トワイライト・ジャンクション

諸星モヨヨ

第1話

 くれ 芳郎よしろうと会うのは一年ぶりだった。

 一昨年、区役所を定年退職して以来、久々の再会は名瀬なぜ 英二えいじの胸に思わぬ追慕の情を湧き上がらせた。

 英二と芳郎はよくも悪くも対照的であった。どうサボるかを基本の信念として行動する英二とは反対に、真面目で実直。毎日同じ時間、同じ電車で出勤し、定時と共に退勤する彼に、酒も女もギャンブルも付け入る隙はなかった。顔立ちは精悍だったが、妻もいなかった。

 職場では一種の近寄りがたい空気を纏った彼と、親し気にする職員は少なかった。しかし、英二だけはそんな彼と妙に馬が合った。同期の中で二人だけが浪人経験者で年齢が同じだったということもあるが、気取らない雰囲気が自然とお互いを引き付けた。


 中野坂上にある木造のアパートが、彼の自宅であった。派手さの欠片もないようなその建物は彼の人生を象徴しているようであった。

 室内は尚更質素だった。部屋には必要最低限のものがあるだけで他には何もない。客に出す、コーヒーもないように見えて、芳郎は

「麦茶しかないが、」と言って、茶を持ってきた。

「最近はどうだい?仕事をやめて」

 英二は言いながら、麦茶を飲んだ。

「それが、来月から働くことになったよ」

「再任用かい?」

「ああ。また、同じような生活に逆戻りさ」

 そういって、芳郎は悲しそうに笑った。

「特別働かなきゃならない理由でもあるのか?」

「いいや、そういうわけじゃないんだが、ただまあ、なんとなくね……」

 呻吟し英二は麦茶をもう一口飲む。


「呪縛、だな」

 英二は言う。

「毎日会社と自宅を行ったり来たり、同じことの繰り返し。我々は社会に出たその瞬間から、ある種の呪縛に捉われて生きているといってもかまわない。もはやその繰り返しから逃れられなくなっている。呪いだ。誰しもその呪いを嫌がる。だが、そこからいざ離れるとなると、これがどうしてなかなか出来ないもんだよ。平日の昼間に自宅で空疎な時間を過ごしているとどうも尻の座りが悪い。そんな不安があるんだな。君、呪縛から逃れる方法を知っているかい?それはね、別の呪縛に入っていくことだよ」

「別の呪縛か」

 彼は情なげに笑って点頭し反芻した。

「僕にとっての新たな呪縛はね、写真だよ。退職金でカメラを買って、今は週替わりで全国だ」

 乾いた口に麦茶を流し、英二は続けた。

「今日、君を訪ねたのも、実はその写真に関わることなんだがね、」

 英二はそう言うと一枚の写真を取り出した。それは、山間部に昇る朝日を写した作品で、先日とある展覧会に出品されていたものだった。

「朝陽」というタイトルが付けられていたが、言葉から想像できるような、明るい陽光は写っていない。画角の大半を埋めるのは、朝靄の中に浮かんだ紫色の空。森は未だ幽幽として暗く、山の端から覗いたわずかばかりの太陽がブナや杉の樹冠を照らし、黄葉した葉に反射した柔らかい散光が、白い朝靄をぼぅっと浮かび上がらせている。夜と朝の境。そのどちらでもない不安定な光景は見るものに幻想と幾ばくかの不安をもたらす。

 朝日というよりも薄明、そう呼ばれる一日に数分も存在しない時間を切り取った一枚であった。

「これは、どこかの山かい?」

 芳郎は手で写真を取り、顔をしかめた。

「妙だと思わないか?」

 英二は写真のある一点を指差す。

 鬱蒼とした木々の間から、黒い煙のようなものが上がっていた。

「これが、どうかしたのか?」

「この黒煙。汽車の煙に見えないか?」

 芳郎は鼻で笑い、

「まさか、野火でもしていたんじゃないか?」と言う。

「いや。ここには私鉄が走っているんだ。いや、走っていたといった方が正しいか」

「こんな山奥にか……」

 そこまで言いかけ、芳郎は開いた口のまま、英二を見た。

「これは、ゐ尾かい?」

「ああ。ゐ尾市山間部亀嶌きしま地区上原うえはら。旧上原村と呼ばれる場所があった付近だ」

 芳郎は再び、写真に目を落とした。彼の顔はいつにもまして固く、どこか暗い雰囲気を蓄えていた。


「資料では、丁度その黒煙が出ているあたりに、鉄道が走っていたらしいんだ。今は廃線しているがね。不思議だと思わないか?廃線したはずの線路から汽車の煙が上がっている。どういう理屈なのか、何が起こっているのか、気になってしょうがない。だから、現地へ行ってその路線を見てやろうと考えたんだが……その時、君がゐ尾の出身だったことを思い出してね。鉄道について、なにか知っているんじゃないかと思ったんだよ」

 芳郎はため息をつき、視線を外さず答えた。

「知っているもなにも、僕はこの上原村の出身だよ」



つづく



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