第7話

「じゃ、乾杯」


 藤井たまきは、細長いシャンパングラスを目の高さまで持ち上げ、その向こうから桐子を見てニコリと微笑んだ。桐子も同じようにグラスを持って、環に合わせる。


「うん。で、何に?」

「んー、一カ月ぶりの再会に?」

「再会、って言うほどの間隔じゃないんじゃない?」


 クスクス笑いながら桐子もグラスに口をつける。

 ずっと友人を作れなかった桐子の、大学に入って初めて出来た友達が、この環だった。桐子とは反対の、快活で明るくて裏表のない性格は、たまにぞんざいになる口調にも表れて、活動範囲の広さに比べるとあまり親しい人はおらず、桐子同様構内では常に一人だった。


 しかし一人で居ても真直ぐ伸びた背筋が見ていて心地よく、授業で隣の席になった日、桐子のほうから声をかけた。


(今思い出しても、よくあんなことが出来たと思うわ、自分でも)


 それ以来、二十年近い付き合いだ。桐子は何故か環相手なら、のことも両親との確執も、ずっと友だちを作れずに実兄だけが話し相手だったことも話すことが出来た。


 どんな話をしても、環は聞く前と変わらない目と声で


『そうだったんだ』


 と言うだけだった。

 その言葉の少なさが、他の女子には冷淡さに、桐子にとっては兄に通じる優しさに思えたのだった。

 そして環の物言わぬ優しさは、今も変わらなかった。


「観に行ったよ、舞台。いつもあんたの脚本はよく分かんないんだけど、今回のは面白かったな」

「よく分かんないって、ひどくない?」

「だって起承転結がないじゃん。終わった後に、誰が幸せになったのかわからずじまい。オチが無いっていうの?」


 シンプルな環の物の見方に桐子は苦笑する。誰が犯人で、誰が最後に幸せになったのか、という結末を、確かに普段はあまり書かない。


「今回は私は脚本化しただけだからね。原作者は別の人だし」


 それに、と続ける。


「そもそも人生なんて、そんなもんじゃない?」


 明確な原因も、悪者も、分かりやすいハッピーエンドもない。命が終わる瞬間までどうなるか分からないのではないか。

 そう言うと、やれやれ、とでも言いたげに環がため息をついた。


「またそんな小難しいこと考えて……。あんたはもっとシンプルに生きることをおすすめするぞ?」


 綺麗に口紅を引いた口を大きく開くと、生ガキを口に含む。うまー! という感想は、桐子の耳を通り過ぎた。


「シンプルに、って……」

「わかってんでしょ、やめときなって、不倫なんて」


 会うたびに環は桐子に確認する。もうやめたか、もう別れたか、と。

 既婚者が婚外恋愛するなど、珍しい話ではないが、とはいえ見過ごすことも賛成することも環は出来ないしするつもりもない。それはいずれ桐子自身を傷つける。


 誰が見ても恵まれた結婚生活を送り、他人が憧れる仕事をしている桐子が、何故あちこちに愛人を作るのか。

 喧嘩別れも覚悟で問い詰めたこともある。しかし最後には黙りこくってしまう桐子から、本心を聞き出すことは出来なかった。


「不倫、ね。そうよね」


 他人から見れば、いや、桐子自身も、十四郎や剣との関係が不適切なものであることは十分理解していた。


「広瀬さんの何が不満なの? 伊織くんだって、母親が何股もしてるなんて知ったらショック受けるよ」

「あの人に不満なんてあるわけないじゃない」


 優しく穏やかで妻の仕事にも理解がある。その理解が桐子の間違った行動を許してしまっているのだが、桐子としては広瀬や伊織に迷惑をかけたことは一度もないつもりだった。


(私にとっては、矛盾はないのよ)


 夫を愛している。息子も大事だ。

 しかし十四郎への感謝も、剣への愛おしさも嘘ではない。

 誰でも良かったわけではない。

 一人一人が、その人でなければならなかったと断言できる。

 桐子にとっては必要な存在だった。


 求めてやまないたった一人への想いを封印するためには。

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