事故物件に潜む怪奇~営業部、新人森脇紗枝の霊障ケース~

甘夏

第1話 心理的……瑕疵ですか?

 その女は賭場とば胴元どうもとの娘として生を受けた。


 胴元とはいうものの、借金のカタとして場を提供するように言われ渋々と母屋の一部を賭け事の場として提供させられていたに過ぎない。

 ゆえに、その女は幼少期ひどく貧乏な暮らしぶりだった。


 女の名を笑子えみこという。


 笑顔を絶やさぬ幸福な人として育ってほしいという意味が込められていたというが、実際の女の生涯がそのようなものではなかったことは産みの親であるハルヱには分かっていた。


 だからこそハルヱは恐れているのだ。

 笑子が自らを死の淵から迎えにくるその日を。


 古い団地の四畳半の病床のなかで。


  §


心理的しんりてき……瑕疵かしですか?」


 普通乗用車を運転しながら、森脇紗枝もりわきさえはそう言葉を繰り返し述べた。

 何度となくシートベルトを気にしているのは、まだ真新しいスーツに折り目が残るのを嫌ってのことだった。濃いグレーのその出で立ちは、まだ幼さを残した彼女には不釣り合いにも見える。


 それもそうだろう。まだ新社会人として不動産会社オオカワ不動産へ就職して半年、高校、大学と滞りなく卒業した彼女はまだ二十二歳だった。


「なーにが、瑕疵ですか? だ。宅検たくけんでも問われる内容だろうが」


 そんな紗枝に対して、助手席から悪態をつくツナギ姿の男。

 男の名前は、宮下浩司みやしたこうじ

 紗枝と同じオオカワ不動産の社員だ。


 その長い足をダッシュボードに放りだし、咥えくわえ煙草をしている。

 紗枝よりも一回り上の三十五になるが見た目には若く、三十手前のようにもみえる。


「……私、資格もってないです」


「はぁ? 社長もなんで無資格を雇ったんだよ……。たしか四年制大学出てたよな、脳はもってんだろーから、とっとと試験うけてこいよ」


「そんな簡単なもんじゃないですよぉ、それに私……べつに不動産業界に行きたかったわけじゃないですし……」


「馬鹿でもとれんだよ」


「そういう、宮下さんは持ってるんですか宅検の資格」


「……目的物が家屋である場合、家屋としての通常ゆうすべき『住み心地のよさ』を欠くときもまた、家屋の有体的欠陥の一種としての瑕疵とかいするに妨げない。大阪高判、昭和37年の6月21日」


「え? それって――」


「心理的瑕疵についての判例のひとつだ。まぁ資格のために覚えたのが大学出る前だったから、15年くらい前だがな」


「……嫌味な感じですね。いいですよねー、物覚えが良い人ってのは」


 遠回しに資格持ちであることと、それまでの車内での話題であった心理的瑕疵についての説明をした宮下に対しての素直な気持ちだった。


「忘れねぇから、見たものは全部記憶してる。そのかわり耳から入ったもんなんか、なーんも覚えてねーし覚える気もない。だから、お前の嫌味もこの煙草を吸い終わるころには忘れてやるよ」


 そう言うと、まだ吸い始めたばかりの煙草を深く吸い込む。

 先端の火が赤く燃え上がり、それだけで一気に2㎝ほどが焼け焦げていく。


「さっき乗り込むとき思いましたけど。この社用車が煙草臭かった理由って、宮下さんだったんですね。ほんとはだめじゃないんですか?」


「知るかよ、昔は禁煙なんて言葉はなかったし、ワンコインで二箱は買えたっつーのに。さらに小言かよ」


 そして僅かに開いた助手席側の窓から煙草を放り投げた。


「ちょっと、せめて灰皿使ってくださいよ! 会社名とか車に書かれてるんですよ」


「うっせぇなー。いまのは覚えたから」


「なんなんですか」


 宮下は胸ポケットからさらにもう一本の煙草を取り出した。


「……もう、やめてください」


 たとえ宮下が上司にあたるとはいえ、さすがに大声をあげて抗議する。


「……くそ。まぁいいや、もうすぐ着く、そこ左車線いっとけ」


 言われた通りに紗枝はウィンカーを出し、左に車を寄せる。

 だが、車線が詰まっていてなかなか左へ移れない。


「へたくそかよ」


「……なんでそんなに世の中を舐めたような感じなんですか」


「舐めてんのは世の中じゃなくて、お前のことを舐めてんだよ。んで、心理的瑕疵の項目がある物件だってことは、目を通してたんだから――わかってんだよな」


「なにを、ですか」


「……なんも聞いてきてねーのかよ。塩は、酒は、積んできてるんだよな」


「なんですか、管理物件見に行くのに、そんなのいります? それも資格の内容かなにかですか?」


「おいおい……死にたくねぇなら早く左に寄せて、そこのコンビニ寄れ! 安いワンカップと食塩買って来いよ」


 強い口調で告げる宮下に、紗枝は怪訝けげんな顔をしつつも、なんとか空いた左車線へと入り込んでそのままコンビニの駐車場へと入った。


 車内の冷房のためエンジンは切らず、シートベルトを外してドアを開ける。


「これで買ってこいよ、あと煙草も。セッタな」


 そう言うと宮下はくしゃくしゃな千円札を二枚、ひらひらと見せる。

 紗枝はそのお金を受け取ろうと指先を伸ばす。しかし、宮下はお札を引っ込めた。


「領収書はもらっとけよ。煙草代浮かすんだから。あとな、お前……妊娠とかしてねーよな?」


「……え?」


「うちに入るときに聞かれただろ」


「……あ、そう、でした」


「で、どうなんだよ」


「なんでそんなこと、貴方に言わなきゃいけないんですか。してないですよ。妊娠なんて」


 そうか、そうか。とにやついた笑みを浮かべて、宮下はひっこめたその二枚のお札を紗枝の掌の上に乗せる。


「なら、いいんだ。早く買って来いよ? 先方を待たせてんだから」


「……わかってますよ。ところで、管理物件を回るのはいいんですけど、誰が待ってるんですか? 入居者さんですか」


「……なんも聞いてねーんだな、いやこれはお前が悪いっていうよりは坂崎さかざきのせいだな」


 坂崎とは、紗枝の配属された営業所のチーフの名前だ。宮下はその隣のエリアの社員で、二人は同期にあたる。

 その坂崎の命で、急遽きゅうきょヘルプが必要となった宮下のもとへ、紗枝が駆り出されたのだ。 


 つい先ほど注意されたばかりの煙草の箱に手を伸ばす宮下。取り出した一本を口にくわえて火をつける。


 もう、わざわざ紗枝は注意をすることもしない。

 呆れていたというのもあるが、それよりも問いかけへの答えを待っていた。


「警察だよ、刑事さんが待ってんだよ」


「……はい?」


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