第1話

 よく晴れ渡った春の空に、清雅な鐘の音色が鳴り響く。重くて太いロープを引くたびに、鐘楼の上に取り付けられた二つのそれが、交互に音を奏でた。

「祈りましょう。天からあなたたちを見守ってくれているご家族に、永遠の安穏があらんことを」

 五年前の事件の直後、孤児院の端には小さな礼拝堂が建てられた。飾り気のない内部に、院長の朗々とした声がふうわりと反響する。子どもたちはベンチに礼儀正しく座り、目を閉じて、あるいは涙をこぼしながら、今は亡き家族に想いを馳せていた。

 その様子を側廊から眺めながら、アイビーはひたすら鐘を鳴らし続けていた。

 自分に祈るべき家族はいないが、ここにいる子どもたちの家族に祈ることは出来る。その一心で。

 どれだけそうしていただろう。院長が「目を開けてください」と言ったところで、アイビーも手を止めてベンチに移動した。

 正面を見上げると、祭壇に立つ光の神と闇の神の小さな像と目が合う。二柱の背後にある素朴なステンドグラスを通して、礼拝堂の中には温かで神々しい光が降り注いでいた。

「みなさん、しっかりと祈れましたか? ご家族は神さまと一緒に、私たちが平和に暮らせるように見守ってくれています。孤独を感じることもあるかも知れませんが、大丈夫。目には見えないけれど、ご家族は光となってそばにいてくれるのです」

 院長の言葉に、子どもたちは頷いたり小さく返事をしたりする。五年前から一言一句変わっていない文言だな、と思いつつアイビーも頷き、言葉の続きを待った。

 毎年この日には、神に捧げる詩を全員で朗読することになっている。今年は何を読むのだろうと待っていたが、院長の口から出たのは詩ではなかった。

「さっ、みなさん。今日は大事なお知らせがあります」

 それまでの沈痛な面持ちから一転、話し方もがらりと変えて、院長はほっこりとした笑顔を浮かべた。ふくよかな顔のあちこちに、積み重ねてきた年齢を思わせる小じわが刻まれる。

「二日後、孤児院にお客様がいらっしゃるわ。とても高貴なお方ですから、くれぐれも粗相のないように」

 ――お客様?

 高貴なお方というからには貴族だろう。月に一度くらいは領主とその家族が訪問してくるから、二日後の客とは彼らだろうか。いや、彼らが来るさいの事前告知はされたことがないし、そもそも領主たちは一週間前に来たばかりだ。

 アイビーと同じ疑問を抱いた子どもが何人か手を上げ、「どんな人が来るんですか?」と次々に問いかける。院長は「落ち着いて」と一旦なだめ、

「数年ぶりに、王族の方が視察に来られるのよ!」

 と誰よりも落ち着きのない声で高らかに言った。

 次の瞬間、院長に続いて声を張り上げたのは、他ならぬアイビーだった。

「王族ってことは、殿下が来るのね!」


 レンフナは大陸の内陸部に位置する王国だ。近隣国とのいさかいも無く、平和で安全な国と言われていたが、五年前に大事件が起きた。

 幻獣ヒュドラの出現――のちに「ヒュドラ災害」と呼ばれたそれは、人が多く集まっていた王都付近で甚大な被害をもたらし、離れた地域でも風に乗って毒が蔓延するなど、国民の多くが怪我や病に苦しめられ、命を落とした。

 アイビーの暮らす地域は王都から離れているものの、風向きの関係でヒュドラの毒が漂ってきやすかった。当時は解毒薬も無く、毒を多く吸い込んだ者から順番に倒れていった。孤児院でも被害が発生し、子どもたちが何人か犠牲になったが、それを上回る数の孤児や親とはぐれた子どもが殺到して大混乱だった。

 数日間の死闘の末、ヒュドラは無事に討伐されたという。しかし、どうして現れたのかなど謎が多く残っているらしく、調査は引き続き行われているそうだ。

 そもそも幻獣とは何なのか、アイビーはよく分かっていない。孤児院の近くには大昔に人々を救ったという幻獣を奉る教会があるので、てっきり良い存在なのかと思っていたが、ヒュドラの件でそうではないらしいと知った。

「幻獣ってなんなの?」と先生たちに聞いたこともある。が、「魔術師の人たちが作ったのよ」とよく分からない答えが返ってくるだけだ。「じゃあ魔術師って?」と聞くと、誰もが口をつぐんでしまう。

「そういえば、殿下も幻獣と契約が何とかって言ってたような……」

 二日後の朝、アイビーは間もなくやってくるであろう殿下のことを考えながら呟いた。

 殿下が名前ではないと知ったのは、初めて会った日の翌日だった。「『でんか』って変わった名前ね」と話したアイビーに、年上の子が「名前じゃないよ。『でんか』は敬称ってやつなんだよ」と教えてくれた。

 それに、彼がくれた手巾には「T」の字が縫われている。殿下の名前のイニシャルに違いなく、先生たちに名前を聞いてみようとも思った。けれど、どうせなら彼の口から聞きたくて、あえて訊ねないままでいる。

 月日が流れ、彼はきっと見違えるほど立派な大人になっていることだろう。天使が紡いだ美しい糸のような柔らかな黒髪と、笑うと輝く深緑色の瞳。幻獣ヒュドラ討伐には殿下も参加したと聞いている。あの美しい炎を駆使して戦ったのだろう。

 また会える喜びに飛び跳ねたい反面、彼に覚えられていなかったらどうしようと不安にもなる。

 何せ六年ぶりの再会なのだ。こちらは強烈に覚えていても、殿下にとっては国中にごろごろといる孤児の一人にすぎない。

「で、でも、急に水をぶちまけたのなんて、あたししかいないはず……」

「アイビー姉ちゃん、どうしたの」

「顔がいつも以上に怖いよー」

「『いつも以上に』ってなに。普段から怖いって言いたいのー?」

 アイビーは心配そうに見上げてきた子どもたちの頭をぐりぐりと撫で、「気にしないで」と順番に肩を叩いた。

 孤児院の門からエントランスまでは一本道だ。普段は殺風景なそこに、今は院長を先頭にして、両側に先生や子どもたちが総出で並んでいる。アイビーはエントランスから見て右の列の真ん中あたりにいた。思い返せば、六年前にもこうして殿下を迎えていた。あの時もここに立って、どうしてみんなで並んでいるんだろうと疑問に感じたものだ。

 やがて馬車が近づいてくる音がした。はしゃぎたい気持ちを必死に抑え、殿下の訪れを静かに待つ。

 まず始めに見えたのは、馬に乗った騎士たちだ。物語でしか見たことが無い銀の鎧と、高く掲げた右手には重そうな旗を持っている。風になびくそれに描かれているのは王家の紋章か。

「ねえねえ、腰のところの剣って本物かな!」

「そうなんじゃない? あとで聞いてみるといいわ」

「お馬さんもカッコいいね! 白いのなんて本でしか見たことない」

「あまり近づいちゃダメよ、もう少しだけ大人しく、……!」

 続いて現れたものに、アイビーは思わず息をのんだ。

 二頭の白馬が引いているのは、これでもかと飾り付けられた黄金の馬車だった。しかしさすが王族が使うだけあって、下品さは欠片もない。神話の登場人物たちを象った金の像があちこちで光りを受け、眩い輝きを放っている。丸みを帯びたキャリッジも金で縁どられており、中の様子は深紅のカーテンで遮られていて見えなかった。

 ――この中に殿下がいるのね。

 目が合った時に気付いてくれるだろうか。もし覚えられていなかったらどうしよう。

 六年前に比べ、アイビーは身長も髪も伸びた。当時は短かった朱い髪も、今は尻に届くほど長く、うなじのあたりで一つにくくっている。顔つきも大人っぽくなったし、一目見ただけでは気付かれない可能性もある。

 そうなったら、いよいよ「あの時、水をかけたアイビーです」と申告するしかない。恥ずかしい気もするが、誰だか分からないと言われるよりマシだ。

 内心で葛藤しているうちに、馬車がゆっくりと停まった。御者が扉を開いたが、そのせいで降りてくる場面がアイビーからは見えなくなってしまう。もどかしい思いをしているうちに、すらりと伸びる脚が見えた。殿下だろうか。

 心待ちにしていた再会だ。扉が閉められ、ようやく全身を見られたのだが、

「……えっ」

 そこにいたのは、滑らかな金髪の男だった。

 こちらに背を向けているため顔は窺えない。汚れのない真っ白な上着には藍色の糸で縫われた花が艶やかに咲き、長い金髪は背中の真ん中でゆったりと結われ、リボンは花と同色に揃えられていた。

 あれ、殿下の髪って黒くて短かったはず。着ていた服も黒かった。自分の記憶違いかと思ったが、そんなことはない。もしかしてあの人は従者とかで、実はもう一台馬車が来る予定で、そちらに殿下が乗っているのだろうか。けれどそんな気配は全くない。それとも六年間で容姿が変わった、とか。

 礼拝堂で「殿下が来るのね!」と叫んだとき、院長は確かに「ええ、もちろん」と言ったはず。困惑するアイビーをよそに、先生や子どもたちは口々に歓迎の挨拶を述べていた。

 その時、男性がゆっくりと振り向いた。瞬間、限界まで膨らんでいた期待は、呆気なく音を立てて破裂した。

 どことなくほの暗い空気を纏う彼は、アイビーが待ち望んでいた殿下ではなかった。瞳こそ殿下と同じ深緑色だが、顔が全く違う。眠たげな目つきと、不健康そうな色素の薄い唇は、記憶の中の殿下と一致しない。男は作り物めいた笑顔を浮かべ、

「初めまして。シャガ・エーレ・エアフォルクと申します。気軽に『殿下』と呼んでください」

 今にも消えそうな、鈴のように澄んだ声で言った。


 楽しそうに庭を走り回る子どもたちをぼんやりと眺めながら、アイビーは木陰で肩を落としていた。

「殿下は殿下でも違うわ……」

 語尾はほぼ言葉にならず、代わりにため息が漏れる。

 金髪の殿下――シャガは国王の第一王子だという。彼は今、数多いる護衛や、王族一行のあとから登場した領主と共に院長の部屋にいるはずだ。

 脆く砕け散った期待をかき集められず、立ち直れない。楽しみにしていた分、失望が何倍にもなってアイビーに覆いかぶさってきた。

「あらアイビー。そんなところでどうしたの」

 ひょこっと木の後ろから茶色いお下げ頭が覗く。一つ年上のユノだ――殿下が敬称だと教えてくれたのは彼女である――。アイビーよりずっと前から孤児院で暮らし、来年にはここを出ていくという。十八歳になると一人で生きていくのが決まりなのだ。

「『殿下が来る!』って誰よりも楽しみにしていたの、あなたじゃない」

「そう、なんだけど……あたしが待ってた人じゃなくて……」

「そうなの?」

 詳しいことを説明すると、彼女は残念そうに眉を下げた。

「だからずっとここに座り込んでたのね」

「うん……見た目が変わったのかなあとも思ったけど、名前を聞いて絶対に違うって思って」

「イニシャルがTなら、ひょっとして弟君の方じゃないかしら」

「あーっ、名前は言わないで! 本人から直接聞くって決めてるんだもの!」

「ごめんごめん」からからとおかしそうに笑った後、ユノは眉間に皺を寄せる。「でも、だとしたら、ここで会うのは難しいかも」

「どうして」

「だって弟君は幻操師だもの。院長って魔術師だけじゃなくて、幻獣とか幻操師も嫌いだから」

「……そうなんだ」

 魔術師のことを聞いても先生たちが口を閉ざしていたのはそのためか。院長の怒りに触れないために。自力で調べようとどれだけ書庫をあさったところでもその手の関連書籍が見つからなかったのも、隠してあるか、あるいは元から置いていないのだろう。

「でも六年前は来たじゃない」

「あの時は弟君が幻操師だなんて知らなかったんだって。王族が来るのは拒めないだろうし、いざ来たら大人の対応をするとは思うけど」

 ユノによると、院長の魔術師、幻獣、幻操師嫌いはそこそこ有名なのだという。噂が弟殿下の耳に入っていれば、わざわざ来ようとはしないだろう。

 手巾を陽に透かし、アイビーは途方に暮れた。孤児院で暮らしている以上、弟殿下に会うのは困難を極めそうだ。

 いや、待て。

「あたしから会いに行けばいいのよ!」

「えっ?」

「だから、あたしから殿下に会いに行くの! 待ってばかりじゃダメなんだわ、どうして思いつかなかったのかしら!」

 現在、孤児院の外に出かける事はあるが、他の子どもたちも一緒だし、全員を監督する先生たちもいる。ひっそり抜け出して殿下に会いに行くのは非常に難しいかも知れないが、やってみる価値はあるだろう。

「次のお出かけはいつだったっけ。一時間くらいいなくなっても気付かれないといいけど」

「期待を打ち砕くようで悪いんだけど、無理だと思うよ」

 うずうずと笑みを浮かべていたアイビーに対し、ユノは形のいい唇をかすかに歪めた。

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