31.地域文化研究部②

「武蔵野は林である」

「何かの引用ですか、それは?」

「国木田独歩だよ」

 楓は、地域文化研究部の三人が顧問の飛田に連れられてはじめて武蔵野亭を訪れた時のことを思い出していた。「地域文化研究部だからな。店の名前に入っている武蔵野について、少しは知っておいた方がいいだろ」と国木田独歩の『武蔵野』を紹介してくれた。

「武蔵野って調布のあたりのことなんですか? 結構いろんなお店についてますよね、武蔵野って文字」

 レオが聞くと、

「国木田独歩の『武蔵野』の範囲はもっとずっと広くて、東京と埼玉の大部分、それから神奈川が含まれる」

「めちゃ広いじゃないですか! てっきり調布とか府中とか、そのあたりのことを指すんだと思ってましたよ。ぜんぜんちがった」

「ぜんぜんということもないよ。彼の『武蔵野』で描写されている風景が今でも色濃く残っているのが、仙川が言ってくれたような地域なんだ。だから仙川の感覚は多くの人が持っているものだと思うよ」

「林が多いですもんね、府中もそうですけど国分寺の方も」

「桜ヶ丘の家は国分寺か。確かにあのあたりも多いな」

 仙川怜央も桜ヶ丘竜也も、顧問の飛田の話を興味深く聞く。

「高井戸はあまり興味ないか?」

「ないことはないですけれど、私は調布っていったらやっぱり『ゲゲゲの鬼太郎』のイメージが強いですねえ。街のあちこちで宣伝しているから嫌でも目についちゃいますよね」

 楓にとっては昔から「調布=鬼太郎の街」なのだが、マニアックな趣味を持っていると思われないように発言に注意を払う。

「鬼太郎の作者も、調布の雑木林にインスパイアされて鬼太郎の構想を得たって聞くぞ」

「え、そうなんですか?」

 楓も飛田と話すのは好きだった。地域文化研究部なんてマイナーでつまらなさそうと敬遠する同級生が多かったけれど、部員同士も部員と顧問の関係も良好で、楽しく活動できるアタリの部だった。


 ***


「レオ、ちょっといい?」

 中間試験の全日程が終わった後、校舎を出るところでレオは楓に呼び止められた。

 結局、実施できなかった初日の科目は試験期間の最終日、つまり今日実施された。たった数日の延期だったが、試験直前の詰め込み効果は馬鹿にできず、レオは試験にある程度手応えを感じていた。ただし睡眠不足で今はフラフラだ。

「部活の話? それとも怪猫事件(なんだかんだこの名称が定着してきている)?」

「両方かな」

「じゃあリュウも呼ぶよ」

 スマホを取り出すレオを制して、

「あ、とりあえずレオだけでい」

 レオが怪訝な顔をする。リュウだけ除け者にするのには抵抗があったが、いつになく真剣な楓に気圧されてスマホをしまった。

「武蔵野亭で話したいんだけど、いいかな」

 夜カポエイラのレッスンがある。昨日はほぼ寝ていないので、一眠りしてから行きたい。

「いいけど家に荷物置いて一休みしてから再集合でいい? 3時くらいになると思うけど」

「いいよ。じゃあ私はこのまま先に行っているね」


***


 レオが武蔵野亭に入ると、渚と同じテーブル席に座っていた楓が手招きする。

 カウンターの向こうにいたバイト中の聖がレオのためにメニューを持ってくる。

「こんにちは。……注文されますよね?」

 気のせいかレオに向けられた声が硬い。

「ああ、うん」

 聖は注文を待つ。

「えーとごめん、もうちょっとメニュー見て考えていい?」

「……じゃあ少ししたらまた来ます」

 今にも舌打ちしそうな棘がある口調だ。渚の知らないところで2人に何かあったのだろうか。

「聖くん、なんか仙川くんに対していつもと違くない?」

「そう?」

 レオは気がつかないのか、気づかないふりをしているのか。

「うん。楓もそう思わない? 何か心境の変化があったのかな?」

 人間観察が好きな楓は乗ってくると思ったが、

「さあ」

 とそっけなかった。楓もなんかいつもと違う。いったい今日はどうなっているんだろう。

「レオ、夕方から予定あるんでしょ。簡単に話すね」

 楓が切り出した。

「飛田先生が何か知っているかも知れないって話あったでしょ」

 渚もレオも「なんで知っているんだろう」という表情をした。

「あ、聖くんから私が無理やり聞き出したの。だから経緯はだいたい知っているよ。レオに一任されていたことも」

 レオはため息をついて結果を伝えた。飛田は何かしら事件に絡んでいると思われる。しかし飛田自身の妖怪への関与につながりそうな事柄は一切口にしない。飛田へのアプローチは諦めるしかないのではないか、と。

「役に立てなくてごめん。高井戸なら、もしかしたら俺よりもうまく聞き出せるんじゃないか?」

 レオが本当にそう思っているのかは分からないが、実のところ渚としては飛田に探りを入れる役を対人関係力の高い楓にお願いしてもよかった。結局レオに頼んだのは、楓が嫌がるだろうことが予測できたからだ。楓という子はどんなに些細でも自分の評価を下げたり人と衝突する可能性を嫌う。

「うーん、妖怪に関する話を引き出すのは難しいかも。私が先生だったら絶対隠し通そうとする」

 案の定だったが、楓の話には続きがあった。

「この先生は自分の秘密は喋らないと思ったから、違う方向から探ってみたの」

 驚いたことに楓も楓で飛田に接触したらしい。

「違う方向?」

「そう。『先生、桜ヶ丘くんって猫の件に関わっていると思います?』って」


「リュウが、何だって?」

 レオは動揺している。渚も何の話なのか分からない。

「猫がたくさん出る公園がリュウの家の近くにあって、そこで虐待みたいなことが行われた話って覚えている?」

 どうやら怪猫事件のことではないらしい。渚は記憶を辿る。断片的にだがそんな話を聞いた気もする。誰から聞いたんだっけな。当の飛田だった気がする。

 楓に改めて説明してもらうと、その公園で猫に対して暴力を振るう男子高校生たちがいるようで、何回か学校に連絡が入っている。そのうち1人が多摩北高校の制服を来ていた。

 そこまで言われれば楓がこの話を持ち出した意図は分かる。

「いやでもそれがリュウだと限らないだろ? 制服だけだぜ」

「そこを先生に聞いたら、目撃した人は写真も撮っていたらしいの。そこに写っていた高校生の1人は、茶色くて長い髪のスタイルの良い男子高校生だって」

「それだけじゃ決まらないだろ?」

 楓はいつの間にか近くに来ていた聖の方を向く。

「聖くん」

「はい!」

 楓に呼ばれて運動部員のように気合いの入った声で応える。今日、この子ちょっと変じゃないか。

「千歳さんと一緒にいた国分寺の方にある史跡の公園——落雷があった公園ね——、あそこでちらほらと猫を見たって言わなかった?」

「確かに数匹いました。漱石みたいに人懐っこい感じじゃなかったですけど……」

 そこで思い出したように、

「桜ヶ丘先輩、あの近くに住んでいるって言っていましたね。塾も近くにあってお友達と一緒につるんでいるみたいでした」

 楓の筋書きが読めた。あの公園で行われていた猫の虐待が妖怪を招いた引き金になったということだ。だからその妖怪は猫の姿をとっている、と。

「聖くんや渚に聞いたんだけれど、漱石ちゃんって人見知りとかなくて逆にすごい人懐っこいんだって。それなのに私たちがここに来たタイミングで店から消えた」

「ちょっと強引だ。ここに来たのはリュウだけじゃない。高井戸も俺も先生もいたんだから」

「そもそも『男子高校生』だからね。そして私はレオが関わっているとは思わない」

 楓の最後の一言で空気が一段と重くなった。こんなに断定的に話す楓を見たことがない。同時に分かってしまう。飛田の証言やいくつかの状況証拠がなかったとしても、レオとリュウのいずれかを疑わなければならない状況になったら、楓はリュウを疑う。そして渚自身もその感覚を共有している。リュウから嫌なことをされた記憶は一度もない。それどころかお世辞にも愛想の良いとは言えない自分に親切に接してくれたリュウ。にも関わらず状況次第ではこんなにも簡単に彼を疑えてしまうのだ。

「あとこれは完全に私の勘なんだけど、あの現実的なリュウがこの非現実的な話を一切否定せず受け入れていることに違和感があったの。何か思うところがあったんじゃないのかな」

 渚はこれはさすがに強引だと思った。けれどレオにとってはこの一言が決定打になったようで、諦めたような表情をしている。彼もそう感じていたようだ。

「飛田先生が口を割らないなら、気が重いけれどリュウの方に当たってみるしかないと思うの。聖くん、もう悠長に構えている時間はないんでしょ」

 聖は頷く。残念ながら渚には他に方法が思いつかない。でも誰がその役割を? 楓は嫌がるだろうし、今回はレオには頼めない。そうなると自分しかいないではないか。

「あたしがやるよ。仙川くんは桜ヶ丘くんと仲良いから聞きにくいよね? 今まで色々お願いしてごめんね。あと楓だって同じ部活だし、ギクシャクすると困るよね。あたしはまだつながり薄いから、あたしがやるのが一番ダメージが……」

「いや、言い出しのは私だから、私がやるのが筋でしょ」

 毅然とした楓の声に耳を疑った。信じられない。あの楓が? 今日はいったいどうした!? これは明日は雪が降るかも知れない。マジで。

 冗談はともなく、楓がやってくれるなら、それが一番勝算が高い。渚では覚悟はあってもリュウの口を割らせる技術が覚束ない。

「じゃあ、楓にお願いしようかな……」

「いや、俺が聞くよ」

 みんなの視線が渚からレオにうつる。

「俺に任せてくれ」

 威勢のいい言葉とは裏腹に、いつもの飄々とした力強さがまったくない声だった。それでも声と表情に「この役割は絶対に譲らない」という意志があった。

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