ウラミ・ハレルヤ

新矢識仁

第1話・巡り巡って

 美優みゆは、チラシを見て、そして目の前の事務所を見た。


 チラシと看板には「何でも屋・晴屋」と書かれている。


「この住所……ここでいいのよね……」


 ぱた、と額から伝った液体がチラシに落ちて、慌てて指で拭う。


 指で拭う、という感触も久しぶり。


 本当に、この事務所の人は、わたしの話を聞いてくれるのか。


 望みを叶えてくれるのか。


 ドアを叩こうとして、白いボタンと注意書きがあるのに気づいた。


 『お困りの方はこちらのボタンをお押しください』


 そのボタンを押そうとして、視線が移動する。


 『おうらみの方はこちらのボタンをお押しください』


 赤いボタン。……あれ? このボタン、いつからあったの?


 確かにさっきまでは見えなかったのに。


 でも、自分は困っているんじゃなく、怨んでいるんだから。


 触れようとして、一瞬、躊躇ためらう。


 何度も繰り返した。何度も触れなかった。感触すらない、あの時の絶望。


 でも。


『君の願いは恐らく、ここでしか叶わないだろう』


 このチラシを渡してくれた男の顔を思い出す。


 うん、やるんだ。ここでやらなきゃ、同じことの繰り返し。


 今度こそ。


 


 ぐっと指を押し込む。


 すると、奇跡が起きた。


 今まで何にも触れられなかった自分の指に、感触。


 ぐいと押し込む圧力。


 そして、遠くでブー、と音がした。


「はい」


 がちゃ、とガラス張りのドアが外側に開き、背の高い、前髪が目にかかって表情がよくわからない男が顔を出した。


「あ、あの」


「依頼に来たのか」


「……はい」


「じゃあ、どうぞ」


 会話が通じている! あの人と同じに!


 ガラスのドアを抜けようとして、そこに映っている姿を見た。


 自分の顔を見るのは三年ぶり。


 セーラー服。自慢だった、黒い長い髪。


 そして、額から、頭から、伝い落ちる血。


 半分潰れかけた顔。


 ……今ならわかる。自分が見えそうな人に声をかけようとして、逃げられた理由が。


 それもこれも、……あのたちが。


 首を振ろうとして、その血がぱたた、と落ちる。


「ああ、それは気にしなくていい」


 慌てて拭こうとした美優に、男は手を振った。


「どうせ見えやしない。見える人間がいたとしてもここには近付かない」


 こくり、と美優は頷いて、男の背を追いかけて、招かれた家の中に入った。



     ◇     ◇     ◇



「どうぞ」


 ソファを勧められ、血まみれの自分が座っていいものかどうか悩んだが、「汚れやしないからどうぞ」と言われて恐る恐る座った。


 テーブルをはさんで向こう側に男が座る。


「まずは、自己紹介だ」


 男は胸ポケットから名刺を取り出して、美優に渡す。


 美優にも触れられる紙でできたそれには、「怨み引き受け・晴屋 晴屋影一」と書いてあった。


「はれ……や……?」


「はれるや」


 男はぼそりと言った。


晴屋はれるや影一えいいち


「……本名ですか?」


「ずっと家に伝わる苗字だ」


 思わず聞き返した美優に、男……影一はぼそりと言って、自分で持ってきたコーヒーを一口飲んだ。


 美優の頭の中に、小さい頃聞いたハレルヤ・コーラスが流れていた。


「恐らくあんたが今考えてるハレルヤとは違う」


 美優の心を読んだのか、それとも想像がついたのか、男……影一はぼそりと言った。


「キリスト教の祝福を意味する言葉ではない。日本語。うらみ、ねたみ、そねみ、つらみ……それらを晴らす、晴屋はれるやだ」


「はれる、や……」


「で?」


 カタン、とカップを置いて、影一は美優を見た。


「誰からここを聞いた。ここは、あんたのような怨霊が簡単に見つけられるような場所じゃないんだが」


「あの、このチラシ」


「……このチラシは何でも屋の方で、怨み屋には関係ないはずなんだが」


 影一はガラスのテーブルに置かれたチラシに視線を送って、美優に答えを聞く。


土門どもんって人に聞いたんです。わたしの望みがここなら叶うかもって」


「土門? もしかしてそれは帝人みかどとかいうふざけた名前の……いや」


 貧乏神にでも出会ったように口を歪めて、影一は呟く。


「俺の裏商売のことを知っていてこれをあんたに触れるようにした人間など、あいつ一人しかないだろうな」


 はあ、と息を吐いて、チラシを片付けろ、と手で示し、美優はこうなってから初めて触れたものを折り畳んでポケットの中に入れた。


ヤツを探して歩いた、わけか」


「はい。三年かけて、土門さんを見つけましたが……」


 美優はあの時のことを思い出した。



 夜道で確かに目が合った男……細い銀縁眼鏡にスマートなスーツを着た男……を追いかけて追いかけて。声をかけ、立ち止まってくれと頼み、ようやく諦めたように立ち止まった土門帝人は、美優を見て露骨に嫌悪感を出した。


「あなた、わたしが見えるんですよね? 見えてるんですよね?」


「一応、除霊師じょれいしだからね。それで? こんな深夜に僕を追いかけて。怨霊としか思えないけど。成仏させてほしいのかい?」


「成仏はしたい。でも、許せないの。あのたちを。復讐を……何としてでも」


「ならば、僕の前から去ってもらうしかないね」


 つれなく帝人は言った。


「僕は除霊師だ。人間に害をなす怨霊を消し去るのが仕事。正者に怨み持つ君のような存在を放置しておくわけにはいかない」


「なんで! わたしが死んだのは、あの娘たちのせいよ! 全部あの娘たちに陥れられたの! なのにあの娘たちは……! なんでわたしが死んで、あの娘たちは生きてるの! あの娘たちに復讐しなきゃ、わたし……消えられない!」


「ならば消えてくれ」


 何か札のようなものを突き出され、それに総毛立つほどの嫌悪感を感じる。


「なんで……なんでわたしばっかり……みんなに……!」


 帝人はしばらく美優を見ていたが、肩を落として一枚の紙を取り出し、右手の人差し指と中指を立ててその紙に指で何か書くように滑らせ、美優に渡した。


「お勧めはしない。成仏したほうがいい。成仏できなくても地縛霊になってもそれでも復讐を遂げたいというのなら、そこへ行くがいい。……もっとも、そうなったとしたら僕とも敵対関係になるけどね」



「タダの親切……ではないな。あいつが俺を紹介するなんて、何の気が向いたやら」


表情を変えず、首だけ竦めた影一は、カップを置いて美優に問いかけてみた。


「あんたが怨みを晴らしたいのは、そんな姿にした連中か?」


 美優は間髪入れず頷いた。


「名前は」


「美優。大原おおはら美優」


「死んだのは?」


「三年前。十七歳の時」


 美優は真剣な顔で影一を見た。

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