第三話



 夏のある日のこと。


 無明むみょうは邸をこっそり抜けて、裏手にある泉の方へ歩き出した。


 日差しは強く、じりじりと生白い肌を焼いた。


 藍歌らんかが珍しく本邸に呼ばれているため、今が好機と従者の目を盗んで邸を出てきたのだ。


 森の入り口近くにある泉のため、ひとりで行ってはいけないと言われていたが、どうしても行ってみたかったのだ。


 昼前なのに森の中は薄暗く、ひんやりとしているせいか汗がひいていく。


 北の森とは違い、怪異はほとんど起こらない小さな森だが、七歳の子供がひとりで来て良い場所ではない。


 少し歩くと開けた場所に出て、光が射して眩んだ視界の先に広がったのは、透明度の高い澄んだ泉だった。


 そこは地面から湧き出る霊泉で、霊力や傷を癒す効果があるらしい。


「綺麗な泉だなぁ。見る角度で色が変わって見えるっ!まさに霊泉って感じ!」


 透明なのに光の反射で青や緑に色が変わるのが面白く、思わず泉の周りを歩きながら目を輝かせる。


 邸の従者が纏う黒い衣を纏い、腰まである髪の毛を赤い紐で括り、手には竹筒を持っている。


 額から鼻の先まである仮面を付けた少年は、表情が見えないが楽しそうに弾んで歩いている。


 目的は霊泉の水を汲んで持って帰ることだった。汲んだ水の効果を確かめたり、他に何か使い道がないか調べるためだった。


 邸からほどんど出られないため、藍歌らんかがたくさんの本を持って来てくれるのだが、書いてあることは実際目で見て確かめてみたいし、触れてみたい。


(汲んだらすぐ戻らないと)


 無明むみょうは草むらに膝を付いて、前に屈むとやっと竹筒の先が届く。短い腕ではぎりぎりの位置で、なんとか少しずつ水が溜まっていく。


 あと少しでいっぱいになるという時、急に身体が前に傾いだ。


「え?」


 集中していた無明むみょうは無防備で、後ろに現れた影にまったく気付かなかった。


 背中を強く押された感覚があり、その後はもう水の中だった。


 氷水のように冷たい霊泉は子供にはとても深く、藻掻いても浮かび上がれない。


(・・・まずい・・・息、が、)


 油断していた。何に押されたかもわからない。人か、それとも妖か。


 けれども今のこの状況では何も考えられなかった。


 キラキラと光るのは太陽の光なのか、それとも苦しくておかしくなった自分の頭の中なのか。


 遠のく意識の中で、唇に柔らかいものが触れたような感覚があった。


 小さな手で頬を覆われ、肺に空気が送られてくる。こぽっと気泡がいくつか周りに生まれる。


 そのまま下に沈んでいくのとは反対に、今度は浮かび上がる感覚があったが、意識はそこで途絶えた。


「・・・っけほっ・・・ごほっ・・・」


 思い切り咳込み、はあはあと肩で息をした後、薄く瞼を開けば太陽の光で目が眩む。


 水でびしょびしょになった衣は肌にはりつき重たく、痛む肺と痺れたような頭の感覚で身体を起こすのは無理だと思い知る。


「もう少し横になっていた方が良い」


 眩しそうにしていたのを気遣ってか、優し気な雰囲気の少年の声と共に、冷たい手の平が瞼に落とされる。


「・・・かえ、ら、ない、・・・と、」


 どのくらい時間が経っているのか解らない。早く邸に戻らないと。帰らないと。


 しかし、やはり身体が思うように動かない。


「解った」


 薄っすらと瞳に映ったのは、同い歳くらいの少年。肌は自分よりもずっと生白く透き通っていて、瞳は金色をしていた。


 臙脂色の衣を纏った少年はどこからか取り出した黒竹の横笛を口に運び、音色を奏で始めた。


 その音色も曲も聴いたことがないのにどこか心に響き、安らぐ。


 ふらふらと横笛の先に付いている藍色の紐で括られた琥珀の飾りが、ぼんやりとしている視界の先で揺れている。


(・・・なんだろう・・・・楽になってきたかも)


 物悲しいような、しかしどこか懐かしいと思うようなその曲と、落ち着く音色が、バクバクしていた心臓を落ち着かせ、頭をすっきりとさせてくれる。


 一曲終わる頃には、視界ははっきりとし始め、指先も動かせるようになっていた。


「・・・ありがとう。助けてくれて」


「いいの?お礼なんか言って。俺が君をつき落としたのかもしれないのに?」


 軽い口調で、まるでそうだとでも言いたいかのように少年は言った。けれども無明むみょうは確信があった。


「それは、・・・違うと思う」

「そう?ならそうかもね」


 ふっと笑って肩を竦める。不揃いな肩くらいまでの細い髪の毛は結っておらず、前髪が長い。


 是非はこの少年には興味がないようだ。左耳の飾りが反射してキラリと光る。


 少し意地悪そうな、けれども優しそうな金の瞳が珍しくて、どうしても見入ってしまう。


 仮面越しに眼が合った気がして、思わず視線を逸らした。


「笛、綺麗な音だった・・・・俺も練習したら上手く吹けるかな?」


 藍歌らんかの琴の音が好きで、時々触らせてもらうことがあった。楽器は興味があり、笛も少しだけ吹いたことがあった。


 あまり上手ではないが。


 さっきのような音色を奏でられるなら、もっと頑張ってみたいと思った。


「できるよ。教えてあげようか?」


 言いながら、背中に手を添えて無明むみょうを起こしてくれた。含みがあるが嫌みのない声。


 ずっと聞いていたいと思う声音は、先ほどの笛の音のようだ。


「うん、でもね、俺は・・・・本当はひとりで邸から出ちゃダメなんだ」


「そっか。じゃあこれをあげる」


 はい、と少年は自分の持っている横笛を腰に差し、代わりに違う横笛を手に取って目の前に差し出した。


 見た目は普通の竹笛だが、上等な宝具のようだった。先の方に赤い飾り紐が括られていて、竹も艶があって美しかった。


「あ、・・・えっと、いいの?ありがとう」


 どうしてこんな高価なものをくれるのかと不思議に思ったが、少年があまりにも簡単に手渡してきたので、思わず受け取ってしまった。


「その仮面、」


 顔を覗き込んで、少年は首を傾げる。無明むみょうは身構えて、初めて自分を見た者が口にするだろう言葉に緊張する。


(なんで仮面なんか付けてるんだって、言いたいんだろうな・・・・)


「格好いいね。俺も真似しようかな」


「え・・・?変、じゃない?」


「なんで?その仮面が変なら、俺の眼の色の方がずっと変でしょ?」


 金色の眼を指差して、少年は言う。無明むみょうは指差したその瞳をじっと見つめて、首を振った。


「ううん。綺麗。お月様みたい」


 逆に今度は少年が驚いて瞬きをした。そして少し俯いて、ありがとうと呟く。


「あ、もう、行かないと!」


 無明むみょうは何事もなかったようにすくっと立ち上がって、衣の裾を絞る。絞るたびに足元に水が滴った。ある程度軽くなった衣に満足して、よしと頷く。


「走って帰れば乾くかな?まあ、適当に誤魔化せば大丈夫っ」

「これ、忘れ物だよ」


 はい、と霊泉の水がたっぷり入った竹筒を手渡す。右手に横笛、左手に竹筒を掲げ、無明むみょうはありがとう!と礼を言う。


 すっかり回復した身体を確認してから、もう一度頭を下げて少年に挨拶をすると、


「助けてくれて本当にありがとう!またねっ」


 言って、森の方へと駆けて行った。



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