8

「ねえ陽子、それは?」

 早苗が、私が脇に挟んでいるものを指差した。

 私はあっけらかんと答える。

「これ? スケッチブックだよ」

 それは黒と山吹色の表紙でお馴染みの、リング留めのスケッチブックだった。鉛筆が入ったペンケースも用意している。昨日母に持ってきてもらったものというのはこれのことだ。

「そういえば絵を描くのが趣味って言ってたわね」

「うん」

 早苗が私の話を覚えてくれていた。ちょっと嬉しい。

「それで、何か描くの?」

「早苗」

「そう」

 意外にも早苗の反応は薄かった。何か考え込むように空を見つめている。もうちょっと驚いたりされるかなと思っていたが、案外すんなりモデルを引き受けてくれ「は? 今なんて言った?」急に我に返った早苗が食い入るように聞き返してきた。

「早苗を絵に描くって言った」

「どうしてそうなるの! なんてことなさそうに言うから危うく聞き逃しかけたじゃない!」

 早苗が声を荒げる。

「絵にされるなんて、その……恥ずかしいじゃない。嫌よ」

 いつも血の気が薄い彼女の肌に珍しく朱が差していた。あまり見られない狼狽えている早苗の姿がいじらしくて、顔がにやけそうになる。だが彼女の返事そのものはまったく喜べるものではない。

「やっぱり嫌かー」

 描かれることに拒否反応を示した早苗に、私は苦笑いを向ける。

 薄々こうなるだろうとは思っていた。そもそも、絵を描かせてほしいと頼んで二つ返事で快諾してくれる人なんてほとんどいない。こういったリアクションを予想していたから、早苗を描くつもりであることは今の今まで黙っていたのだ。

「実は、初めて会ったときから早苗を描きたいと思ってたんだよね」

 以前から狙いを付けていたことを打ち明けると、早苗は私から距離を取るように身を退き、変質者を見るような目で睨んでくる。

「まさかあなた、最初からそれが目的で私と友達になったの……?」

「いやいやいやいや、それは違う!」

 とんでもない勘違いをされていた。私は慌てて弁明する。

「早苗と友達になったのは、純粋に仲良くなりたかったからだよ。下心は……正直ちょっとだけあったけど、それはあくまでおまけだから!」

「それならいいけど。でも絵にされるのはやっぱり嫌だわ」

 友情崩壊の危機はなんとか脱したが、早苗はまだ不満そうにしている。絵に描かれることについては納得いってないみたいだ。

 だがこれしきで引き下がるほど私の覚悟は軽いものではない。私が考えていることを包み隠さず早苗に伝える。

「恥ずかしがるのは当然だし、君が自分の容姿に対して良くない感情を持っていることもちゃんと理解してる。それでも私は、君と会った瞬間に目を奪われて、『ああ、この人を描きたい』って強く思ったんだ。だからさ」

 すぅ、と胸いっぱいに息を吸って、思いを吐き出す。

「お願いお願いお願いお願い! 私に君を描かせて! 一生のお願いっ!」

「うわっ、ちょっ……分かった! 分かったから、喚くのやめなさいよバカ!」

 起死回生のパッションごり押し作戦が功を奏し、早苗はたまらずといったように両手を上げて降参の意を示した。あと、さっきより赤面が強まった気がする。

「あなたの熱意はよく伝わったわ。そこまで言うなら、モデルになってあげてもいいかなってちょっと思い始めてる」

「本当? じゃあ、」

 喜びかけた私を押し留めるように、早苗が掌を突きつけてくる。

「だけど! どうしても恥ずかしさは消えないし、自分が絵になったらどうなるのか不安でもある。だから、条件を出すわ」

「条件?」

「ええ。なんでもいい、私以外のものを描いてみせて。その絵が私を納得させられるくらい上手だったら、私を描かせてあげてもいいわ」

 そう言って早苗は挑発的な目でこちらを見上げた。

 早苗を描くに相応しい腕があるかどうか証明しろ。それが彼女からの挑戦状だった。それは決して簡単な課題ではないだろうけれど、同時に早苗が譲歩して提示してくれたチャンスでもある。そして何より。

「……いいね。その条件、乗った!」

 私の心に火が着いた。

 早苗は私の画力がどの程度なのかまだ知らないし、恐らく大して上手くないと見立てているはずだ。早苗が条件を口にしたとき、やれるもんならやってみなさい、とでも言いたげな顔をしていたのが証拠である。

 しかし、だ。この桜井陽子、絵を描くことにかけては人一倍の自信がある。ここは一つ圧倒的な実力を見せつけて、高をくくる早苗をぎゃふんと言わせてやろうではないか。

「描くものは本当になんでもいいの?」

「ええ。好きなものを選んでいいわ」

 前提条件を確認した私は、何を描くか考える。

 私は、実際に存在する物をある程度現実に即して描く写実画しか描いたことがなかった。具体的な物・人物ではなく、現実には存在しないしない物を描いた抽象画は畑違いである。

 写実画は静物画や風景画、肖像画などのジャンルに分けられるが、今回はモチーフの調達が容易な静物画を描くのが適切だろう。

 早苗からは絵のモチーフに制約を課されなかったが、私側の都合で建物や工業製品等の人工物は候補から除外された。なぜなら、今の私は利き手を使えないからである。人工物は性質上整った形状をしており、デッサンが少しでも狂うと大きな違和感を生じるため、緻密な筆運びを要求される。そのような正確な作業を、一度も絵を描いたことのない左手で行うのは不可能に近い。ゆえに私が描くべきは植物や動物等の自然物となる。不規則な形状をしている自然物であれば、線が不格好でもごまかしが利くのである。

「なら、花を描こうかな」

 利き手じゃなくても描けそうで、かつ私が好きで描いていて楽しいものだ。その上この病院の裏庭に数えきれないほど咲いている。おあつらえ向きのチョイスだ。

「私庭に行くけど、早苗はどうする?」

「あなたが絵を描いているところも見たいから、ついていきたいんだけど……」

 早苗は歯切れ悪そうに窓の方に目を遣った。

「今日はあまり外に出たくないわね」

「あー、確かに」

 窓際に立った私は早苗に同意した。

 この部屋は私の病室の反対側に面していて、窓から病院の裏庭の景色を一望できる。現在、裏庭は容赦のない強烈な日差しに晒されていた。今外に出れば、ものの数分で汗だくになって絵を描くどころではなくなるだろう。

「代わりにあれを描くのはどう?」

「わ、かわいい!」

 早苗が指差したのは、向かいのベッドの脇に飾られているフラワーアレンジメントだった。今は検査で留守にしている、早苗と同室の女性のものだろう。小ぶりな籐編とうあみのバスケットに、オレンジとイエローのガーベラがたっぷり敷き詰められている。見た目は生花のようだが、恐らくプリザーブドフラワーだろう。生花は細菌が付着している可能性があるため、この病院では持ち込みを禁止しているのだ。

「勝手に描いちゃっていいかな?」

「別に減るもんじゃないし、触らなければ構わないでしょ」

「そっか。じゃあこれにする」

 絵のモチーフは決めた私は早速準備に取り掛かった。早苗のスツールと見舞客用に置かれている椅子を、花の近くに移動させる。私は椅子に座り、机代わりのスツールにスケッチブックを広げる。急ごしらえの作業台だが、鉛筆画ならこれで充分だ。

 早苗が私の後ろに立つ。

「お手並み拝見ね」

「君をその気にさせられるようがんばるよ」

 かくして、早苗をモデルにできるかどうかの命運を懸けた挑戦が始まった。

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