第2話 初対面

 まだ青い空に、湿っぽい草の匂いのする風が吹く。

「ここが問題のタテモノです」

 依頼人――神田結生かんだゆきが手で示したのは、細長い塔のような建物だった。高さはおよそ電柱くらい。五つくらいの巨大な部品でできているようで、梯子やら鉄板やらが組み上がり、てっぺんに細長い煙突のようなものがついている。

「これは……」

 なんだろう。なんの建物か全くわからない。しかもここは住宅地のど真ん中だ。タテモノは道路に突っ立っていて、神田さんが住んでいると言う家の前に立ちふさがっている。

「今日、外に出てみたら急にあったんです、昨日まではなかったのに」

「移動型のタテモノか」

 阿辺先輩の言葉に、神田さんはさっと顔を青くする。

「私の家、潰されるかもしれないんです、なんとかしてもらえませんか!」

 ここで、実月先輩が口を挟んだ。

「結生ちゃん、警察には言った?」

「はい……でも、ちゃんと取り合ってはくれませんでした」

 神田さんは怯えるように胸の前で両手を組む。実月先輩が小さく息を漏らした。タテモノはまだ殆ど目撃情報がなく、あまりにも非現実的すぎて、被害がない限り警察はあまり相手にしてくれないのだ。

 しかし実月先輩は、優しく笑ってみせる。

「オーケー結生ちゃん。私たちがすぐに解決するからね」

「待て。解決するのは西野だ」

 とん、と肩を叩かれる。思わず「えっ」と間抜けな声が出てしまった。

「もう阿辺、いくらなんでも最初からは……」

「俺たちは最後に出たらいいだろう」

「ちょっと待って。え、樹?」

 ぎょっとしたような声に振り返ると、神田さんがこちらを見開いた目で見つめていた。

「嘘でしょ?樹がタテモノ研究部に入るなんて」

「嘘じゃないよ……」

 ていうか……この子と会ったことあったっけ?僕の心を読んだように、神田さんはきっと僕を睨みつける。

「忘れたの?おんなじ中学だったでしょうが!」

「あー……あぁ!」

 そういえばいたような気がする。そうだ、結生だ。僕に対して当たりのキツい同級生。結生は疑わしげに僕を見つめる。

「えぇ……樹がやって大丈夫なの?」

「大丈夫。初めてだけど、なんとかしてみるから」

「でも」

 僕は迷いを振り切るように、一歩進み出て巨大な建物の前に立った。そう……解決しないと何も前に進まない。分かってはいるのだけれど、いざタテモノの目の前に立つとどうしていいか分からない。解決する……って言っても、一体何をどうすればいいんだ。

「西野くん、やっぱり怖い?」

 もたもたしていたせいか、実月先輩がそう声をかけてきた。ちょっと眉を寄せて、何やら心配そうに僕を覗き込む。

「そりゃあ、こんなでかいのが目の前にあったら怖いよね。それに……西野くんって、あの、西野樹くんでしょう?」

 ぎくりとした。実月先輩は、僕の出来事を知っているのだ。

「ほら、去年ニュースになったじゃない?タテモノに取り込まれた男の子。確か一週間くらいしてから奇跡的に生還できたんだったよね?」

「あー……はい。それ、僕のことだと思います」

 僕は少しだけ目を逸らした。


 僕はタテモノに取り込まれたことがある。去年のことだ。しかし、実を言うとその時の記憶はあまりない。

 唯一分かるのは、夕方になると大きな泣き声のような音を立てる黒い家があったことだけ。僕の家の近くにひっそりと建っていて、住宅地からも問題視されていた。僕は何故かその影のような家に興味を惹かれて一人で近づき――家の玄関が、まるで巨人のように大きな口を開けて、僕を飲み込んだことしか分からない。

だから、あまりタテモノについて知っているわけでもないのだ。


 僕はかぶりを振り、また一歩前に歩み出た。

「いいんです実月先輩。僕はタテモノのことを知りたくてこの部に入るんですから」

 タテモノの一部になっている、巨大な鉄板に触れてみる。そこからなにか感じ取れないかと思いながら。

 その瞬間、タテモノから、ぎぃいっと音が響いた。

「わっ」

「危ない!」

 タテモノの上についた煙突が斜めに傾いていた。阿辺先輩が咄嗟に結生を庇い、実月先輩が僕の手を掴んでタテモノから引き離す。しかしそれは振り子のように反対側に傾き、また軋むような長い音をぎいぃ、と鳴らしただけだった。内部で鉄板が打ち合わされたような音がきん、きん、きん、きんと響き、またぎぃと長く唸るような音が鳴る。少し間を置いて、また鉄の音が続く。何度も何度も、終わることなく繰り返される。

「何……?」

 結生が震える声を漏らした。僕はつと、揺れ続けるタテモノを見上げる。不思議と怖くはなかった。

「この音、意味があるんじゃないかな」

 このタテモノは意志を持っている。この音で、何かを伝えようとしているのだ。僕はじっと耳を澄ます。

 ぎい、の音が二回……そのあと甲高い音が四回鳴って……それからまた軋む音が一回……少し間を開けて、音が続く。

「あ……」

 はっとした。このタテモノは、

 ――もしかして!

「先輩、これ、モールス信号ですか!」

 僕が振り向いて叫ぶと、阿辺先輩はわずかに目を瞠った。そして――小さく頷く。

「当たりだ。ちょっと待ってろ」

 そう言ってズボンからスマホを取り出す。何かを調べると、僕達に見せてくれた。皆で画面を覗き込めば、モールス信号一覧表である。

「樹、そんなのよく分かったね」

「意志のあるタテモノは喋るやつも多いけど、この子はモールス信号かぁ……」

「これで解読してやれ」

「――はい」

 僕はもう一度耳を傾ける。

 えっと……どう考えればいいんだろう。たぶん、”ぎい”の音は長点、”きん”は短点だ。つまり、「ツーツートン」「トントントンツー」、を繰り返していることになる。表で見てみれば……

「り……く?陸だ、陸って言ってます!」

 僕がいうと、阿辺先輩は難しい顔をした。

「陸……か」

「この子は陸に行きたいのかな。もう、辿り着いてるっていうのに」

 実月先輩が言いつつタテモノを見上げた。未だ揺れ続け、なにか訴えるようにそびえ立つ細長い煙突。

「あっ」

 と言ったのは結生だった。

「あれって、船の一部じゃない?ほら、あの上のやつとか!」

 指さしたのは、一番てっぺんにある煙突みたいな細長い棒だった。

「あれがメインマストでしょ、下には梯子もあるし、あれは甲板の板の一部なんじゃない?このタテモノは船から出来てるんだよ!」

「なるほど……!」

「すごいね神田さん!」

「えへ、おばあちゃんがそういうのに詳しくて、よく教えてくれてたんです」

 あれ、煙突じゃなかったんだ……だけどそれなら、陸を目指すのも納得だ。

「挫傷した船が陸に戻ろうと動いてるんですかね」

「惜しいな。それじゃ及第点だ」

 口を開いたのは、意外にも阿辺先輩である。

「タテモノってのは、それに深く関わっていた人の思いが宿って意思を持つものだ。つまり、タテモノが動くのは未練があるからだ。タテモノの動きを止めたいなら、その未練を解決してやる必要がある」

「じゃあ……これの未練は陸に戻ること?もう上陸してるじゃないですか」

「なら違うんだ。こいつには、上陸してまで果たしたい願いがあるんだよ」

 それを探せ。先輩は言外にそう言っている。僕はごくりと唾を呑み込んだ。

 ……でもどうやって。

 僕は意を決し、タテモノに向き直って声を張り上げた。

「陸にはもう着いていますよ?」

 反応はない。

 ぶっ、と噴き出す声に振り向けば、結生が口を押さえている。

「ご、ごめ、だって大真面目に話しかけてるから……」

「こっちは一生懸命だよ!」

 僕はジトッとした目を向けた。そこに割り込んだのは実月先輩である。

「まぁまぁ西野くん、いい線いってるよ?あとは相手の言語に合わせてやればいい」

「言語を……?」

 はい、と実月先輩がくれたのは、ステンレスの水筒とシャーペンだった。ん、と阿辺先輩がスマホを突き出す。これでモールス信号を再現しろということだ。あくまでも僕にやらせるつもりらしい。僕はモールス信号表を見ながら、そろそろと水筒を叩いてたどたどしく言葉を発した。

「陸にはもう着いていますよ」

 その途端、ぴたり、とタテモノの動きが止まった。

「聞こえてる。興味を引いているうちに早く次を」

「は、はいっ」

 カンカン、と甲高い音を鳴らす。

「あなたは何をしたいのですか」

 これを聞いた瞬間、タテモノがまた激しくぎいぎいと音を鳴らし始めた。

「なんか言ってるよ!」

「伝わったんだ……!」

「いいから早く読み取れ!」

 僕は必死で表を目で追う。えぇと……きんぎいぎいでトンツーツーだから……

『やくそく まもる さがす』

「約束……?」

 全員で目を見合わせる。少し考え、僕はまた水筒を叩いた。

「約束って何」

 意外と早く返事が返ってくる。

『わたす さがす』

「……誰かに何かを渡したいんだね」

『さがしてる ずっと みつからない』

 みつからない、と何度も音が繰り返される。ぎいぎい言う音は心が軋んでいるみたいで、僕は心臓をぎゅっとされたような気分になる。じっとしていられなくて、シャーペンを握りしめた。

「――君は……」

 音が止まる。

「海からここまで来たの」

『さがした ずっと うみから あるいた』

「嘘でしょ?ここ、海なし県なんだけど……」

 結生が呟く。僕はさらに水筒を叩いた。

「君の体は船の一部で出来てるよね」

『ふね のった うみ しずんだ』

『ひと またせてる かえれない なんねんも』

『うごけた あいにいく やくそく まもる』

『だけど みつからない あえない』

 きぃ、と僅かな音を残してタテモノが止まる。

 僕の握るシャーペンは水筒の上を何度も行き交ったけれど、結局なんの音も出さずに下ろされる。このタテモノの孤独に飲み込まれたようにどうしても腕を動かせなかった。

 やがて、寂しげな軋みがまた響き渡る。

『わかってる もうあえない みつからない』

『だけど さがす あるけなくなるまで』

 はっとする。見れば、鉄板が跳ねる直前のように撓んでいた。――跳んで移動する気だ!

「待って!」

 声に出してしまい、慌てて水筒を叩く。

「君の願いを叶えたい。僕達なら手伝えるかもしれない」

 ぎぃ、と音が鳴って、タテモノの動きが止まる。

『どういう いみ』

「その人を探せる。誰に何を渡したいのか、教えてくれたら」

『むり ずっと みつけられなかった』

「人間にも人間のやり方があるはず。君は、上から人を探すしかないんだろう」

 タテモノの返事が、暫く止まった。考えているのだろうか。僕は焦れったくなって阿辺先輩に顔を向ける。ここまで言ってしまったからには、放っておくことはできない。もう僕にとってこのタテモノは苦しんでいる人間と同じだった。

 ――助けてあげたい。

「先輩、なんとかしてあげられませんか……」

 思わず言ってしまった僕を、先輩はじっと見つめる。

「なぜ」

「だって……このタテモノを僕が担当したばっかりに助けられないなんて嫌ですから。僕じゃこれ以上の助け方が分かりません。少しでもいいんです、タテモノに救われてほしいんです!」

 ば、と頭を下げる。痛いくらいの沈黙が辺りに満ちた。何で返事がないんだろう。僕、また間違えたのかな。でもこれは僕の本心だ。後戻りはできない。

 沈黙を破ったのは、場違いにも思える鉄の音だった。

『わたすものを みせる たのみたい』

 はっとして振り返ると同時に、タテモノが自分の一部だった梯子を取り外して放り投げた。がらがらん!と激しい音が響く。

 メインマストの下に隠れていた、小さな部屋が姿を表した。

 元は操舵室だったんだろうか。壁がずたずたに引き裂かれていて、ほとんど原型を留めていない。中に小さな机があって、その上に、ひどく汚れてしまった小箱が置かれている。

『これを わたして』

「――待て」

 小箱を受け取ろうとした僕の腕を、阿辺先輩が掴んだ。

「あれはタテモノの核だ。あれを抜き取ったが最後、タテモノの動きは完全に止まってしまう。二度と元には戻らないから覚えておけ」

 ぎょっとする。普通に僕達に渡していいものではないじゃないか。

「じゃあ……何でそんなものを渡そうと……」

 訊いたそばから解った。タテモノは自分の活動が停止するよりも、誰かにあの小箱を渡すことを優先したのだ。

 僕の顔を見て、先輩は小さく頷く。「貸せ」と僕の手から水筒とシャーペンを取り、素早く信号を打ち込んだ。

「他に身元が判るようなものはあるか」

 少し考えるような間が開いて、タテモノが返事をする。

『ひきだしのなかに につきが のこつてる』

 僕はさっとタテモノの中に足を踏み入れた。机の引き出しを引いてみて、ぼろぼろになった古い冊子を見つける。表紙は……航海日誌、と読めるような気がする。

「先輩、ありました!」

「よくやった。こいつを壊さないように気をつけて降りろよ」

 言いながら素早く水筒で音を鳴らす。随分手慣れてるな……。

「これでその人の身元を調べてみる。分かったらその人に小箱を渡すから、それまで待っていてくれ」

『なんで まつ』

「君も会いたいだろう。それまで消えるな、てことだ」

 ん、と思う。阿辺先輩って、意外と優しい気がする。僕への態度はともかく、タテモノに対して気配りが上手すぎやしないか。

「――あ、樹、なんか落ちたよ」

「え?」

 結生に声をかけられる。見ると、地面に一枚の破れかけた紙切れが落ちていた。ぼうっとしていたせいか全然気付かなかった。先輩の目線が痛い。

「なんだろう」

 結生が紙を拾う。僕もタテモノから降りて、結生の隣に並んだ。紙はどうやら写真だったようだ。すっかり赤茶けてしまったけれど、線の細い男性と綺麗なワンピースを着た可愛らしい女性が並んで映っている。

「あっ……!」

 声を上げたのは、意外にも結生だった。

「この人!この人がタテモノが探してるって人ですか⁉」

「え?なんか知ってるの、結生」

「どうしたの?」

 実月先輩も写真を覗き込み、「綺麗な人ねぇ」とこぼす。と、タテモノがぎいぎいと唸った。

「その写真の女の人を探してるそうだ。隣に立ってるのはタテモノになる前の人間だと」

「私、この女の人知ってます!」

 一瞬、そこにいた全員が固まった。

「――は⁉」

「ちょっと待っててください、呼んできます!」

「は、いや、呼んでくるって……」

 結生はそれにも応えずに走って行ってしまった。あそこは確か……結生の、家?

 数分もせず、結生はまた現れた。

「ちょっと結生ちゃん、どうしたのよ?説明してくれないと……」

 なんと、おばあさんを連れてきていた。ところどころ髪が白くなっているけれど、とても上品そうで、足腰もちゃんとしているようだ。結生に肩を支えられてタテモノの側まで歩いてくる。タテモノを見た感想は「あら大きいわね」だけだった。

「紹介するね、こちらタ……ボランティア部の皆さん。で、こっちが、私のおばあちゃん」

「祖母の吉江よしえです。孫がお世話になっているようで」

「はじめまして。で……結生、これどういうこと?」

 僕が訊くと、結生はずいっと写真を突き出した。

「この写真!私、アルバムで何回も見てたからすぐ分かった。タテモノが探してた人は私のおばあちゃんなの!」

 ……嘘でしょ?そんな偶然があるものか。しかし、そんな思いはぎしっと大きく反応したタテモノと、「まさかっ」と声を上げたおばあさんに打ち消された。

『よしえ さん』

浩二こうじさん……?」

 その瞬間、タテモノがどうっと飛び上がった。家の屋根を優に越えるほど高くまで上がり、降りてくるときには、どこからか出てきた木材で腕ができていた。鉄板を上手く使って、タテモノはふわりと音もなく着地する。まるで吉江さんを驚かさないようにしているみたいだった。しかし、吉江さんは口に手を当てて呆然とタテモノを見上げる。

「嘘でしょう……?だって、浩二さんは死んだはず……もう何十年も前に」

「待って、どういうこと?浩二さんって……」

 実月先輩に向き直り、結生は続ける。

「このタテモノが、おばあちゃんの恋人で――私のおじいちゃんの浩二さんってことですよ!おじいちゃん、私が生まれるずっと前に亡くなってるんですけど、船が大好きだったみたいで」

 吉江さんが震える声で言う。

「そう……そうだったの。浩二さん、いつも私に船のことを教えてくれていた。時々、一緒に観光船に乗ったりしていたわ……でも、結生のお母さんが生まれて暫くして、仕事で浩二さんが海外に行くことになったのよ。もちろん、船に乗ってね。

だけど……浩二さんは、帰ってこなかった。浩二さんの乗った船が挫傷して、乗っていた人も皆海へ沈んでしまったの」

 そうか。ようやく僕にも分かってきた。タテモノ――いや浩二さんは、挫傷して沈む船の中で、強く吉江さんのことを想い、その気持ちゆえにタテモノとなったのだ。周りに浮かぶ船の残骸を取り込んで。そして、何十年も吉江さんを探して海から歩いたのだ。

「最後に会ったとき私、浩二さんに酷いこと言っちゃったの。私、折角貰った結婚指輪を失くしてしまって……それで、随分浩二さんに怒られちゃった。でも、子育てでイライラしてたのもあったのかしら……結婚指輪くらい新しいのを買ってきたらいいじゃない、って言っちゃったの。子供じみてるわよね?あんな事言わなきゃよかった。それで最後になるんだったら……」

 吉江さんの目の皺に、小さく涙が光った。

 その時、タテモノが動いた。ずりずりと吉江さんに近づく。吉江さんははっとして顔を上げた。タテモノが、その腕を吉江さんに伸ばす。

 一瞬、吉江さんを襲うようにも見えたけれど、タテモノはただ小箱を差し出しただけだった。

『やくそく まもった』

 恐る恐る吉江さんが小箱に手を伸ばす。そうっと開けてみて――吉江さんはとうとう涙をつうっとこぼした。

 中に入っていたのは、結婚指輪だった。

『ずつと わたしたかつた うけとつて くれる』

「浩二さん……浩二さん、本当にごめんなさい……私、ずっと謝りたくて……」

『よしえさんが あやまること ない ぼく おこつて ない』

「いつだって会いたかった。浩二さん……おかえりなさい」

 吉江さんは、小箱から指輪を取り出した。自分の薬指につけてみせる。

「探してきてくれたのね。似合ってるかしら」

『つけたすがたを みたかつた』

 タテモノがそう音を立てた瞬間だった。

 べき、とタテモノの鉄板が剥がれ落ちた。支えを失ったメインマストがどんと地面に落ちる。タテモノの崩壊が始まっていた。

「危ないです、下がって!」

 僕達が吉江さんの肩を掴んだけれど、吉江さんは動かなかった。ただタテモノを見つめている。

『あえて よかつた よしえさん』

「浩二さん。本当にありがとう。私と出会ってくれて」

『あいしてる』

 タテモノの手が、力なくアスファルトに転がる。

 吉江さんは涙を流したまま、柔らかく笑みを浮かべた。


 吉江さんには、何度も感謝された。結生も「おばあちゃんにあんな一面があったなんて!」と何故か喜んでいた。

 その帰り道。

「西野」

 片付けた鉄板を抱えながら、阿辺先輩が僕の方を振り返った。

「お前の入部の件だが」

「……はい」

 僕は俯く。結局、先輩に頼ってしまったし……望み薄かもしれない。僕はどうしてもこの部に入りたかったのだけど……

「俺はお前を認める。是非タテモノ研究部に入ってくれ」

 思いがけない一言に僕は固まった。

「……え?何で……」

「俺は、お前がタテモノに対してどう思っているのかを見極めていた。殆どの人は、タテモノに感情があるなんて信じない。むしろただの空き家なんだから壊してしまえばいいと思ってる奴らもいる」

 先輩は少し照れくさそうに首筋を掻いた。

「だけど、お前は違った。ちゃんとタテモノを人として、”救いたい”と言ってくれた。興味本位で入ろうとしてるんじゃないって分かった」

 だから、お前の入部を認める。

 先輩が、しっかりと目を見合わせてくる。隣では実月先輩も笑っていた。

「これからよろしくな。西野樹」

「――はい!」

 こうして、僕の部活動は始まったのだ。

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