなたがどれだけ嫌がっても、私も死ぬときは死ぬのよ。それはどうしたって覆らない」

 諭す声は柔らかく、耳にも頭にもするりと滑り込んでくる。

「もし万が一そうなったときに、私があなたのためにしてあげられる最善の行いが、心臓をあげることなの」

 優しさと正しさが、私から反発心を取り上げていく。

 そして早苗は、私にとどめを刺す。

「だから陽子。お願い。理解して」

「……分かった」

 私は根負けして首を縦に振った。早苗の言い分はどこまでも正しくて、私には反論の余地がなかった。

 感情を排した論理で丸め込まれ、早苗の意見を理解した私は、自分の身勝手な発言を侘びる。

「私のこと思ってくれたのに、さっきは否定してごめん。気持ちはすごく嬉しいよ。ありがと」

「構わないわ。あなたが分かってくれてよかった」

 早苗は私を責めるでもなく、満足そうに微笑んだ。

 そうして私は、早苗がドナーになることを受け入れた。

 しかし。

 理屈では腑に落ちても、心は未だに納得していなかった。

 ドナーになったことで、まるで早苗が死に一歩近づいたかのように思えてしまう。

 もちろん、ドナーになったからといって病気が悪化するわけではないので、これは私が勝手に持った錯覚だ。

 しかし。

 嫌な想像は黒く粘つく油のように、私の頭の隅にこびりつき続けるのであった。



< 2章『親交』 了 >

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