第三幕 芋錬金術と幽霊交渉

「らっしゃい! らっしゃい! スイカ安いよ!」

 便利屋が八百屋さんの前で客引きまがいのことを叫んでいる。今日の彼は、白い袖なしと腰に巻いたエプロン姿。

(便利屋っていえば聞こえがいいのかもしれないけど、実際は日雇い、あるいはフリーターじゃないか。)

 そう思うのは嫌でも、無意識に僕の思考はマイナスな方向に流れていく。

 天は暗雲に包まれている。もうすぐ雨が降り出すのだろう。だけど気温が下がりそうな傾向はなく、身体全体に気持ち悪い汗がまとわりついていた。

「奥さん、スイカ安いよ! この夏で一番安い!」

 朝からずっと僕は便利屋を眺めていた。中に入れる公園の遊具に隠れていたけど多分、彼は僕がここにいることに気づいている。

 便利屋が昨日のように手品を披露するのを期待していた。だけど今日はタネを仕込んでいないのか、便利屋が面白いことをする気配はない。

 もうすぐ夕暮れだ。手品を見れず、一日を公園で無駄にした。

(といっても今の僕には他に行く場所がない。)

 鏡に塗られた文句を見た後、僕は転げるようにベッドから飛び出し、寝室のドアから逃げ出そうとした。だけどドアには鍵がかかっていて、僕は思いっきり頭をドア枠にぶつけた。

 涙目でナイトテーブルに行くと、寝室の鍵は前の日に置いた場所にちゃんとあった。一応窓も調べてみたけど、こじ開けられたりされた形跡はなかった。

 つまり僕の寝室は密室状態だったのだ。にもかかわらず、僕が眠っている間に誰かが『出ていけ』という脅し文句を鏡に残していった。

 鏡に塗られた赤い色は血であるようだった。鼻を近づけると鉛の臭いがしたし、床に落ちて乾き始めた液体は茶色を帯びていた。

 いくら幽霊なんて信じていない僕でも怖くなり、素早く服を着て、洋館から逃げ出した。

 洋館に隠された財宝を守る海賊の霊。そうだとしか思えなかった。

 泥棒だったら脅し文句を残すわけがない。それに寝室は密室状態だったのだ。幽霊なら壁をすり抜けることができる。

(非科学的だ。)と自分に反論した。(もし幽霊が存在するとしたら、なぜ科学の長い歴史の中で、証拠の一つも出ていない? 測定可能であれば実在する。実在するなら測定可能。だから幽霊がいれば、その存在はとっくに証明されているはずなんだ。)

 しかし鏡が血で塗られていたのも事実。

(とにかく海乱鬼洋館とかいうあの場所にはいられない。)

 これからどうすればいいのだろう? 財布に残っているのはわずか百二十五円。腹は減っているし、外は蒸し暑くてたまらない。公園に水飲み場がなかったらとっくに日射病にかかっていた。

「やあ、またいるね。」

 声をかけられて顔を上げると便利屋がいた。彼は片手にさつまいもを持っている。

「こんにちは、べ……。」便利屋さん、と思わず言いかけてしまう。

「ははは、いいんだよ、便利屋と呼んでも。みんなそうしてるから。」

「……今日は手品はしないんですか?」と僕は話題をそらす。知らない人を便利屋と呼ぶのは、たとえさん付けでも失礼であるような気がした。

「君がずっと公園で見ているからね。」

「えっ? 僕がここにいるから手品を見せてくれないんですか?」

 そんなケチな、と僕は眉間に皺を寄せた。この青年のことを見くびっていたのかもしれない。もっと大柄な人だと思っていた。

「うん。」便利屋はうなずいた。「だって毎回手品を見せたら君は毎日ここに来るだろう? こんなに暑いのに。教育上、それはダメだなあ、と思って。」

 僕は下唇を噛んだ。彼の言い訳に嘘はなさそうだけど、そんな気遣い必要ないのに、と内心ぼやいた。便利屋の素晴らしい手品を見れたら、今僕が抱えている問題から少しは気が散ったかもしれない。

「今日なにか食べた?」

 直接便利屋に訊かれて僕はどぎまぎする。嘘はつきたくない。でも、ネグレクトされていると思われるのもダメだ。

 どう答えればいいか迷っていると、便利屋は苦笑して手に持ったさつまいもを僕にほうった。

「ほら、食べな。君はいもの国、ドイツから来たんだろ?」

 さつまいもを受け取り、「どうしてわかったんですか?」と聞き返す。

「俺は昔、修行の一貫でドイツに行ったことがあるんだ。ドイツ語は喋れないけど、聞けばわかる。で、君は朝からドイツ語でぶつぶつ呟いていたから。まあ、オーストリアやスイスという可能性もあるけど、君のドイツ語はドイツのアクセントだよね?」

「ああ、それで。」と僕は唸る。「うん、ベルリンから来ました。」

(修行って一体どんな修行のことだろう? まさか日雇い修行ではあるまい。だったらやっぱり手品修行?)

「錬金術の修行さ。」便利屋は僕の思考を読み取ったかのようにつけ加えた。

「……ミステリアスな雰囲気はよく醸し出せてますよ。」

 僕は皮肉を言い、さつまいもに視線を落とす。冷たくて硬い。

「――ってこれ、生じゃないですか。」さつまいもを便利屋に投げ返す。「悪い冗談はよしてください。」

「あっ、ごめん、ごめん。焼くのを忘れていたんだ。ちょっと待ってろ。」

 さつまいもをキャッチした便利屋は全然申し訳そうではない。いや、その逆。彼の瞳はいたずらっ子のような輝きを秘めている。

「錬金術師ってさ、朝から晩まで宇宙の秘密を解明しようと研究室にこもっているから、ちゃんとした食事を作る暇がないんだよね。俺は個人的にそれはすごく残念なことだと思うんだ。だって料理と錬金術って実際は裏表一体なんだ。」

 僕は便利屋を見返した。彼がなにを言いたいのかよくわからない。

「そんなわけで、俺は手っ取り早くおいしい料理を作る錬金術を研究しているんだ。」

 便利屋はさつまいもを天に向かって投げた。前触れない動きで、僕は頓狂な叫びを上げた。

 太陽を一瞬背後に隠したさつまいもは狭い円を描く。真っ直ぐ上に投げられたさつまいもはストン、と音を立てて僕の手の中に落ちた。

「――熱っ!」

 さつまいもはホカホカで、慌てて僕は右手から左手、左手から右手へとジャグリングする。

「石焼きだよ。」便利屋はにっこりした。

 やっと少し冷めたさつまいもに僕はがぶりついた。

(なにが教育上だよ、この手品師め。)とは思ったものの、さつまいもの味が口の中に広がると、さっきまで沈んでいた気分も明るくなった。

「さてと。」と便利屋は僕の隣に腰掛ける。「じゃあ話してくれるかい? 家でなにかあったんだろう? 家出かい?」

 ちらりと袖なし姿の青年を盗み見た。彼は涼しく微笑んでいる。どうしてわかった? と訊きそうになったけど、考えてみれば当たり前だ。僕はなにもせずに一日中公園で過ごした。家出と思われて仕方がない。

「家出なんてしてませんよ。」

「ふーん、じゃあなんなんだろう?」便利屋は頭をかき、真剣に考え込む表情を作る。「理由があって君は家を逃げ出したような感じがするんだ。普通そう考えるだろ? 中学生の子が一人でずっと公園に座っているのを見れば。だけど君は一昨日、海乱鬼洋館に一人で住んでいると言った。それはたぶん嘘じゃない。」

 突然、ポケットの中で携帯が震えた。すみません、と断って携帯をチェックする。

(あっ! パパからのメール!)

 僕は急いで電子メールアプリを開いた。

 便利屋は僕が携帯を見ていることに構わず続ける。「洋館で君一人だとすると、両親や兄弟と喧嘩したわけじゃない。だったら君はなぜ――。」

 父からのメールは短かった。

『私たちはまだアジト……いや、仮の住まいに隠れている。しかし玲音は引っ越ししたばかりなのにお金がなくて困っているだろう。百万円ほどをいくつかの封筒に分けて航空便で送る。賢く使え。』

(――百万円!)

 いきなりの大金に胸が踊った。しかしそれはほんの一瞬だけで、父がどうやってそんなお金を手に入れたのか気になった。借金取りに追われているということは、両親の正規の口座は凍結されているはず。二人が隠し口座を持っている可能性はゼロではないが、そうではないような気がした。

(きっとなにか手持ちのものを売り払ったのだろう。)という結論に僕は至る。(本当に大切に使わなきゃ。)

 僕の隣で便利屋がポンっと手をたたいた。

「わかった。君は洋館の幽霊を見たんだ。だから怖くて洋館には戻れない。そうだろ?」

 幽霊と聞いて、僕は便利屋が一人で推理を展開していたことに気づく。

「幽霊って?」

「君は海乱鬼洋館の幽霊に遭遇した。」と便利屋は断定した。

 彼がなんの話をしているのかわからないという表情を絶やさないまま僕は素早く考えた。もしここで今朝の事件のことを話せばどうなる?

(――警察沙汰だな。)

 答えはよほど考えなくても明確だった。

 いくら僕が寝室は密室だったと言い張っても、生身の人間が侵入してきたと判断するのが自然なのだ。便利屋だってそうだろう。

 なにしろ僕の場合、夜目にぼんやりとした少女霊の輪郭を目撃したわけではないのだ。僕の寝室にはいまだに血が塗られた鏡という物的証拠がある。

 便利屋は僕のことを心配して、警察に相談することを勧め、僕が断れば自分で通報するだろう。

「どうした? 固まっちゃってるよ。」

「いえ、なにも。幽霊なんて見てませんよ。僕はただ手品を見たくてここにいたんです。」立ち上がって便利屋に向かって頭を下げた。「やっぱりすごいですよ。どうやってさつまいもを投げるだけで焼いたのか全くわかりません。」

 ではまた来ます、と言い残して公園を出ようとすると、便利屋に呼び止められた。

「君、俺の名刺はまだ持っているよね?」

「持ってますよ。『便利屋』とだけ印刷された名刺のことでしたら。」

「ならいいんだ。じゃあ俺ももうひと頑張りしてくるよ。」便利屋は手を振って、八百屋さんの方へ戻っていった。

 公園を出て僕は真っ直ぐ海乱鬼洋館に向かった。

 玄関ホールの前で立ち止まり、拳を握る。

 幽霊が出るといっても、やすやす警察を呼ぶことはできない。諦めるのは全ての手段を使い果たしてからだ。


「おーい、幽霊さーん! 聞こえますかあ? 海乱鬼の海賊幽霊さーん! 今朝のメッセージは見ました。そ、それでですね、交渉の余地があると、僕は思うんですよ。海乱鬼さん、あるいは他の幽霊さーん、安心してくださーい! 財宝を盗みに来たわけではないですから! 家賃が問題ならそれもちゃんと払いまーす! だから話し合いましょう。」

 そんなことを叫びながら洋館を歩き回った。

 ついでに『財宝いりません。家賃払います。交渉しましょう。』と書いた張り紙を手当たりしだいに貼っていく。

「あ、あの、それと僕、自分で言うのも難ですが料理結構うまいんですよ。幽霊さんはイタリアン好きですか? 最高のラザニアを作ってあげますよ。」

 今更のことだけど、洋館は余計に大きい。全ての部屋を回るのは一苦労だ。

 もしかしたら昼間の間に幽霊が潜んでいる部屋を見つけられるかもしれないと思ったが、やはりどの部屋も僕が到着した日と同じように整っている。

「それに僕はきれい好きなんです。掃除はちゃんとしますし……あっ! まさか初日、お茶碗を片付けなかったことを怒っているんですか? もしそうだったら本当にごめんなさい。時差ボケでとても疲れていたんです。普通ならそんなことはしませんから。」

 しかし幽霊は最後まで現れなかった。

 僕はなにを期待していたのだろうか、と自分に呆れて三階の踊り場で座り込んだ。

 幽霊は昼間寝ているのかもしれない。そうだとしたら少なくとも張り紙を読んでくれるだろう。

 自分がやっていることが馬鹿らしいのは自覚していたが、もし幽霊が存在するなら話し合える、と僕は嘘なく考えていた。

 だってこの幽霊、僕をすぐには襲わずに、お茶碗事件で己の気配を僕に示し、『出ていけ』と警告までしている。

 つまりある程度分別を持っているということだ。だったら交渉できるはず。

「じゃあ僕はこれから夕飯を作ってきます。お返事待ってまーす!」

 厨房に降りようとして、踊り場の奥の方の階段が気になった。その階段はまだ上がっていない時計塔に繋がっている。

 ――時計塔を守って。おねがい。

 夢の中で聞いた声を思い出した。あの夢は幽霊と関係しているのだろうか? 不思議な夢ではあったが、『出ていけ』という警告とは正反対な意図を感じる。だからおそらくカリブ海の夢はただの夢だったのだろう。

(上がってみるか。)

 時計塔の階段は螺旋状で、思っていたより狭かった。人一人がやっと通れるほど。どうやら時計塔の中央にエレベーターが設けられているようで、階段はその周りに取りつけられている。しかし少なくとも三階の踊り場にはエレベーターの入り口はなかった。

 最上階の機械室に上がると、そこはやけにひんやりとしていた。洋館の空調システムに繋がっていないのにどうしてだろう、と不思議に思う。

 庭から見上げた六角形の数字番の裏側にいるのは奇妙な感覚だった。四方の数字番は半透明のステンド・グラス製で、白く染まった夕日は機械室を淡く照らし出している。舞い上がった埃をキラキラと輝かせて。動かなくなった大小の歯車の影は息苦しそうに重なり合っている。

 なぜかこの場所が大切であると僕は直感的に悟った。もし洋館に守らなければいけないものがあるとしたら、それはこの部屋にある。

 しかし実際はなんにもない窮屈な空間だった。ガラクタは置かれていないし、掃除も行き届いている。

 機械室の中央には四角形のシャフトがあった。どうやら本当にエレベーターが階下と繋がっているのだ。ドアは古風で、モダンのスライド式ではなく、外側に開く作りだった。

 エレベーターに乗ろうとしてみた。だけどドアにはなぜか鍵がかかっている。

 洋館の鍵がいくつもついているリングを取り出して一つ一つ試してみたけど、どれも合わない。

(変だな。洋館を貸してくれた人がエレベーターの鍵をつけるのを忘れたのだろうか? それとも故障していて危ないからわざと……?)

 考えながら機械室を歩き回った。すると済の操作盤が目に止まった。

(時計塔はまだ動くのだろうか?)と好奇心とほんのいたずら心で操作盤を触ってみる。

 ――ピンポーン。

 僕は驚いて飛び上がった。ボタンはどこも押していないのに、どうして?

 だけどすぐに気づく。時計塔が動き出したのではない。これは玄関のチャイムだ。

(誰だろう?)

 慌てて一階に降りた。玄関までかなり遠いので急がないと留守だと思われてしまう。

 表口の覗き穴を通して見ると、なんと東京についた日に会った婦警さんだった。

 ドアを開けて「今行きます。」と彼女に叫び、門まで走った。

「こんばんは。お屋敷での生活には慣れた?」婦警さんは僕を見てにっこりした。

 なんと答えればいいのかわからない。話し合いましょうと幽霊に呼びかける張り紙が洋館のあちこちに貼ってあることからして、ここでの生活にはたぶん慣れていないのだろう。

「ええ、まあ。」とだけ答えておいた。

「ご両親は今いる?」

「……い、いえ、今はちょっと出かけています。」仕方なく僕は嘘をついた。

「そうなの。ご両親はいつ帰ってくるのか知っている?」

 僕は目を細めた。両親と直接話したいという意図はわかるんだけど、胡散臭い。帰ってきたら交番に電話してください、とここで言うべきなのではないだろうか?

 婦警さんは僕の怪訝を察知したのか、バツ悪そうな顔になった。

「実はね、通報があったの。海乱鬼洋館でネグレクトされている子供が住んでるって。そうは思えなかったんだけど、一応様子を見に来たってわけ。」

「えっ? 誰が? なんで?」

 すぐに便利屋を疑った。僕が洋館に一人で住んでいることを知っているのは彼だけだ。しかし考えれば考えるほどそうではないような気がした。便利屋だったら警察を呼ぶ前に直接僕と話すだろう。

(だったら一体誰?)

「それがね、公衆電話でかかってきたの。今どき誰も公衆電話なんて使わないのにね。相手は私が訊いても名乗らなかったし。だからあまり信憑性のない、もしかしたらいたずら電話だと思ったんだけど――。」

 婦警さんはまじまじと僕を見た。

「君はどう思う? 家でなにか問題ある? ご両親に迷惑がかからないようにも対処できるから素直に言ってね。」

「いえ、いえ、なにも問題ありませんよ。どうしてそう思われたのか全然わかりません。」

「そう。じゃあなにかあったらこの電話番号にしてね。」

 門の格子を通して婦警さんは個人の電話番号が走り書きされた名刺を僕に渡す。全く日本では名刺が多い。だけど婦警さんは親切でもある。僕はありがたく名刺を受け取り財布にしまった。

「ところで――。」

 僕は振り返ろうとした婦警さんを呼び止めた。通報者についてある考えが脳裏に浮かんだのだ。

「なあに?」

「公衆電話からかけてきた人って男性でしたか?」

「ああ、それがね、知っている声であるような気がしたの。誰だったかは結局思い出せなかったけど。低い男の声だったわよ。坊や、心当たりあるの?」

「いえ。」と僕は再び嘘をついた。

 婦警さんが帰っていくのを見届けてから洋館に振り返り、時計塔を見上げる。

 ――公衆電話。低い男の声。

 電話をかけたのは海乱鬼の幽霊であるはずはない、と僕は首を振りながら玄関ホールに戻った。


 夕暮れはまたたく間に東京を通り過ぎ、空に夜が滲んでいった。

 それと同時に僕が吐く息が割れる度数が上がっていった。膝に力がうまく入らず、洋館に敷き詰められた絨毯がいつもより不確かなものであるように感じられた。

 寝室のドアにしっかりと鍵をかけて、僕の腕力で動かすことができたテーブルを押しつけた。

 たぶん幽霊に対して物理的なバリケードは無意味だろう。逆に、僕が逃げ出す妨げにもなる。そう思ってドアの手前に置く家具は一つだけにした。誰かが押入れようとすれば、それは可能だ。だけど少なくともその音で僕は目を覚ますはず。

 血に塗られた全身鏡は一先ず使っていないウォーキング・クローゼットにしまっておいた。こんなものを寝室に置いたままではとてもじゃないけど眠れない。

 ベッドの近くに、庭で拾った小枝を組わせて作った十字架を四つ立てかけた。日本の幽霊に十字架が効くかどうかはわからない。もし十字架など、宗教的なシンボルが幽霊に対して効果的だったら、それはきっと世界共通だろう、と思った。

 万が一のため、パジャマのポケットに財布と携帯と洋館の鍵を入れて置いた。寝る時に少し窮屈だけど仕方がない。

 電気は当初完全につけておいたが、それではいくら枕を顔に押しつけても眠りにつけないので、またベッドサイドランプだけにした。

(幽霊さんが張り紙を読んで、理性的な人であるように。)と天井を見つめて信じていない神さまに祈った。

 そして僕はまどろみに落ちる――。

 はっきりとしない夢をかき消したのは、ドスっ! という低い音だった。

 布団と格闘するように身体を起こした。ベッドの上に四つん這いになり、月光が射し込む部屋を見渡す。

 バリケードとしてドアの前に置いたテーブルが動かされていた。壁と平行ではなく、少しだけ斜めになっているので間違いない。

 息を殺してドアを見る――。

 ドアはこじ開けられていた。ほんの数センチの隙間に暗闇が広がっている。

 そして、その暗闇からギョロリとした白い目が僕を見返していた。

「ぎゃあああああーっ!」

 絶叫した。

 逃げ出そうとする。でも身が竦んで身体がいうことを聞かない。

 そろそろとドアはさらに押し開けられ、怪物は中に入ってきた。

 怪物は額に漆黒のはちまきを巻いていた。甲冑を身につけ、月の明かりにギラリと光る刀を手にしていた。

 姿形は人のようでも、その腐敗した顔面には人間らしき面影は残っていなかった。ところどころ頭蓋骨が露出した、つぎはぎの肉の塊。

(か、海乱鬼の幽霊。)僕は震え上がった。

 その眼孔の奥底は青白に燃え上がり、海乱鬼の幽霊は僕に飛びかかった。

 最後の最後まで僕は動けずにいた。全てが僕の目の前を通り過ぎ、どうしても足に力が入らなかった。

 怪物は僕の目の前で刀を振り上げた。刀を見上げた。動け、動け、と僕は膝を握っていた。

 ――ヒュンっ!

 刀が空を切る。

 次の瞬間――。

 鈍い音が寝室に轟く。

 僕は「あっ」と叫び、横に飛び退いていた。一目散にベッドから転がり落ちる。

(切られたっ、切られたっ、絶対切られたっ。)

 そう思って刀が振り下ろされた左肩に手をやった。湿っていると一瞬思ったが、それは汗だとすぐに気づいた。

(えっ、切られてない?)

 振り返ると刀はベッド・フレームに切り込んでいた。刀が長すぎたためか、フレームが高すぎたためか、僕には当たらず頑丈な木材に食い込んだのだ。怪物は足をフレームに当てて刀を抜いた。

 床に尻もちをついた僕はドア目掛けて走り出した。半分四つん這いのまま。

 背後で怪物の唸った。地獄の底から湧いてくるような咆哮だった。

 僕は振り返らずに階段を駆け下りた。走りに走った。足がもげてもいいからと走った。

 洋館を飛び出してからもずっと走り、公園にたどり着くまで休まなかった。

 そこでやっと僕は振り向いた。海乱鬼の幽霊が追ってくる気配はなかった。それでも身体に鞭打って公園の反対側まで走った。

 ブランコのあたりで僕は疲れ切って、砂場に倒れ込んだ。

 肩で息をしながら両手で地面の砂にしがみついた。間一髪死を逃れたことが信じられなかった。

 僕はなんてアホだったのだろう? どうして幽霊と交渉できるなどと馬鹿なことを考えていた?

 しかしもう間違いない。海乱鬼洋館には幽霊が住みついている。僕が見た怪物は、生前に集めた財宝を死後も守り続ける海賊の霊なのだ。

(これからどうすれば――。)と迷う自分をすぐさま叱りつける。(警察に行くに決まってるだろ? もう僕の手に負えるわけがないんだ。ドイツの親戚に送られても仕方がない。)

 財布を取り出し、婦警さんにもらった名刺を引き抜いた。交番の住所と一緒に『巡査部長 原田はらだ香織かおり』と印刷されている。それに走り書きされた彼女の電話番号。

 携帯に番号を打ち込む。二回ほど入力を間違えて舌打ちする。

 原田巡査部長の番号が液晶画面に表示された。後は発信ボタンを押すだけ。

 しかしなぜか僕は躊躇した。

 もしかしたら幽霊に襲われたと非現実的なことを説明するのに気が引けたのかもしれない。もしかしたら大金持ちである父が企業という賭博に失敗して落ちぶれたことを認めるのが嫌だったのかもしれない。もしかしたら僕は、まだ全ての手段を使い果たしていないと馬鹿な妄想に取り憑かれていたのかもしれない。

 ただわかるのは、僕はその夜原田巡査部長に電話をかけなかったということ。

 体を動かさず、婦警さんの名刺を凝視していた。どうしていいかわからなかった。

 すると地面に投げ出されて、開いたままになっている自分の財布に視線が動いた。

 海乱鬼洋館に引っ越してきた最初の日にもらった便利屋の名刺はまだ持っていた。あの、便利屋とだけ印刷された意味のない名刺。

 僕は財布を取り上げ、便利屋の名刺を引き出し、裏を見てみた。

 受け取った時は間違いなく白紙だった裏側には今、携帯の電話番号が浮かび上がっていた。

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