第9話 初めての贅沢

「おお……これが風呂か」


 人一人が十分浸かれるほどの広さがある浴槽の中には、透明で温かな水が満ち溢れ、もうもうと湯気を立ち上らせている。

 部屋に設置された風呂場の中で、ロアは全裸の状態で独りごちた。


「この水、全部俺一人で使っていいんだもんなぁ。すごいよなぁ風呂って……」


 ロアの住むネイガルシティ壁外区には、各地に都市から供給される水が流れる水場が存在する。ただしそこは壁付近の居住区に暮らす住民用の為であり、ロアのような貧民の孤児には利用が許されていない。壁から離れたところにも水道が通っている場所は複数存在するが、そこも付近を縄張りとするグループに独占されている状態だ。そのためロアは、今までお金を払って清潔な水を手に入れるしかなかった。それも飲み水が大半であり、体を洗うのは数日に一度程度だ。当然お湯なんて出てきはしない。だから、全身を浸けるほどのお湯が必要である風呂は、ロアにとってほとんど縁のないものだった。

 そのお湯の中に、体中の汚れと垢を備え付けられた石鹸や洗髪剤で落としたロアが、つま先からゆっくりと体を沈めていく。そして肩ほどまでを湯船の中に浸けると、気持ちよう良さそうに息を吐いた。


「はぁ……この感覚……なんか凄い久しぶりな気がする……最高」


 以前風呂に入ったことをぼんやりと思い出しながら、ロアは湯の中で全身の力を抜いて、水の圧力にやんわりと身を任せた。そうしていくらか風呂の独り占めという贅沢を堪能した後、ふと思いついたことをペロに質問してみた。


「そういえばさ。ペロって俺と感覚を共有してるんだろ。だったら俺が気持ちいいって感じたら、ペロもそうなったりするのか?」

『いいえ、ロアの感じる感覚はデータとして集積していますが、私が同じ感覚を感受をすることはないです。私にはそれを処理する肉体はありませんから。ロアの感じたものを、ロアの肉体を通して擬似的に知覚する程度ですね』


 ペロの答えに、入浴で思考が半停止状態のロアは『ふ〜ん?』と曖昧な返事を返す。相変わらず発言の内容を理解するのが困難な相棒の説明は、入浴でふやけ気味になった思考状態では飲み込むのは難しかった。だからその後はだらだらと独り言のように呟きながら、返ってくるペロの言葉に適当に頷いて、久しぶりの風呂を大いに満喫するのであった。




「はぁ〜気持ちよかった」


 結局のぼせかけるまで入浴を堪能したロアは、浴室から出ると脱衣場にある清潔なタオルで体を拭いた。普段は外の水場で簡単に水浴びを済ませ、自然乾燥が当たり前であったロアにとっては、汚れの一切ない真っ白なタオルで水を拭き取るという行為はとても新鮮なものであった。このタオルを部屋を出るときに持ち帰るか、真剣に検討するくらいだった。しかし、流石にそれは犯罪行為になると思い躊躇した。代わりにこれくらいは許されるだろうと、贅沢に三枚ものタオルを使って髪や体を拭くことにした。


「あぁ〜……一回泊まるのに1万2000ローグもしたけど、これなら払う価値は十分にあったかも」


 現在のロアの手持ち財産は、およそ6000ローグである。これは訓練期間中に討伐した魔物の素材を買取所に持ち込み、地道に貯めた結果である。相変わらず拡錬石は自分で使ってしまうため、残りの素材は二束三文にしかならないが、それでもこうしてそれなりに上等な風呂付き宿に一泊出来る程度には稼いでいた。もう少し安い宿を選ぶことも考えたが、ペロに諭され、明日からの遺跡探索の景気付けも兼ねて、派手に散財したのである。部屋を借りた当初は、半ば勢いで1万ローグもの大金を使ってしまっことを少しだけ後悔したが、部屋に備え付けられた浴場を実際に体感してみると、そんな後悔は一瞬で吹き飛んだ。


「でもなぁ……こうやって一度贅沢を覚えると、元の暮らしに戻ったときが辛いんだよなぁ」


 綺麗で清潔なベッドに体を投げ出しながら、自分が昨日まで寝起きをしていた家とも呼べない寝床のことを思い出して嫌そうに顔を歪めた。

 こうして贅沢を満喫してしまうと、もう二度とあんなほとんど野ざらしな環境での生活はしたくなくなる。今まで人生の大半をそういう境遇で過ごしたのにもかかわらず、たった一日にも満たない時間でこれだ。以前知り合いの誰かが言った、贅沢は貧乏の敵だという言葉を思い出し、今更ながらそれが身にしみる思いであった。


『言っておきますけど、ロアの今までの暮らしは文明人のそれからは程遠いものですので、こんなものが贅沢だという誤解は早々に正しておくべきです。これこそがそこそこ最低限の人並みの生活というものです』

『……いや、ペロ基準の普通は絶対普通じゃないだろ』


 ずれた価値観を持つ相棒の言を、ロアは苦笑しながら否定した。

 もしかしたらペロの言う通り、昔の時代の人は風呂なんか当たり前に使用できたのかもしれない。しかしそんな生活は、今の時代では命がけの対価にようやく手に入るものなのだ。昔基準で生活水準を要求されたら、今の自分では命がいくつあっても足りないに違いない。だから贅沢を感じられるならば、ほどほどでも全く問題はなかった。


『だとしてもこの程度の宿にいくらでも連泊するくらい、今のあなたならすぐに稼げるようになりますよ』

『別にペロの言葉を疑うわけじゃないけどさ。それって本当なのか? 今日まで必死にモンスター倒したのに、合わせて3万くらいしか稼げてないんだぞ。拡錬石は自分で使うから売れないし、俺ってそんなに稼げないんじゃないか?』


 モンスターの素材で最も高いのは拡錬石だ。モンスターの心臓部とも言うべきこの部位は、討伐強度3のフォレストウルフで1800ローグ。強度6のフォレストベアなら6000ローグで売却できる。仮にロアが普通の探索者であるならば、既に軽く10万ローグ以上は稼いでいてもおかしくはないほどモンスターを倒していた。それならばペロの言う通り、本当に毎日風呂付の宿に泊まることが出来るかもしれない。

 だが実際は違う。魔力をほとんど持たないロアは、拡錬石を魔力の補給源としている。拡錬石の貯蓄量こそが生命線と言っても過言ではない。だからたとえどれだけ貯蔵魔力に余裕があっても、拡錬石だけは売らずに自分で使うように決めていた。そのため収入の中で最も高くなる筈の拡錬石を売ることができず、その分他の探索者よりも稼ぎが見込めない状態にあった。ロアはそんな探索者としての自分の現状に、ここでも才能の有無が足を引っ張るのかと、若干複雑な気持ちでいた。


『確かにそれはその通りですが、おそらくそれは問題ないと思われます』

『……どうしてそう言えるんだ?』


 自分の複雑な心境を悟られないように、それでも相棒の言葉に少しだけ期待を抱くようにロアは聞き返す。


『この二十日間ほど、すれ違う探索者の所持品や装備を私なりに調査してみた故の推論です。ロアが行きつけにしているあのガルディなる男の店に陳列されている商品の価格、それらから実際に正規の店で普通の探索者が入手している物資や装備の価格。それらを推定比較した結果、相対的な出費額はロアと他の探索者でそれほど変わらないと判断しました。むしろロアの方が少額になる可能性も考えられます』

『……つまりどう言う意味だ?』

『ロアの足りない頭でも分かりやすく言うと、金銭面での心配は現時点ではほとんど無意味だということです』


 久しぶりにペロの毒舌を聞いたロアであったが、それは大して気にならなかった。それよりも後に言われたことの方が遥かに重要に感じていた。


『ペロがそう言うなら信じるけど……そうか、考えるだけ無意味か……』


 自分の生まれついての欠点であり、コンプレックスに感じていた部分。それを自分以外の第三者に否定されてもらえた気がして、ロアは胸中にあるつっかえのような何かが少しだけ取れた気がした。


『でもまあ、ロアが大量の魔力に恵まれていたなら、今よりもっと稼げたかもしれないですけどね。惜しい限りです』

「おい! それは言わない流れだったろ!」


 茶化したペロは、突っ込みを入れてくるロアを適当に宥めすかす。

 もしもロアに魔力があったのなら、自分たちが出会うことはなかったかもしれない。そんなことを思考の片隅に過ぎらせながら。




 翌朝、目覚めたロアはまず周囲を見回した。見覚えのない空間に疑問を感じたせいである。

 意識を徐々に覚醒させたロアは、昨日自分が宿に泊まったことを思い出した。


「あー、そういえばそうだったな……」


 居心地のいいベッドの温もりを感じつつ、そんな納得を口に出した。


『おはようございますロア。今日から本格的な遺跡探索ですね。さっさと身支度してください。時は金なり。テキパキどんどん行きましょう』

『……ああ、おはようペロ』


 朝から地味にテンションの高い相棒に急かされ、名残惜しそうにロアはベッドから起き上がった。そして昨日までの、適当に荷物を持って寝床から移動するだけだった生活との違いを感じつつ、洗面所で顔を洗い洗濯された自分の衣服を身につけていく。


『なんかこうしてみると、今までの俺の生活ってなんだったんだって気がしてくるな……』


 自分がこれまで身につけていた使い古された着衣と、寝巻きに使った新品の部屋着。それぞれの違いに、ロアはこれまでとの生活を比較して、なんとも言えない気持ちになった。


『まだそんなことを言ってるんですか。それは昨晩話したでしょう。重要なのはこれからですよこれから』

『いや、そうじゃなくて。昨日今日と、時間で言ったら一日も経ってないはずなのに、もうこの環境に慣れ始めてる自分がいる気がして。それをちょっと不思議に思ったっていうか』


 記憶にないような贅沢をしたのに、それを既に普通に感じ始めている。その感覚がロアにはなんとも奇妙に感じられた。


『そういうのは慣れですからね。どんな贅沢や散財も一度体験すれば違ってくるものです。理想が現実になるといった感じですかね。一度の成功体験が人を堕落と破滅に導くのかもしれません』


 自分が二度とここのような宿には泊まれず、このまま探索者として成功できず路地裏で寝起きする未来。それを想像して、ロアは嫌そうに顔を歪めた。


『……やっぱ慣れって怖いもんなのかな』

『それ自体は悪くないと思いますよ。慣れは言い換えれば適応力とも言えます。生物の歴史において、強大な自然の猛威に適応出来なかった種から死に絶えていきました。人類史でも過酷な魔物との戦いや上位存在との争いなど同様のことが言えます。だからそういう意味では、素早い適応能力を身につけるのは生きる上で非常に重要なことです』


『そんなもんか……』と頷きつつも、なんだか妙な方向に話が転がり始めたのを感じたロアは、元の方向へと話の方向を修正する。


『ところで、今日から遺跡に挑むことになるわけだけどさ。ペロから見て何か気になることってあるか?』

『それはどういう意図の質問でしょうか。意味が分かりませんが』

『あー……なんて言うか。これだけはしとけみたいな。もしくはこれだけは絶対にするなって感じのことをだな……』


 自分の胸中にある気持ちをうまく言葉として表現できないロア。しかしそれで通じたのか、ペロは納得するように理解を示した。


『つまるところ、ロアは遺跡探索が間近に迫ったことによる緊張や不安を抱えているという訳ですね』

『……まあ、大体そんな感じだ』

『安心してください。能天気なら引き締めようと思いましたが、過剰に恐れる必要はありませんよ。そのための準備をこの一ヶ月間私たちはしてきたではありませんか。どんな心持ちでいようとなるようにしかなりません。ならば前向きに行きましょう。何よりあなたには、この私が付いているのですから』


 過度に期待させるわけでもなく、過剰に不安を煽るでもない。いつもの大袈裟な調子を控え、泰然とした余裕を思わせるペロの態度。それにより、ロアの心は落ち着きを取り戻していく。


『……そうだな。ペロの言う通りだ。今までもこれからも大して変わらない。やれるようにやるだけだ。──頼むぞ相棒』

『はい。私達ペロローアの存在を遍く世界に刻んでやりましょう!』

『……それはダサいから却下で』


『えー』とブー垂れる相棒に嘆息しながら、ロアは身支度を整えていった。

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