ミエナイチカラ

明日葉叶

第1話 見えない力

 満員電車は嫌いだ。

 人混みもそうだし、ここには俺の嫌いな個性豊かな人間がいる。みんな違ってそれでいいなんて言うけれど、その違いが牙をむく瞬間が多々ある。

 例えば昔、俺は自分がひた隠しにしてきたことで深く傷ついた経験がある。

 俺はよく鼻が利く。人以上犬以下ぐらいには匂いに敏感だという自負がある。

 あれは小学校高学年の時。その時初めて友達と映画館に行って、当時はやっていたSF映画を見るという事になっていた。自分のその個性を隠すことでクラスから浮いた存在になりかけていた俺に声をかけてくれたクラスの中心的な奴に素直に感謝した。嬉しかった。

 映画が始まって、俺たちは暗がりの中で演じられる物語を夢中でそれ以外の事には無頓着だった。俺なんかは特に、これが終わったらきっとどこかでご飯でも食べながら感想でも言いあったりするんだろうなんて軽い気持ちで過ごしていた。

「財布がなくなった」言い始めたのは大柄のクラスでも喧嘩が強いほうの奴。誰しも彼の財布何て獲るわけがない。そんなことしたら犯罪者だ。

 だから俺も当然のごとくそれを否定した。例え家が貧しくとも精神までは腐っていない。

 彼の財布には彼の家の物であろう独特の芳香剤の匂いがした。財布だけじゃない。彼の着ていた上着にもそれらしい匂いがした。そのことに誰も気づかないのか、誰も言わなかったので俺もそれに従っていた。

 映画も終わってもう何人か退館しだしたころ、俺たちは口論になっていた。もちろん誰が犯人かなんて誰にも分らないことについて。俺を含めた4人全員に容疑がかけられる。誰も答えないその質問に、ついに彼が怒り出す。最初は胸倉をつかむ程度で済んだことだった暴力も、ついに突き飛ばす攻撃に変わっていく。

 俺には隠していた個性があった。誰にも言えない秘密。それをみんなの前で出してしまえば、きっと……。

 場所の特定にそう時間はかからなかった。薄暗い館内だ。いくら座席の下を探ったとしても溝に入ってしまえばわかるものもわからない。その時、俺の瞳には彼の財布がしっかりと映っていた。

「お前じゃなかったら誰がとったんだよ? 証拠でもあんのかよ?」

「俺だっていう証拠もないだろ? 言いがかりつけんなよ」

「もっと探そう。誰も人の物なんて盗るわけないだろ?」

「係の人呼んで来ようよ」

「……」

 俺には個性があって、誰にも言えない。……ハズなのに。

「あの、……これ」

「お前……!?」


 差し出しただけだった。見つかったと。

 そのあと俺は、みんなから……。

 あの時をこうして思い出しては胸が苦しくなって、周りが見えなくなる。

 パニック障害と診断されたのはここ最近の話だ。

 普段は通勤に自転車を使っているのだけど、雨の日は仕方なくこうして電車に揺られて通勤している。一応薬の服用はしているけど、そんなもの一時的なものでこうやって人に囲まれていると吐き気がしてくる。

 そういう時は、小説を読む。文字に集中することで余計な周囲の影響から注意をそらせる。

 悪夢はそういう時に限ってやってくる。

 車内が大きく上下し、俺の右斜め前に立っていたサラリーマンの鞄が持っていた文庫本に当たった。落ちたのは俺の生命線だった。周囲にはいろいろな匂いがあり、それらが混じっていて俺の鼻も利きそうになかった。

「すいません。お怪我はありませんか?」手を差し伸べるその中年男性に吐き気を催す。

「あの。この本落ちてました」それを見ていた女子高生にも動悸を覚える。

 車内に俺の逃げ場所なんてなかった。きっと俺はここで死んでしまうんだろう。そう思えた。

「小金井君!?」聞きなれた声だった。どこかで聞いたような、なじみのある声。

 胃酸が食道を逆流してくるのを必死に抑えて前を向く。

「沢渡さん……?」

 同じ工場で働く最近入ってきたばかりの騒がしい年上の後輩。ただでさえ女性社員の少ない俺の勤務先の中で、透明感のある女性として男性社員から熱狂的な人気がある。こうして話をするのは初めてだけど、いつも自転車で通っている俺が電車にいるものだから気づいたらしい。

「ちょっと大丈夫? 駅員さん読んでこようか?」

「いや、く、薬さえ飲めば大丈夫なんで」と言ってから気づいた。サラリーマンや女子高生が近くにいたときよりずっと吐き気も動機もなくなっていたことに。

 彼女からは懐かしい匂いがした。生まれた町の桜の匂い。実家で咲き誇るソメイヨシノの匂い。

「だってそんなに顔色悪いじゃない!? ちょっと私駅員さん呼んでくる」

 咄嗟だった。こうしていないとまたあの地獄がやってくる。

「え!? ちょっと!?」

 当然の反応だ。こんな顔色を悪くした男に急に腕を掴まれるのだから。

「少しだけ……もう少しだけそばにいてもらえませんか?」

 口にしたとたん言葉にできた安堵の気持ちより、行ってしまったことの後悔のほうが大きかった。聞こえようによっては、いや。僕の事情を知らない限りは絶対に誤解される発言なのだから。

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