第2話 海の女

 目も眩むような高さから平然と飛び込んだマリーシャ――

 バシャァン、という派手な音とともに着水した彼女は、しばらく水面に浮かび上がってこなかった。

「……完璧だなピルフェクティ

 彼女の行く末が気になって橋の裂け目から下を覗き込んでみたものの、男は呆れ顔でため息をついた。

 そら見ろ、言わんこっちゃない――彼が思っていたのはそれだけだった。

 そして、そうこうしている間にも、橋のあちこちから何かが軋むような音が聞こえる。

「……いけねぇ」

 自らの身に危険を感じた彼は、彼女のことを諦めて立ち去ろうとした。

 しかし、まさにその時――

「誰かぁー! 聞こえますかぁー?」

 背後から聞こえた叫び声に、男が再び水面を見やると――

 

「お前ぇーっ、生きてたのかーっ?」

 彼が精一杯大声で叫ぶと、彼女は力強く叫びかえしてきた。

「アタシは大丈夫っ! それよりこの子、息してないのぉーっ!」

 ぐったりしている男の子とは対照的に苦しそうな顔一つ見せない彼女に、彼は驚きを隠せない。

「とっ、とにかく岸へ向かって全力で泳げ!」

ええアイ、分かったわ!」

 彼女は元気よく返事をすると、男の子を担いで勢いよく泳ぎ出した。人間離れした速さで水中を突き進むその姿は、まるで魚のよう。

 あの時、彼女には自分がという自信があった。

 それもそのはず――

「コイツ、人魚マルビアか……!」

 彼女の足がに変わっているのを見て、彼はようやく彼女がヒューブリディア――であることに気づいた。

 マリーシャはかつて北の海にその名を轟かせた「海の民レーディー・リス・マーラ」の末裔で、人魚の家系だった。北部ノルディアでは人口の過半数を半人半獣ヒュブリーディの先住民が占めており、彼女のように異形の生物へ変化する能力を持つものも少なくない。

 そもそも漁師ビズィーフの子である彼女は泳ぎも得意で、人魚になっているときは水中でも呼吸できるので溺れる心配はなかった。


 マリーシャは全速力で岸まで泳いで行き、男の子をその場に寝かせると、その場で人工呼吸をした。

 しばらくしてその子は激しく咳き込むと、再び目を醒ました。幸い、一命をとりとめたようだ。

「よかった……」

 マリーシャがホッと一息つくと、

「ここは……、どこ……?」

 まるでうわごとのように、男の子は青ざめた顔で言った。

「もう大丈夫よ。さっきは大変だったわね」

 マリーシャは優しく声をかけた。

「ありがとう……、お姉ちゃん……」

 まだ意識がはっきりしないのか、彼はゆっくりとした口調でお礼を言った。

「どういたしまして」

 マリーシャは男の子の手をとってニッコリ微笑んだ。

 しかし――

お父さんとヴァウ・イアお母さんマー……が……」

 男の子は苦しそうにそんな声を漏らして、もう片方の手で海の方を指さした。

 彼女はその子の指さす先、先ほど崩れた橋の方を見つめた。

 ――あそこにこの子の親御さんが……。

 本来そこには美しい青い海と、そこに浮かぶ立派な橋があるはずだった。しかし、その海は今や土砂でどろどろに濁り、波の音に混じって時折人々の叫び声すら聞こえる。

 ――今もあんなにたくさんの人が苦しんでる。

 刻一刻と悪化する事態に、彼女にはためらっている暇などないように思われた。

 ただ目の前の惨状に翻弄されていただけだったのか、彼女は愚かなまでに純粋だった。

「アタシが必ず助けてあげる。だから安心して」

 気丈にもそんな台詞を吐いて、彼女は立ち上がった。そして、その場に居合わせた人に男の子の介抱を任せると、足早に海へと戻っていった。

 全ての混沌と狂気が渦巻く海へ。


 平和の橋崩落から、実に一時間が経過した。橋の両岸には逃げてきた乗客や駆け付けた軍隊、そしてそれを取り巻く野次馬たちでごった返していた。

 この間、マリーシャは何度も海と陸地を行ったり来たりして、溺れた人たちの救出活動に当たった。

 この日、彼女の無謀な正義感によって助けられた者たちは数知れない。濡れた髪を振り乱し、服がびしょ濡れになるのも構わず人を助けようとする彼女を見て、彼らは口々に、

「ありがとね、人魚マルビアのお姉ちゃん!」

「まさに『君は女神だティア・ティア』ってこった」

「あの伝説は本当だったんだな……」

 などと、彼女を港町ハルホルトに伝わる人魚伝説になぞらえて、その献身ぶりを褒めたたえた。

 しかし、その一方で――

はともかく、北部ノルディアケダモノどもゾリアーフを助けてどうするんだ」

「わざわざ助けることもない。あんな出来損ないども、魚の餌にしちまえばいいさ」

 野次馬の南部人たちスドリアノースの中には、どんな人種も分け隔てなく助ける彼女をせせら笑うものもいた。

 南部の愛国主義者たちは北部ノルディア半人半獣ヒュブリーディと見なし、獣人や巨人、人魚など全てをひっくるめて「ケダモノゾーリア」という蔑称で呼んでいた。

 マリーシャはそんな心無い言葉を聞くたび心を痛めた。

「……助けられるものを助けようとしないなんて、一番恥ずべきことよ」

 思うところあって、彼女はそんなことを呟いた。理不尽な死、というものが彼女にはどうしても許せなかったのだ。

 モヤモヤして言い返そうか迷っていると、そこに誰かがやってきて、彼らの会話に口を挟んだ。

「まぁ、家畜ビスターリア同士仲良くやってくれてるんだからいいじゃねえか」

 先ほどの軍人の男だった。

 大量の野次馬たちをかき分けてやってきた彼は、

「ちょっと借りてくぞ」

 そう言って半ば強引にマリーシャを人混みから離れた所へ連れて行った。

 ――何だろう。

 彼に導かれるままに、彼女は岸から少し離れた町の方へやってきた。港沿いには三角屋根の商館が立ち並んでいて、彼はその一つの前で立ち止まった。

 彼は妙にかしこまった様子でマリーシャの正面に立つと、

「まずは、今回の嬢ちゃんの獅子奮迅の働きぶりには感謝する。よくやってくれた」

 それはただの皮肉とも、ひねくれた感謝の言葉ともつかぬような言葉だった。

「……あっ、ありがとうございますポーニン・ターク!」

 彼女は単純にお世辞と受け取ってお礼を言った。

 彼は鳶色の目でちらりと一瞥すると、彼女に小声で耳打ちした。

「今のは褒めたんじゃないぞ」

「え?」

「『羊毛を売りに行って、自分の髪の毛を刈られて戻ってくる』」

「……何ですか、それは」

 まるで分からないというふうに首をかしげる彼女に、

「学のない平民マーサのお前にゃ分からんか」

 と諦めたように言い放った。さすがに彼女もムッとして、

「失礼ね、アタシだって――」

「とにかくだな、あんなことをして、自分が巻き込まれたらどうするつもりだったんだ? 要救護者が増えるだけじゃないか」

 これには彼女も言い返せない。

「……すみません」

「積極的に自らの身を危険にさらしたのは愚かとしか言いようがない」

 彼はひとしきり説教をすると、濡れている彼女に無言で着替えの服を差し出した。

「……いいんですか?」

「受け取れよ。これから長いし」

「どういうことですか?」

 彼らがそんなことを話していると――

 街角から彼と同じ深緑色の軍服を着た男たちがこちらへやって来るのが見えて、彼は徐に懐中時計を取り出した。

「おっと、もうそろそろ時間だ。後はコイツらに任せるから、あばよチャウ

 意味が分からず困惑していると、軍人たちの一人、片眼鏡ムノークルをかけた銀髪の男が話しかけてきた。

「マリーシャ、と言ったか」

 その男は詰問するように険しい表情で一言そう尋ねた。

ええアイ

「本名は?」

アタシはエシャルマーリア・フェルヴァンよ」

 彼はふん、と鼻を鳴らすと、鋭い視線で彼女を観察し、

「貴様は北部ノルディア訛りがあるな」

 と前置きしてから、

「マーリア・フェルヴァン、

 突然そんなことを言い出した。

「そんな……っ! アタシは何もしてないわ!」

 彼女は憤ったが、時すでに遅し。あっという間に軍人たちに取り囲まれて、文字通り背中を壁に押しつける形となった。

「怪しいものは片っ端から捕まえろ、とのお達しだ。悪く思うなよ」

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