12 椿 井底の蛙

放課後、正面玄関の掲示板を眺めながら、椿はある人物を待っていた。

時々、振り返って、向かいの新しい校舎からこちらの玄関へちらほらと流れてくる三年生の姿を確認する。まだ来ない。

少し離れた階段の影からこちらの様子を見守っているゆい子に、頭を振ってそのことを伝える。すると、ゆい子も残念そうに頷いて向こう側の校舎の様子を窺う。


二人でお昼ごはんを食べている時に、高岡先輩の身辺調査は椿がすることに決まった。

ゆい子が仲の良い先輩は高岡先輩との関係を知っていて、わざわざ聞きに行くと変に思われる可能性がある。そこで、椿が所属する吹奏楽部の先輩が高岡先輩と同じクラスということで、こちらの方面から情報を仕入れることとなった。


希美先輩は、椿の担当するフルートのパートリーダーだった。明るくて責任感があり、今年の夏に部活を引退した後も、残された後輩を気にかけてくれている。

そんな先輩なら、偶然、直属の後輩の後ろ姿が目に入れば、必ず話しかけてくるだろう。


三年生の校舎は別棟だが、先輩が放課後にほぼ毎日、こちらの校舎に訪れることは知っていた。推薦入試で提出する論文を書くために、国語の教師に相談しに来ているからだ。

こちらからわざわざ向こうの校舎に会いに行って話しかけるより、ここで待ち伏せする方が怪しまれずに済むと椿は考えた。そして、その考えは見事に的中することとなる。


「あれー、椿ちん何してんの?今帰り?」


「あ、のんちゃん先輩。今日も論文ですか?」


わざとらしくならないように気をつけながら、振り返って軽く微笑む。


「そうそ、論文なんか書いたことないからさー、本当大変。あ、学生新聞見てたの?」


「はい。この水泳部の高岡先輩ってすごいですよね。大会新記録で優勝って。中学の時から有名だったとか」


「あー高岡ね。同じクラスだよ」


「えぇー、そうなんですかぁ?」


今の言い方は少しわざとらしかったかもしれない。そんな椿の様子など全く気にする様子はなく、希美はふいに笑い出した。


「でもこいつ、水泳はすごいんだけどさ、ちょっとアホなんだよねー」


「え?」


「今回のこれ、新聞に大きい写真載ってたねって言ったら、どこのスポーツ誌!?とか言い出してさ。学生新聞だよって言ったら、何それって」


「まさか、知らなかったんですか!?今までに何度も載ってるのに…」


「そうみたい。成績とか小さい写真は何度もあったけど、インタビューとかはなかったらしくてさ、自分が載ってることに気付いてなかったみたいなんだよね」


椿はなんとなく、最近そんなやりとりを間近で聞いたな、と思い出して心の中でくすっと笑った。


「ふふ。そういう人ってたまにいますよね」


「そんな奴なかなかいないよー。本当バカなんだよ。あ、やば。私そろそろ行くね」


希美が手をひらひらと振って歩き出す。


「…あ、先輩!あの、湯川先輩のことは何か知ってますか?」


「え…湯川?なんで?」


これは、あまりにも不審な聞き方だったと椿は自分でも思ったが、とっさに口に出てしまったものは仕方ない。


「あ…えーっと、友達がちょっと気になってるみたいで」


「へぇー。まあ確かに雰囲気はかっこいい…のか?でも、チャラいだけだからやめといた方が良いよって友達に伝えて」


じゃあねー、と今度こそ去って行く希美を、取り繕った笑顔で見送る。


「椿ちゃん」


振り返ると、ゆい子がいぶかしげな顔をして立っていた。ゆい子は先程まで、先輩が向かったのとは逆側の階段付近にいたはずなのに、いつの間にかすぐ側まで来ていた。心臓がバクバクと脈打つのを感じる。


「あ、高岡先輩ね、学生新聞のこと知らなかったみたい。だから―――」


「うん、聞こえたよ。それより、なんで湯川先輩のこと聞いたの?最近彼女出来たから違うって椿ちゃんが言ってたのに」


椿の言葉を遮って、ゆい子が問い詰めた。


「それは…一応、ついでに聞いてみようかなって。それだけだよ」


「っていうかその噂、誰から聞いたの?いつも椿ちゃんって噂話とか全然知らないじゃん」


ゆい子の表情はいつもと変わらず穏やかだが、目は笑っていない。


「…別に、普通に、同じ部活の友達から聞いたんだけど。何か関係ある?」


「んー、別にー」


全く納得のいっていない顔で、明らかに不機嫌そうな声を出すと、ゆい子はふいっと振り返って玄関に向かって歩き始める。

ゆい子はごくたまに、こういう振舞いをすることがある。自覚があるのかは分からないが、それを見せるのは椿の前だけで、男子が一緒にいると絶対にしない。

まるでメッキが剥がれ落ちるみたいだと椿は思う。


それぞれの通路で、無言で靴を履き替えていると、女子が数人で騒がしく階段を降りて来た。


「あ、ゆい子じゃーん!」


椿からは、佐伯千尋がゆい子の下駄箱のある方向に駆け寄る姿が一瞬見えた。

通路を挟んだ向こう側からは彼女達の会話が聞こえて来る。


「あ、ねー、うちらこれからカラオケ行くんだけどゆい子も行くー?」


「カラオケ!?やったー、行くー!あ、でも待って…」


「え?なに?…あー、そっか、そしたら…」


突然、ところどころ会話が小声になり、椿には聞き取れなくなった。たまにクスクスと笑い声だけが伝わる。

靴を履き終えた椿は、声の方に向かって歩き、ゆい子の下駄箱のある通路に顔を出した。


「ゆい子、私、用事あるから。先に帰るね」


ゆい子と千尋、それから他の女子はピタッと会話を止めて、椿の方へ振り向いた。


「うん、分かった。椿ちゃん、また明日」


女子に守られるように囲まれた小柄なゆい子がにっこりと笑う。

その光景が、なぜだか椿の口から言葉を紡がせた。


「…ねぇ、本当にいると思ってる?」


ゆい子にラブレターを出した人なんて。

少しの間があってから、ゆい子は首を傾げた。


「何が?」


「何でもない。また明日」


椿は微笑んで手を振った。

正面玄関を一歩出ると、落ち葉と共に冷たい風が通り過ぎて行った。舞い上がった黒髪を抑えて耳に掛ける。


「かわいそうに」


心の中で吐いた言葉は、椿の口からそのまま溢れていた。

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