第8話 刃条署長の問い

「係長!うちの署の右手の方角にも煙が上がってます!あっ!今度は、左手の方角にも煙です!」


 立ち昇る煙の本数は、わずかな間に、一挙に十ヵ所あまりにみるみる増えて、まさしく署を取り囲んだ。


 おどろいた消防も、てんてこ舞いとなって総出動し、あちらこちらに、騒々しいサイレンの音が鳴り響いた。


 あたかも、マンションでは紫蘭刑事が吊り下げられてさらしものになり、署の付近では、複数地点へのやみくもな放火が行われて、たちまち、狂おしい事態が同時に発生したのだ。


「俺が責任もって紫蘭を救急車に乗せる!お前たちは、即刻、放火現場に行って、怪しいやつがいたら捕まえるんだ!」


 鼻田は、何も知らずに意識を無くしている紫蘭の脇で、いまいましさを口もとに浮かべながら俊介たちに指示した。


「やつは、わざと俺たちの混乱を狙ったな!きっとどこかで、こうした有様を、高笑いを浮かべて見ているに違いない!」


 パトカーに乗った俊介は、なにげなく、頭に浮かんだ犯人の眼差しを想像して都真子に言った。


「まって!どこかで?どこかって……それじゃ、やつは、全体が見渡せるような場所で見てるってこと?署の裏のマンションや、新しくできたビジネスホテルからは、よく見えるわ!やつの顔は頭に入ってる!捜してみましょうよ!」


「やつなら、やりかねませんね!そこまで考えなかったな……」


 遠山も、人々の注目を期待する劇場型の犯人のやり口が、今になって腑に落ちた。


 俊介たちを乗せたパトカーは、けたたましくサイレンを鳴らして、進路を邪魔する車を脇へ追いやりながら、署の裏のマンションが見える位置に近づいた。


「ベランダを見て!たいそうな人が身を乗り出して見ているわ!」


「いや、ベランダは、どのみち個人のものだから、いるわけはないぞ!言うなれば、屋上や非常階段を見るんだ!」


「あっ!屋上に怪しい男が……サングラスをかけたあの男です!」


 遠山は屋上を指さすと、はずむような声でわめいたので、三人は、脇目もふらずエレベーターに飛び乗り、屋上を目指した。


「遠山!俺たちが声をかけるから、やつだったら、屋上から逃がさないように、出口を固めていてくれ!」


 屋上には、サングラスの男がまだいた。


「あいつね……」


 都真子が、そっと近寄ったとたん、男は意表をついてサングラスを外し、腕を使って額の汗をぬぐった。


「何よ!からきし、TS1で見た男じゃないわ!」


 都真子は、身構えていた俊介を見て、けんもほろろに言った。


「残念だな!おい!ビジネスホテルがここからも見えるぞ!屋上からも、その下の階のレストランからも人が見てる!あっちへ行ってみよう!」


 ビジネスホテルの屋上は、もっぱら、夏の期間はビアガーデンになっていた。


「一人ひとり、よく見るんだ!」


 犯人の顔を知ってる俊介と都真子は、ひときわ念入りに捜した。


「ここにはいないな!次は、レストラン街だ!そもそも、食事をしながら、自分のしでかしたことを、優雅に見てるとしたら、とことん警察をバカにしてるな!」


 文字どおり、レストラン街には、数多くの店が入っていたが、さしあたり、事件の方角に窓が向いている店は三店に限られていた。


「三店だけだ!それじゃ、順番に見て回ろう!」


 夕方ともあって、いずれの店も混みあっている上、市街地から立ち昇る煙が気になって、客たちは、何が起きたのかを不安そうにささやきあっている。


 とは言うものの、三店目の洋食レストランに、たった一人だけで窓際に座り、何やら食い入るように、夕暮れに染まりつつある眼下の景色を見つめる男がいた。


「こっちからじゃ、後ろ姿しか見えないわ……もっと近づいて顔を見たいわね」


 都真子と俊介は、客のふりをして、男のいるテーブルに近づいた。


 その瞬間だ。


 二人に気づいた男が、くるりと振り向くと、だしぬけに二人の顔にスプレーを吹きかけたのだ。


「うわっ!」


 二人がひるむと、辺りにいる者たちにも見境なく、しこたまスプレーを噴射して、店の外に逃げ出した。


 出口を固めていた遠山も、よける暇もなくスプレーを浴びて、ひっくり返ると、男は、ちょうど、全員が降りて閉じかけたエレベーターに飛び乗って、まっしぐらに一階に降り、ばったり出くわしたタクシーに乗って、ぴしゃりと行方をくらましてしまった。


 俊介たち三人は、スプレーの発したマスタードのような臭いのする成分で、しばらくマヒを起こし、ろくすっぽ応援を呼ぶこともできなかった。


「本当に来てやがった……なんてやつだ……」


 三人が回復して署に帰って行くと、放火による延焼は、懸命の消火によって、すっかり抑えられていたが、そのくせ一方では、マスコミが署に殺到し、すさまじい騒ぎになっていた。


 俊介とも顔見知りの横州新聞社の事件記者、尻田刈一は、矢面に立たされた副署長の那佐池にぐいぐい質問した。


「犯人の目的は?」


「いずれも放火は、防犯カメラのない場所を狙って、タイマー式の装置による発火で、同時に火災が発生しているから周到に準備されたものです。いずれも火種は小さいが、周囲に燃えやすいものを置き、火の勢いはあなどれなかったものの、犯行予告はあったが、名乗りを上げるような声明もないので、劇場型の人騒がせないたずらと判断されます」


「なぜ刑事が吊り下げられのか?逆恨み?」


「過去に事件を起こして、警察に恨みに思っている者はたくさんいる。これから調べに入る予定だ」


「スプレー事件との関連は?」


「スプレー事件の捜査担当が被害にあっていることから、捜査の妨害とも考えられるため、同一犯の可能性も視野に入れて捜査する予定です」


「犯人の特徴は?」


「ドラレコに映った容疑者の顔写真はこれです。替え玉を使って動いているため名前や住所は不明です」


 那佐池は、俊介がドラレコからと言って、騙して鼻田に渡した犯人の写真を出してみせた。


「警察は市民を守れるの?」


「いずれにせよ、顔は明らかになっているため、すみやかな情報提供をお願いしたい!容疑者逮捕に全力を上げ、市民の安全と安心を守る次第です!」


 那佐池は、上手く話を結んで、尻田たちが追いかけようとも、そっちのけで、早々に、署内に引き上げて行った。


 刃条三太署長は鼻田をはじめ、俊介たち全員を署長室に集めていた。


「とんだ騒ぎになったな」


 刃条は、部下を叱責したり、脅しをかけたり、力ずくで物事を進めるタイプではなく、今どき、警察には珍しい民主的な人間だったが、それをやたらに表面に出すことはけっしてなかった。


「申し訳ありません。ですが、犯人の目星はついてます。さっきも、裏にできたビジネスホテルで香原木たちが見つけましたが、また、スプレーを噴射して逃げられてしまいました。面は割れています。名前や住所は仮のもののようで実態はまだつかめておりませんが、やられっぱなしじゃ終われません」


 鼻田は、たどたどしいが、真実だけを伝え、あとはひたすら謝るしかなかった。


「当然のことながら、顔だけわかっても、すぐに捕まえられるものではないからな。紫蘭の件も、放火の件もまぎれもない警察への挑戦にほかならぬ行為だ。こうして見ると、あんな見世物までやって、自分の頭は、警察より賢いと高慢風を吹かしたいのだ!断固として、先手を打って、有頂天になっているやつの鼻柱をくじくんだ!だが、やつの報復はこれで終わるのか?嫌な予感がするんだが、一部始終をどこかで見てそうな気もするが、一刻も早く、捕まえるんだ!」


 刃条は、犯人に、げんなりするほどの執念深さを感じていたが、決然とした口調で言った。


 俊介は、署長が心配する、これ以上の折り重なる報復行為を、頭から否定した。


「なにせ、紫蘭をあれだけの目に合わせて、我々の肝を冷つかせたのですから、おそらく、これっぱかりも、同じ芸当は繰り返さないと思います。なぜなら、頭のいい奴だから、感情に走ってやり過ぎると、返って尻尾を出してしまうおそれがあると考えるはずです」


 鼻田も、署長の顔色を見ながらも、あっさり俊介の意見にうなずいた。


「まあ、警戒は緩めるわけにはいきませんが、再報復を恐れて、これしきのことで尻込みしてしまっては、やつの思う壺です。いずれにせよ、やつの発見こそが、今のところは最良の解決策です。やつからは捜査を引っ掻き回そうとする意図を感じますが、それに振り回されてはならないと考えます」


 刃条は、俊介の分析を認めながらも、鼻田には見通しのあいまいさを感じて、言い添えた。


「やつは、自信家だから、この町を離れることはないな。まぎれもなく、この町のどこかに隠れているに違いない。マンションや蝙蝠団地の屋敷はダミーだから、いくら張っても、こうなると近づかないだろう。どこかに設備を整えた隠れ家を持っているはずだ。空き工場とか、敷地の広い空き家なんかだろう。空き工場だったら、煙町にはたくさんありそうだし、敷地の広い空き家なら町のいたるところにあるから、しらみつぶしにあたってくれ。次の犯行の前にけりをつけるんだ!」


 鼻田は、刃条から、じきじきに具体策を聞いて、いくぶん目が開けた。


「それにしても、いったい、やつの犯行の目的は何なのか?犯罪を犯そうっていうやつは……いや、そればかりか、犯罪に限らず、世の中のすべての人間は、何かしらの利益を期待して行動するわけだから、あんな、バカげた事件でも、何か得るものがあるんだろうか?」


 刃条が、考え込むような口調で、居合わした俊介たちに、犯人の発想を問いかけた。


「根っからの犯罪者ってこともありますよ!」


「なに?」


「そういうやつは、犯罪自体をやりたいんですよ!」


 ベテラン刑事の寺場が、藪から棒に、一席ぶった。

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