第6話 私のこと指さして笑ってたんですよ

 宮下は、美空マンションの201号室を訪れていた。


 管理用に保管されていたスペアキーを使って、堅く閉じられたそのドアを開錠する。空き部屋となっているその部屋は、もう賃貸には出されていない、まさに開かずの部屋だった。


「いまさらそんなもの調べてどうする?」


 その後ろから声をかけたのは刑事である岩瀬だった。


「岩瀬さん、どうしてここに」


「このまえのべっぴんさん、ちょっと気になってね。それで宮下さん、あんたをつけとったんですわ」


「人が悪いのはどっちですか」


「まあ、そうかっかしなさんな。捜査勘はアタリみたいやな。あかんよ、前みたいに収集つかんことなるかもしれへんのやから。あの子はあきらめなされ」


 岩瀬はそう宮下を諭す。それは忠告でもあった。

 ここ201号室は、笑子による最初の被害の現場となった場所だ。


 被害者は筒美ハルヱ。笑子の実母にあたる人物だった。被害といっても、そのときにはすでに笑子は他界しており、状況からみてもハルヱは持病をもっていたこともあり……病死、つまり孤独死と判断された。


 だが、遺体の損壊状況、現場の獣臭からも最初は野犬による被害ではないかという線も浮上していたのだ。

 その捜査の間に次々に美空マンションでは謎の死が続くこととなった。

 捜査関係者、管理会社、そして物件の大家からその遠縁に至る者まで、このマンションを訪れた者には何らかの不幸が起きたのだ。


 そのことから、急遽捜査は打ち切りとなり、以降は同様の被害が生じた現場は、すべて問題のない単なる自死ないし、孤独死とすることを取り決めとした。


「妊娠、しとったんやろう」


「ああ。そうらしいな。多分、そう長くはないだろう」


「悪いことは言わん、いまさらその部屋を調べても、なんの解決にもならんよ。命を無駄にするだけや」


 岩瀬の勘の通り宮下は部下である紗枝のため、笑子の呪いについて調べる目的でこの201号室を開けたところだった。

 ドアノブに置いた手を回すその寸前で岩瀬が止めたのだ。


「……くそ」


 宮下は手を離し、再度その部屋を施錠する。諦めを見せた宮下をみて、岩瀬はそれまでコートの懐にしのばせていた手を下ろした。


   §


 明け方になり紗枝は、その重たい身体を引きずりながら出勤の準備をしていた。

 一睡もしていないというわけではないが、眠りは浅く、身体を休めることができないでいた。

 それも、夜な夜な姿をあらわす笑子にうなされてのことだった。

 社用携帯ではないほうの、私用のスマホに着信が入ったのはそんな朝の時間だった。


『タカ、どうしたのこんな朝から』


『仕事終わって、いまちょうど工場を出たところなんだ』


『運転中じゃないよね? 大丈夫?』


 通話越しに車の往来する音、バイクのエンジンの一定のトルク音までもが聞こえてくる。


『原付は停めてるよ。紗枝の出勤まえに言っておきたくてさ。あれから、色々悩んだけど、俺たちの子供のこと、紗枝のいう通り堕ろしてもいい。まだ俺も安定しているとは言えないし、これからも子供をつくるチャンスはいくらでもあるから、紗枝の身体のことを考えたら、早く決めてしまう方がいいし、俺は紗枝が元気でいればそれでいいから』


 仕事の間、本当に真剣に考えていたのだろう。そう感じるくらい、丁寧に言葉を選んでの香田の意見だった。


『ありがとう、あのねタカ……私、じつは最近ね――』


 そこまで口にした途端、耳元でなにかが破裂するような音が鳴り響いた。

 バリバリという硝子やなにかプラスティックの割れるような音と、鳴り続けるクラクション。ざわめく人の声がする。


『タカ! タカ、どうしたの! ねえ、大丈夫なの? スマホ落としたりしたの?』


 返事はなく、ただ喧噪の音が雑多に聞こえるだけだ。

 何度も呼びかけているうちに、クラクションのけたたましい音が止んだ。


 おかげで、喧噪の音は多少クリアに聞こえるようになったが、『救急車呼べよ! はやく!』といううような知らない男の声が聞こえてきた。


『タカ! 救急車ってどういうこと? ねえ、事故にあったりしてないよね? タカ! ねえ、返事して。タカ!』


 悲鳴のように何度も泣き叫びながらも、どこか頭の片隅で冷静な考えも浮かび上がる。

 それは香田がすでに事故に巻き込まれ、助からないだろうということだった。


 なぜ、そう思ったのか。


 それは寝室の窓際で立ち尽くすその女性が見えていたからだ。

 そう……、笑子が傍に居ることに通話の間ずっと紗枝は気づいていた。

 そして。


――異音の瞬間、それまで無表情だった笑子の顔が、歪むように哂ったのが分かったからだった。


   §


『――なんだよ』


 着信が入り、宮下は懐から取り出した二つ折りの古いガラケーを手に取る。


「……宮下さん。あの、いまから会えますか」


 社用携帯なのだから会社関係の者からなのは決まっていたが、やはりその相手はオオカワ不動産の関係者で、何より気にかけていた部下からだった。

 やっぱりか。とすぐに理解してしまった。


 その妊娠が男児であれば、などという淡い期待は打ち砕かれたのだと、咄嗟に気づいてしまったからだ。


――くそ。


 心の中で悪態をつく。

 岩瀬からの忠告を受けてもなお、こう返す自分自身に呆れがあった。


「待ってろ、すぐに向かう」


       *


 森脇のマンションに着いた宮下が見た光景は、まるでキッチンドランカーのように酒に溺れた紗枝の姿だった。

 転がった清酒の瓶と、部屋中に散乱した食塩。もとは三角に盛られていたのだろうが、どれも無残に飛び散っていた。


「なにやってんだよ、お前は」


 彼女の恰好こそはスーツ姿で通常通りに出勤をする意図があったように見えるが、ひどく着崩れていた。整えられていない乱れた髪に、シャツのボタンもズレてとめられているような有様だった。


「お塩……全然、効かないですよぉ。宮下さん。あそこ、あそこのほうに見えますよね? ね? ほら、笑子がいるんですよ、ずっと立ってるんですよ。さっきなんてね、私のこと指さして笑ってたんですよ」


 赤らめた顔のまま舌の回らない様子で紗枝が言う。しかし、その指の指す方向にはただ化粧台があるだけだった。

 正確に言えば、宮下の目からはそこに誰かが立っている様子はなかった。


「いつから飲んでた」


「……わからないですよ、寝れないですもん。タカがね。帰ってこないの、だからね、ずっと笑子が消えるように飲んでたんですけどね。あれ? なんでタカが帰ってきてないの。もう朝ですよね、朝には工場から帰ってくるはずなんです。帰ってくるとね、バイクの音でわかるんですよ? でも、今日は全然聞こえてこないんです」


「もういい、一度黙って寝ろ」


 糸が切れたように床に這いつくばったまま、意味の通らない言葉を発する部下に対して、宮下は強く言い放つ。


「ほら、立てよ」


 その肩をとって抱きかかえた。


「酒くせぇな……」


 寝室のベッドまで連れていき、そのまま横に寝かせた。

 宮下が初めてこのような光景に出くわしたのであれば、アルコール中毒の女性が妄言を吐いているだけだと思ったことだろう。これまでの被害者のなかには同様の状態に陥った者もおり、そのときには、ろくに信じようとはしなかった。


 だが結果としてその者たちは死んでいった。


――言葉の通り、笑子はいるのだ。


 しかし、その存在がわかったとしても、現象が始まってしまっては対処のしようがないのも事実だった。


 どんなに浴びるように清酒を呑もうが、塩を盛ろうが効果はない。


 神主による祝詞も、住職による読経も、どんな高価なお札も効果がなかったのだ。

 笑子はいまも母親を恨んでいる。だから美空マンションを訪れた女親は呪われる。

 呪われた者が死ねば現象は止まる。


 現象を止めようとする者には、同様に死を与える。


「笑子が迎えにくる、か」


 生前、筒美ハルヱは何度も『笑子が迎えにくる』と、数少ない身内に対して呟いていた。

 その言葉は伝染し、新たに生じた被害者の口からも漏れることとなる。

 この現象が笑子による呪いと言われる所以である。

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