第2話

 私の上京の日、お父さんは一緒に来なかった。もう相澤さんには挨拶したから、とか言って。その代わりおじいちゃんのハコスカで埼玉県まで行った。私の荷物はそんなに多くない。学生生活を送るために必要な──つまり絵の関係の色々と、服と、本が何冊か。それだけ。だいたい、居候先にそんな大量の私物を持ち込むわけにはいかないでしょ。

 辿り着いた場所は、比較的東京寄りの埼玉県にある大きなマンション。最寄り駅までは徒歩5分。便利。乗り換えアプリで検索してみたら、私が通うことになる都内の大学までは、乗り換えが一度あるけど30分で着くらしい。超便利! 新宿にも渋谷にも池袋にも出られるし──横浜中華街はちょっと分からない。

王城おうじょうさん、こんにちはー」

 私とおじいちゃんを迎えてくれたのは、背の高い女の人だった。背が高くて髪が長い。艶々で真っ直ぐの黒髪。赤い縁の眼鏡をかけていて、ピタッとした黒いTシャツ、それに細身のデニムを履いている。脚が長い。めちゃくちゃ長い。腰の高さが尋常じゃない。モデルさんみたい。

「こんにちは、ユキさん」

「お久しぶりです! あ、そちらが……?」

「は、はじめまして!」

 思っていた以上に緊張してたみたいで、ものすごくつっかえてしまった。

「おう……王城オワリです。よろしくお願いします」

「ユキです、よろしくね。まあ、入って入って」

 おじいちゃんとふたり、ユキさんに先導されるようにして部屋の中に入った。ユキさん、弁護士さんの奥さんなのかな?

「荷物はこっち……ここがオワリちゃんの部屋になるから」

 と、長い廊下の途中にある部屋の扉を開けながらユキさんが言う。広い。いや田舎の実家の自室よりは広くないけど(無駄に十二畳ぐらいある部屋に住んでた)、居候の私が暮らすには十分すぎるほどに広い部屋だ。

「ベッド派かお布団派か分からないからまだ何も入れてないんだ。明日みんなで買い出し行くから、必要なものがあったら言ってね」

「あっ、ハッ、ハイ……」

 みんなで……買い出し……ということは、あれ?

 抱えてきた荷物を自室予定地に置き、通されたリビングにもやはり何もなかった。というか、引っ越し直後で荷解きの途中、と言った方が正確だろうか。

「すみませんね、お引っ越ししたばかりだというのに」

「ぜーんぜん! ただすさんのお嬢さんなら大歓迎ですよ!」

 手土産を渡すおじいちゃんに、ユキさんはキラキラの笑顔で応じる。すっごい可愛い顔で笑う人だ。素敵だなぁ。私はもうこの一瞬ですっかりユキさんのファンになってしまった。

 と、そこに。

「ユキちゃん! イソーローの人来た!?」

 今日は土曜日。今は午後……三時ぐらい? 玄関の扉を勢い良く開けて、男の子が飛び込んできた。ユキさん同様背の高い男の子だ。私と同じぐらいある。

「息子です」

 ユキさんが言った。

美晴みはる、手洗いうがい!」

「はーい!」

「みはる、くん」

「そう、6年生なんですけど……元気が有り余ってて、ほんとに」

 ユキさんが形の良い眉を八の字にして笑う。美晴くんのことを本当に可愛いと思っている顔だ。すごく仲の良い母親と息子なんだろうなと思う。羨ましいな、とも。

「相澤美晴です! よろしくお願いします!」

 手洗いうがいを済ませてリビングに飛び込んできた美晴くんは、腹から声を出してそう挨拶した。王城です、とおじいちゃんが頭を下げ、私も慌てて、

「王城……オワリです」

「オワリちゃん! LINE交換して!」

 まだ春先だというのに綺麗に日焼けした美晴くんは、きっと何かのスポーツをやっているのだろう。ポケットから取り出したスマホは画面が割れている。

「ユキちゃん、オワリちゃん来たから今日焼肉にしようよ!」

「あんたそう言って昨日も焼肉って……オワリちゃん来るから元気つけるとか言って……」

 何がなんだか分からないが歓迎されているようだ。嬉しい。

りょうさんも一緒にいかがですか? 焼肉」

 良、とはおじいちゃんの名前だ。だがおじいちゃんはゆるゆると首を横に振り、

「実はまだ仕事を残していましてねぇ。孫のことだけ、よろしくお願いいたします」

「そうですか……でも、ぜひまた遊びに来てくださいね」

 仕事。おじいちゃんの仕事。おじいちゃんの仕事ってなんだっけ?

 そういえば私、お父さんだけじゃなくおじいちゃんの仕事も良く知らないんだよなぁ。なんて思っている私の背中を軽く叩いたおじいちゃんが、それじゃあな、たまには連絡しなさい、と言い残して去って行った。


 弁護士の相澤鳴海さんが仕事から帰宅するまでの数時間、私とユキさんと美晴くんはお喋りをしながら一緒に荷解きをした。リビングに置く大きなソファは私が組み立てた。オワリちゃんって器用なんだね、と美晴くんが感心したように言う。

「ユキちゃんは全然下手なんだよー」

 お母さんじゃなくてユキちゃんって呼んでるのか、と不意に気付いた。いやまあ、人には人の家の事情があるから、初対面の私が踏み込んでも良いようなアレではないのだろうけど。それにふたりはすごく仲良しに見えるし。


 やがて。相澤鳴海さんが帰宅した。

 正直とても緊張した。お父さんがどういう交渉を経てこの──どこからどう見ても完璧に新築で新居のマンションに私を居候させるという結論を引き出したのか知らないけど、相澤さん、いやユキさんも美晴くんも相澤さんだから鳴海さんと呼ぶべきなのか、ともあれその弁護士先生が私のことを嫌だと思ったらどうしよう。こんな小娘を家に置いておくことはできないとか言われたら──ああ、良くない予感が頭の中をぐるぐる回る。そんなこと起きるはずないのに。ないのに。

「たっだいまぁ」

「鳴海さ〜ん!」

 美晴くんが廊下を駆けて玄関に向かう。お父さんのことも名前で呼んでるんだ。ちょっと、不思議。

「おかえり! あのねあのね!」

「はいはい、はいはい、知ってるから」

 低くて優しい声が聞こえた。弁護士さん。この声で、困っている人の相談に乗ったりするのかな。さすがだな。うちのお父さんのもそもそした濁声とは全然違う。

「おかえりなさい」

 ホットプレートの準備をしながらユキさんが微笑む。リビングと廊下を隔てる扉が開いた。まずは美晴くんが飛び込んでくる。それから、相澤鳴海、さん。


 えっ


 冗談でしょ何これどういうことなの嘘でしょ嘘だ


 !!


 最後の「嘘」を私は声に出してしまっていたらしい。

 ユキさんが長いまつ毛を瞬かせ、美晴くんは小首を傾げている。

 ああ。やってしまった。

 私はきっとこの家から追い出される。


 でも。

 でもだって。


 無視できないよ、相澤鳴海さんの背中に黄昏時に浮かび上がる影のような、水死体が上がった海に揺れるような、礫死体が残る道に香るような、そんな、どこからどう見ても人間じゃないものが張り付いていたら。


 両手を胸の前で合わせる。無我夢中だった。

 こんなことばっかしてるからお母さんは出て行っちゃったんだ。

 うん。そう。分かってる。

 でもさ、うちってそういう家なんだもん。


「終わり!!」


 叫ぶ。相澤鳴海さんの背中から影が離れていくのを確認した途端、全身から力が抜ける。座り込む。もうだめだ。いきなりこんなことして、絶対キモいって思われた。

 泣きたい。っていうかちょっと泣いてた。

 それなのに、手にしていた鞄を床に落とすなりつかつかと近付いてきた相澤鳴海さんは私の肩をそっと抱いて、

「大丈夫?」

「え……」

 それはこっちの台詞です……あんな不気味なモノどこで背負ってきたんですか……。

「鳴海さん、オワリちゃんは」

「オワリちゃん、しっかりして!」

 ユキさんと美晴くんまで私を励ましてくれる。優しい。ううん、優しいだけじゃない。

「知って……るんですか?」

 震える声で尋ねた。

 私がどういう人間なのかを、あなたたちは。

 相澤鳴海さんは一瞬の躊躇もなく、首を縦に振った。

「ええ。糺さんに、あなたのことを任されています」

「お父さんに……」

「俺は……ああ、自己紹介。相澤鳴海と申します。弁護士です」

 へたり込んだ私を立ち上がらせながら、鳴海さんは微笑んだ。

「守秘義務を守ります。だから、オワリさん、あなたは何も心配しなくて大丈夫」

 王城オワリはこの世のものではないものを終わらせる。

 こんな最悪な秘密を持った18歳を、相澤家の3人は、明るく受け入れてくれた。

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