21 椿回想 下等生物
『E組の立花ゆい子がラブレターをもらったらしい』
そんな噂が流れるなんて、当時の椿は夢にも思わなかった。
なぜなら、出会ったばかりのゆい子は、あまりにも平凡だったから。でも、そう思い込みたかっただけなのかもしれない。
高校二年の春、クラス替えで椿はE組になった。特に一緒になりたい人もいなかったので、別に何組でも良かった。
E組の教室は、初日とは思えないほど賑やかで、廊下の外まで楽しそうな声が漏れていた。その明るさが逆に、椿の心を暗くする。
意を決して中に入ると、同じクラスの人たちの声量は変わらないが、視線だけがチラチラと自分に向けられるのを感じた。
あからさまにじっと見てくる人もいれば、横目で見たそばから一緒にいる子と何か言葉を交わす人、一瞬だけ見て目が合うとすぐ逸らす人もいる。でも、彼らは別に話しかけては来ない。いつものことだ。
何も気づかないふりをして自分の席に着くと、鞄からペンケースや書類を取り出す。
すると、どこからか小柄な女子が野うさぎのように駆けてきて、目の前の席に勢いよく座った。
「ねえねぇっ!きれいな名前だね!イメージにぴったり!椿ちゃんって呼んで良い?」
「…え」
初日から誰かに話しかけられるとは思っておらず、椿は言葉を探していた。
何かを発する代わりに、瞬時に目の前の女子の顔を観察する。
特別かわいいというわけではないと椿は感じた。目がパッチリとはしているし、何が悪いというわけでもないのだが、バランスが良くないのかもしれない。けれど、色が白く小柄な体形と屈託のない笑顔、それにこの甘い声が、顔以上の愛嬌を放っていた。
黙っている椿を見て察したのか、この女子が再び口を開いた。
「あ、そっか、ごめんね。私、前の席の立花ゆい子」
その瞬間、胸の奥がざわざわした。一文字違い。
「…よろしく、立花さん」
「ゆい子って呼んで。みんなそう呼んでるから。ねっ椿ちゃん」
呼ばなければダメだろうか。そう思いつつ、椿は違う言葉を紡いだ。
「…うん、わかった」
「それにしても、本当に綺麗だねー!さっき教室に入ってきた時、絶対仲良くなりたいなあーって思ったの!」
「ありがとう。立…ゆい子ちゃんも、かわいいよ」
「えー嬉しいーー!椿ちゃんに褒められた!後でみんなに自慢しちゃお」
ゆい子は毎日後ろを振り向いて、取り留めのない話をしたがった。たまに放課後、遊んだりもした。
椿にとっては、特定の子と仲良くするというのは小学生ぶりのことで最初は戸惑ったが、次第に何とも言えぬ安心感を得るようになった。
友達というものを初めて知ったような気分だった。他人に興味などないと考えていたのに、いかに自分が友情に飢えていたのかを思い知る。
しかし、それと同時に、小骨が喉につかえるような違和感を覚えることも時折あった。
「それ、どこの?いつもと違うー」
「ん?これ?」
トイレの鏡に対峙して唇を軽くタップしながら色をぼかしていた椿は、質問したゆい子に自分のリップティントのブランドロゴを見せた。韓国のブランドだよ、と言った上で補足を加える。
「私、ブルベだからオレンジあんまり似合わないんだけど、たまに気分転換で付けてる。このシリーズ結構好きなんだ」
そう説明した後、椿はティッシュを上下の唇で挟んでからもう一度鏡を見て色味を確認する。
「へー」
その時のゆい子は、特に興味を持っているようには思えなかった。
けれど、数日後、それは誤解だったと知る。
「ゆい子、今日オレンジリップかわいー」
同じクラスの瀬尾ののかがゆい子に微笑んだのは、女子三人で景色の良い場所をバックに写真を撮った直後のことだった。
二年になって一ヶ月と少し、遠足で横浜を訪れた椿達は、班行動で遊園地にやって来たのだった。
朝、学年全員での集合場所にゆい子が現れた時、椿はすぐにそれに気づいた。
つい先日、自分が教えたブランドの、自分が持っている物と同じシリーズの全く同じオレンジ色をした唇。
それが悪びれることなく楽しげに、おはよー、と近づいて来たのだ。
全員でマリンタワーに登って展望台から景色を眺め班別行動に移るまでずっと、椿はゆい子の側にいたが、何を話したのかはもはや覚えてはいなかった。
ゆいこの鮮やかな唇が何を言っても響いて来ない。
ティントを使ったのはおそらく初めてなんだろう、と椿は感じていた。
色ムラと縦皺が時間と共に段々と目立って来て、このリップの良さを発揮できていない。
けれど、リップの話題に触れようともしないゆい子にそれを教えてあげる義理はないと思った。
何より、このオレンジ色が、ブルーベースの肌の自分よりもイエローベースのゆい子に似合うことが癪に触った。
「えーありがとー!最近のお気に入りなの」
班行動途中、ののかに褒められて、ゆい子はさも前から使っていたかのようにそう答えた。
「どこのー?」
「えっとなんだっけ、韓国コスメなんだけど…」
そう言って、自分のスカートのポケットに手を入れて探る。
その瞬間、椿と目が合うと、ゆい子はポケットから出しかけたオレンジの何かを結局出さずに耀太達の方を指差した。
「あ、男子達待ってる、行こ!」
ののかと腕を組んで足速に去っていくゆい子の背中を眺めながら、椿は思った。
後ろめたさは持ち合わせているんだ、と。
それなのに、椿が真実を話せばすぐに明らかになってしまう事実を目の前で平気で捻じ曲げる心情が分からなかった。
こちらが何も言わないと高を
理解し難い。ゆい子という少女は、椿に時折そんな風に思わせる存在でもあった。
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