第20話『武辺者の嗜』

 ガラス粉をまぶした糸が張られている。糸はじっとりと毒が塗られている。体が擦れても、切れたものがまとわりついても、かすり傷から多少の毒は入り込む。

 落とし穴だ。足の裏が沈む程度のくぼみに菱が置かれており、とうぜんのように毒が塗られている。

 手裏剣が飛んでくる。飛翔音のする鋭いものではなく、円盤のような、笠のような、回転しながら宙をゆっくり滑り来るものが飛んでくる。


 ぷはぁ――と、宗章は地に伏せて息を吸う。息継ぎであったが、毒の大気が常の空気より重いか軽いかは賭けであった。地べたのたらいの中にあった空気を吸い込み、泥にまみれて立ち上がる。


(厄介に過ぎる。ともすれば毒で共倒れでもヨモギバライの勝ちか。さて、いかんせん。――)


 宗章は完全に後手に回っている。対応させられる側に回ってしまったのだ。どこかにいるヨモギバライは宗章を観察し、動き回る彼をあらかじめ設置した罠に誘導し、騙し討ちし、仕留めればよいだけのことであった。

 息をすると、眠りの空気が効果を発揮する。


 銅と酸を反応させてできあがる気体を空気に混ぜることで効果を発揮させる独自の配合であり、常の大気より重いそれを人の身の丈当たりまで舞い上がらせるために濃霧にもにた霧状の混ぜ物でこれを成す。

 遁走にも、集団攪乱にも使用できるヨモギバライの秘術『霧隠』である。

 霧に隠れるだけに非ず。霧に隠すのである。


(地べたに這いずっておれば、いずれ力尽きよう。佐助の前に俺が仕留める。仕留め損なった俺の責務よ)


 ヨモギバライは民家の屋根に身を伏せながら、霧を押しのけ移動する宗章の流れを見て位置を把握している。ここまで高ければ、かろうじて月明かりで視認が好くなる。頭上を取ったヨモギバライの勝ちであった。


 流れが滞る。

 吹き矢を放つ。すぐに移動する。物陰に潜み目を閉じる。目を開けると、思いのほか闇夜で光るのを忍者らはよく知っているのである。剣者柳生の人間も、熟知のことであろう。獣と戦うときの常識でもある。


 宗章は躱す。

 羽織を左手に、仰ぐように盾とする。針は防げても、手裏剣までは躱すほかはない。

 ただ、(なるほどな)、と光明を見た。


(気が付かれたか)


 ヨモギバライは聡い漢である。宗章が射線そのものよりも射出もとが高い位置であることをこの短時間で掴むのも想定内である。


 たん、たん。


 水桶に足を掛け、庇に乗り上げ、一挙動で屋根に降り立った柳生宗章を見ても、そう驚きはしなかった。

 三間向こうから大きく息を吸い、整える武士。

 忍者は濃緑の装束の身を縮めるように蹲ると、すとん――と霧の中へと身を落としていく。


「あのやろう」


 宗章は歯噛みした。

 呼吸は解放されたが、霧の中に潜まれてしまう。

 文字通りの霧隠にしてやられた形となる。


 こうなると、屋根裏を含む総ての膝下が敵陣となってしまう。

 追い詰められたのは宗章であった。

 息を吸いたさに水面から出てきてしまったようなものだ。相手は忍者である。――そう思った瞬間、四方から手裏剣が飛んでくる。同時ということは、仕掛けでの発射だろう。


「よもや筧屋に来ると情報が漏れていたのではあるまいな」

「漆手衆を侮るな。筧屋に呼んだのは俺らの方よ」

「ああ、そうかい」


 背後から声。

 振り向きざまに横薙ぎの一閃を放つが空を斬る。いや、藁束を斬っていた。身代わりの術である。しかも、煤の粉入り――目潰しである。

 視界を奪うことが目的ではない。眼球の異物に苦しませ、思考を奪うのが目的である。


「この状況で目をつむっておるとは、ほんとうに剣者かお主」

「知らんのか。柳生庄の剣士はたいていこういう真似をする」


 ひょいと顔を出し誘ったヨモギバライを斬り損ね、宗章は忍者の消えた霧に目を落とす。落としながら右から飛来した手裏剣を躱し、ため息をつく。

 術中にいるうちはのは道理である。

 柳生新陰流はための剣であるが、それ故に宗章は覚悟せざるを得なかった。


「よし、死のう」


 そう言って、霧に飛び込んだ。

 ぎょっとしたのはヨモギバライである。あっさり「死のう」と飛び込んだ挙げ句、微かに残った自分の気配を追ってくるではないか。


(死兵とはそういうものではなかろう)


 ヨモギバライは戦慄を覚えた。

 うなじが逆立ち、肌に泡立ちが奔る。


 ――動きが掴めぬ、頭上を取る。


 そう思った瞬間、勝負がついたと言っても過言ではなかった。

 

「取ったぞ、ヨモギバライ」

「柳生宗章。――」


 屋根へと上がったヨモギバライの、そのさらに頭上。

 土蔵に差し渡した鉤縄で勢いを付け、夜闇中空へと身を躍らせた柳生宗章が化鳥のように二刀を引っ提げて落下してくる。


 ヨモギバライは屋根に身を横たえた。刀刃の斬撃から身を守るためである。そこに柳生宗章が体重を掛けて飛び降りてきた。


「ちぇああ」


 落下磊落の踏みつけがヨモギバライの腹を蹴り抜いた。

 屋根が抜け落ち、ふたりの体が梁に当たり弾き飛びながら土間へと叩きつけられる。

 しかし、ヨモギバライの肉体のほうが下であった。

 腕を極められ、体重を掛けた投げで叩きつけられていた。

 腕は折れ、鎖骨も砕けているだろう。


「新陰流『カツオドリ』。隠し道具は武辺者の嗜よの」


 投げ技を呟き、鉤縄をもうひとつ出すと、ヨモギバライを縛り上げる。忍者を知る男の束縛である。縄抜けが出来ぬよう丹念な仕上げを以てこれを拘束する。

 気を失っている忍者に活を入れると、宗章は落ちた二刀を拾い上げる。


「俺の勝ちでいいか」

「殺さぬのか」

「毒霧の発生源を吐けば殺してやるが、死にたいのかね」

「死にたくはないが。――」

「では決着は戦場でだな。信繁どのと共に相手になってやろう」

「ほざきよる。……坂の上だ。銅板を抜けばよい。塗り仕込んだ毒も、空に触れれば十数える間もなく無毒化する」

「恐ろしい技だな。証拠が残らぬ」


(気づきおったか)


 ヨモギバライは苦笑する。


「即効毒は仕込まなんだのか」

「……お藤は死なせられん。漆手衆の、柴田の意地、太閤が名を貶める要だからな」

「馬に気を遣い、こたびまた他者に気を遣う。お主、忍びにしておくには性根が真っ当すぎる。柳生に似ておるな」

「どこがだ」

「仁と義、そして前に進む勇。三の厳を柳生の意地という。似ておるな」

「…………なにをしておる」

「いや、金目の物は持っておらぬかなと。おお、これが件の毒か。頂いておこう。銭はないか。おお、隠してあったか。ありがたい。手裏剣も貰おう。坂の上だったな、ではな」

「おい待たんか」

「待たん」


 入り込んだ眠り毒で寝入る住人らを救わねばならない。

 宗章は毒の対処をすると、何事もなかったかのようにヨモギバライを担ぎ上げ、筧屋へと戻る。灯りを付け、ひしを足で払いのけると、彼の体を火鉢の側に横たえる。

 自決させぬために猿ぐつわを嵌めようとしたが、忍者は首を振る。死ぬつもりはないようすだった。すぐ横で寝入るお藤に目をとめ、やるせないように表情が歪む。


「いまさらながらに、小娘をダシに世を混乱させる罪悪感に目覚めたか」

「いうな」

「なあに、お藤はちゃんと、自由にさせるさ」

「太閤の元につれて、自由なはずがなかろう」

「誰が太閤に渡すと。俺は謎を探れとしか言われておらん。こやつは、そうだな、尼寺にでもいったん放り込むか」


 寺、寺社仏閣の類いに纏わる世俗との隔絶までは武門も手出しが出来ぬ格と箔であった。禁中以上のデリケートな問題に触れる故、太閤秀吉でさえ無闇な侵略はできない。特に秀吉生母縁の尼寺という禁域は特にそうであった。


「ま、寺に放り込むまでは面倒見よう。ほとぼりが冷めれば――」

「秀吉が死ねば、か」

「そんときは一緒に旅をするさ。俺もこいつもまだ若い」

「そうか。――」


 宗章はじっと座り込み、行灯の側でひと息つく。

 そろそろ寝たいところであった。


「ひとつ聞かせて欲しい」とヨモギバライ。

「なんだ」

「あのとき水死しなかったのは何故だ。それがひっかかっており、釈然とせぬ。俺の毒術で身動きも出来ぬ、ままならぬはずであったろうに」

「ああ、あれか」


 宗章はヨモギバライに顔を向けたまま、フっと耳から息を吐いて行灯の炎を吹き消した。

 真っ暗になった部屋の中で、ごろんと横になる忍者の気配。


「嘘だろう……」


 完全に気が抜けた彼の嘆息だった。

 耳で呼吸。なんたる体術だと褒めたいところだが、気が抜けきってしまった。


「嘘だろう……」


 二度呟き、忍者は痛みで気を失った様子だった。

 手当は朝、筧屋に任せるとしよう。


 宗章は目を閉じる。

 限界であった。





 翌朝。

 騒ぎになる前に筧屋を起こし、放心するヨモギバライの手当と後始末を頼み、お藤を乗せて宗章は馬で南へと向かう。

 行く手に待つは、さらに磨きを掛けたであろう『猿飛』を身につけた佐助である。

 谷川岳。

 そこで待っているだろう。


「お藤、さすがに佐助と戦って勝てるとは言い切れぬ。いちど負けておるからな」

「おっちゃん負けたのか」

「嬉しそうな顔をするな。ともあれ、こと、ここに至っては単純に俺が斬られればもとの鞘に納まる……というわけにもいかんだろう」

「難しい話になるのか」

「難しい話は嫌だが、しとかんとなあ。お主の身の上がバレておれば、もはや陰謀の深化は不可能だろう。つまり、もう逃げちゃうか、お主が死なねば収まりはつかんということだ」

「難しい話じゃないな」

「単純にしか話せぬのだ。でだ、お主にも武器を授けておこうと思う」

「武器。――」


 宗章はちと沈思黙考し、鞍の前に座るお藤の耳元でぼそぼそと喋る。


「そんなもので」

「効くだろうなあ。隠し武器だ。武辺者の嗜さ、よ~く覚えておくように」

「ああ。――」


 お藤は釈然としない表情で頷く。

 宗昭の表情はしかし重い。

 正道故に、猿飛は制し難し。

 信繁戦を凌ぐ正念場であろう。


 佐助は、お藤を殺すのも吝かではないであろう。奴は忍者だ。希代の忍びだ。妄執柴田の意地に突き動かされる、剛脇差し『鬼の爪』の所有者である。


 かみに遭えば尊を斬り、仏に遭えば仏を斬る。

 親兄弟と雖も、斬らねばならぬなら――アヤメねばならぬ柴田と湯村の意地ならば、奴ならきっと斬るだろう。

 お藤を。


(させぬ)


 宗章は南を見据える。

 あの山を越えれば、そこは狭隘、越後の出口。かつて鬼が住むと言い伝えられていた要所、隻眼鬼の眠る『谷川岳』である。


 ふと、太刀の鞘に左手が伸びる。

 斬らねばならぬか。

 迷いがあるのは自分かと、苦笑する。


 晩秋の風に、紅葉が混じり始める。

 落葉の舞う中、人馬は往く。


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