新婚旅行にファンタジーはいらない

Agim

第一話 日本海の扉

 日本海というのは、大洋から比べればずっと矮小なものだが、それでも人間基準では、果てしなく広く、途方もなく壮大で、そして考えがたいほどに深い海だ。


「……澄! ……和澄わすみ! ダメだよ、私を置いて行かないで! 私を助けて、なんで自分のこと無視しちゃうの!?」


 俺は多分、ここで死ぬのだろう。けれど、愛する彼女を助けられたのだからそれで充分だ。これから先、彼女が幸せであれと願って……。


 ……そんなわけあるか! 彼女は、これから俺と一緒に幸せになるはずだったんだ! 彼女の隣には俺がいなきゃいけない。

 彼女を幸せにするのは他の誰でもなく、この俺じゃなくちゃいけないんだ!


 帰ってやる、何があっても。生き延びてやる、どんな方法を使ってでも。

 そしてまた、彼女と笑うんだ。こんな悲劇も笑い話にできるくらい、最高の生活を取り戻すんだ……。


 沈む身体と意識の中、俺は彼女との日々を強く思い出す。これだけは、絶対に手放さない。俺の生きる意味だから。




~~~~~~~~~~




 彼女とは、大学の時に知り合った。ほぼ動いていない、何の気力もないサークル。今ではどんな活動をしていたのかすら覚えていない。


 そんな時、仕方がないから参加した新入生歓迎会で、二つ年下の彼女に出会った。


 白椿珊瑚しろつばきさんご。小柄で愛嬌があって、はにかんだ笑顔が花のようにかわいらしい。そんな女性だった。正直、めちゃくちゃタイプだったのだ。


 その日から俺は、珊瑚に猛アタックを仕掛けた。ただ集まっているだけで何の活動もしていない、大嫌いだったサークルにも出席した。そこには彼女がいて、彼女のためだけに俺は頑張った。


「そういえば、俺たちが初めて会ったのはこんな陽気の日だったな。あれから、確か秋ごろまでアタックし続けたんだったか」


「私、和澄のこと最初怖かったんだよ? なんでこの人、こんなに話しかけてくるんだろうって。あの時の私、人と話すのがあんまり得意じゃなかったからなぁ」


「2か月、3か月とアタックしても全然振り向いてくれなかったから、本気で嫌われてるんじゃないかとも思ったよ。思い返してみたら、あの頃が一番精神的に参っていたかもしれない」


 その年の秋、ようやく俺は彼女と付き合うことができた。

 家では本当に鬱のような状態だったが、大学で珊瑚と顔を合わせるたびに、俺の精神が回復していたのをよく覚えている。


 そんな思い出話に花を咲かせるのは、既に就職して二年が経つ俺二ノ瀬和澄にノせわすみと、ついこの間大学を卒業したばかりの二ノ瀬珊瑚だった。


 そう、周囲からは早すぎると言われたが、俺たちは結婚していたのだ。


 別に、婚姻届けを出すタイミングに早いも遅いもありはしない。時期を考えるのは、子どもを作るときだ。俺も珊瑚も、変なところで似た者同士だった。


 結婚式よりも先に新婚旅行へ来ているのは、まさに変人だからだろう。それも、特別豪華なところではない。海外に行くでもなく、日本の観光スポットを巡るでもなく、いつでも行けるような地元の離島。


 ここならば、毎年結婚記念日に来て、今日のことを思い出せる。


 過度な贅沢は望まない。ただ平凡で、二人が幸せならばそれでいい。そんな思いが、俺たちにはあったのだ。


 ……しかしそれが、まさかこんな悲劇を生むとは思ってもいなかった。


 陽春の穏やかな日差しが照らす中、俺たち二人は甲板で談笑していた。


 揺れも小さな、とても安定した巨大なフェリーの上。さして速いわけでもなく、振り返ると船舶の通った後に大きな潮ができている。


 そんな幸せで緩やかな旅路の最中、それは突如として俺たちの平穏を砕き去った。


『……さい! 繰り返します。乗客の皆さんは、お近くの船員の指示に従い、ただちにボートへ乗ってください!』


 鳴り響く警報機の甲高い音が、俺の耳を刺激した。

 そして次には、非常事態を知らせる放送が鳴っている。


 天候は荒れていない。特別波が高いわけでもない。地震が発生したわけでもなければ、ましてファンタジーのような巨大生物がフェリーを襲ったわけでもない。


 しかしながら、船は確実に沈んでいく。どこかに穴が開いているわけでもなく、また貨物が重量基準を突破していたわけでもない。

 急速に沈んでいく船舶は、まったく原因不明のまま避難勧告が出されていた。


 次々とボートに乗せられる乗客。何のことやら分からないまま、皆言われるままに従っていた。


 周囲のパニックは凄まじい。もしかしたら、今この場で死ぬかもしれないのだ。当然だろう。人が上げる大声が、また俺たちを焦らせるのだ。


 かく言う俺たちもまた、船員の指示に従ってボートに乗り込む。ひとまずこのフェリーから脱出すれば大丈夫だと、そう思っていた。


 きっと、動揺していたのだろう。または、周囲のパニック具合に当てられたのだ。


 珊瑚が、足を滑らせた。ボートに上手く乗れず、ひざ下まで海に落ちたのだ。


 瞬間、不自然にも珊瑚の身体が海へ向かって沈み込んだ。まさに、何者かに引きずり込まれるように。


 珊瑚は特別泳げないわけではない。むしろ、夏場には幾度も市民プールに行って楽しみ、海水も好き好んで浴びる女性だ。いくら動揺していようとも、慣れた身体は自然と浮き上がり彼女を助けるはず。そう、思っていた。


 何ということか、船が沈むのと同じスピードで、珊瑚の身体は海に吸い込まれていくのだ。ボートは無事なのに、ひざ下が入った程度の珊瑚は引きずり込まれる。そんな異常現象に畏怖を抱いた。


 そしてそれと同時に、俺は動き出していた。どうしても、動き出さずにはいられなかった。決死の覚悟で海に飛び込んだのだ。


 どうしてかって? それが、男として一番カッコいいからだ。そして、俺が珊瑚を愛しているからだ!


 潜水するのは驚くほど速く、そして珊瑚を抱えたまま上昇するのはナメクジの移動よりもなお遅かった。普段の俺なら、もう水面まで泳ぎ切っているはずなのに。


 しかし、意識が飛びそうなほど呼吸を止めつつも、俺は珊瑚をボートに乗せることが出来た。船員もパニックになりつつあったが、無事に戻ってきてホッとした様子だ。


 ……その安心感が故に、俺は気付くことが出来なかった。次は自分の番だということに。


 珊瑚を抱えていた時よりも遥かに強力な力が、俺の全身に降りかかる。もう、泳いでどうこうできる問題ではない。恐らく、エンジンでも付けていなければ水面には戻れないだろう。


 当然、俺にはそんなもの付いてはいない。


 ボートの上から、今度は珊瑚が海に飛び込もうとして、船員に止められているのが見えた。何か言っているが、呼吸の止まった俺にはもう、それを聞き取ることなど出来はしなかった。


 途切れていく意識の中、彼女への想いだけを胸に抱いて、俺は日本海の最も深き場所へ身を落とした。

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