第5話 黒猫は怒って爪を立てる

 チュンチュンと小鳥の囀りが聞こえ、目を開けるとそこは見慣れない天井が広がっていた。


 横になっているベッドもふかふかしていていつも使っているものとは違っていた。


 頬にヒヤリとした。顔を動かすと頬に氷嚢が当てられていた。

 教師に叩かれて腫れた頬を冷やしてくれていたようだ。


 額には濡れたタオルが乗せられていてそれも一緒にずり落ちた。


 ぼんやりとした視界に誰かが映り込む。


「おはよう、ミスティア。具合はどう?」


 視界に映ったのは心配そうにこちらの様子を窺うキースの顔だ。


「だいぶ熱も下がったね」


 ミスティアの額に触れるキースの手は優しい。

 タオルはもう大丈夫そうだね、と言って額に乗せていたタオルを回収する。


「ここは……?」


 ゆっくり身体を起こして辺りを見渡す。

 全く見覚えのない部屋にミスティアは困惑する。


「僕の家だよ。昨日のことは覚えてる?」


 キースの言葉で記憶を遡る。

 学院から抜け出して街を彷徨い、公園で男達に絡まれた。

 そこに現れたのがキースだ。


 発熱して倒れたミスティアを寮ではなく自宅に連れて帰り、介抱してくれたらしい。


 どうやら一晩、眠り続けたらしい。


 庭へと続く大きなガラスの扉からは朝日が差し込んでいる。


「向こうには連絡してあるから」


 その言葉を素直に感謝できない自分がいた。


 帰れば間違いなく罰を受けることになる。

 罰を受けるのは学院を抜け出した時点で決まっているのだが、昨日は深く考えていなかった。


「僕の父は学院の管理職と繋がりがあるんだ。甘えて大目に見てもらえるように頼んだから、安心して。今日と明日は休みだから、ここにいると良いよ。明日の夕方に寮まで送る」


 その言葉にミスティアは少しだけ安堵する。

 グラスに注がれた水を口に含めば乾いた喉が潤った。


「ねぇ、ミスティア」


 声を潜めてキースが声を発する。

 厳しい視線がミスティアに真っすぐ向けられた。


「君、もしかして……誰かに虐められてるの?」


 その言葉にミスティアは眉間に深いしわを刻み、手元の毛布をきつく握りしめた。

 当たらずとも遠からず、そんな言葉がしっくりくる。


 だが、彼の言葉が的を得ていようが外していようが同じことだ。



「着替えをさせたメイドが言っていたよ。君、全身痣だらけだって。治りかけのものも、新しいものも、沢山あって数えるのが忍びないって」


 そう言われてミスティアは自分が着ている服もここで借りたものだと気付く。

 ミスティアは痣だらけの身体を見られたと思うと急に恥ずかしくなり、自分の身体を抱き締めるように小さくなる。


「もしかして、学院を抜け出した理由と関係があるの?」


 キースが身を乗り出してミスティアに問い掛けた。


 だとしたら、何だって言うのだろうか。


 どうせ状況は変わらない。ミスティアや他の生徒達の境遇が改善されるわけでも、苦しみが和らぐわけでもない。


 家族や大切な人達を人質に取られている私達と、何の不自由も、制約もなく生きているあんた達に私達の苦悩が分かるわけないじゃない。

 

「何で私に構うの? 放っておけばいいじゃない」

「ミスティア……」

「君達に私達の気持ちなんて分かるわけない」


 ミスティアは突き放すように言う。


「話してくれなきゃ分からないよ」


 同情的な視線を向けるキースを見たらミスティアの溜め込んでいた怒りが爆発した。


「話したって意味ない! 話したって分かるわけない! 君はいいよね、私達が苦しんでる間も私達を蔑んでのうのうと学生生活を送ってる! 私達が何で編入生として学院に来たか知ってる⁉」


 悲痛な面持ちで怒鳴り声を上げるミスティアにキースはたじろぐ。


「それは……国に特別な才能を認められたからじゃ……」


 キースはそう聞いていたし、そう思っていた。

 ミスティアも特別な知識と技術で国に貢献した功労者だと思っていた。


「それは編入生の中でもほんの一部の話。ほとんどの生徒は国から国を脅かす危険があると勝手に判断された者の集まりだよ」


 ミスティアの言葉にキースは驚愕の表情を浮かべている。


「私達が受けている補習授業はね、補習授業なんかじゃない。国が私達を監視して調教し、人権を無視して、いずれは国の都合の良いように使える人材を育てるための特別訓練なんだよ。知らなかったでしょ? 君達は編入生だから成績不良者が多いって思ってたんじゃない?」


 ミスティアはナイトガウンの裾を捲り、脚を晒す。

 白い太腿から脛にかけてあちこちに青や紫の痣が散っていた。


「まだあるわよ。腕にも背中にも腹部にも胸にもね」


 その数の多さにキースは言葉を失った。


「痣も、傷も全部あいつらに付けられたわ! シャマルは身体が弱いのに毒の耐性訓練で明らかに中毒症状が出ているののにも関わらず更に毒の服用を迫られてる。他の子だって苦しんでる! 無理矢理こんな所に連れて来られて、家族から引き離されて、自由もなくて、成績不良の問題児のレッテル貼られて……この学院にいる意味って何?」


 傷も痣も毎日少しずつ増えていく。あちこちが痛くて仕方なくて、足の爪が割れた日には靴を履くことも苦痛なのにそれでも訓練には強制的に参加させられる。


 そうしないと大切な人達の身が危険に晒されることになる。

 身体的な負担と精神的な負担が重くのしかかり、頭がおかしくなりそうだ。


 視界がぼんやりと歪み、鼻の先がツンとしたと思ったら温かいものが頬を伝う。


「ここに来てからあちこちが痛い……苦しんでいる他の人を見るのも辛くて仕方ない……でも逃げ出すことも出来ない。私達がこんな目に遭ってるのに、君達は光の下で楽しそうに生活してる。何もかもが気に入らない」


 抱えていた感情を吐き出し、一緒にボロボロと涙が零れて手元を濡らした。


「これも……絶対に誰にも話したいけなかったのにっ……私も、私の大切な人達も……殺されちゃう」


 登校初日に言われた一言はミスティアにとってとても重く、理不尽な言葉だった。


『この話が外に漏れるようなことがあれば君も、家族も命はない』


 誰にも言ってはいけない編入生達の秘密。それを口にしてしまった。


 ミスティアは悲しみと恐怖で身体がガタガタと震え出す。


 すると突然、ベッドが深く沈み、大きく軋んだ。

 身体が少しだけ傾いて、キースに抱き寄せられた。


「……え……」


 いきなりのことでミスティアは言葉を紡ぐことが出来なかった。

 抵抗する間もなく、抱きしめられてキースの胸の中に閉じ込められた。


「……ごめん、ミスティア……ごめん」


 耳元で謝罪を繰り返すキースの声は震えていて、鼻を啜る音が涙ぐんでいることを教えてくれた。


「……何で君がなくのさ」


 キースの涙声につられてミスティアの零れる涙も多くなる。


 縋る何かが欲しくてキースの背中に腕を回せば、ミスティアを抱き締めるキースの腕にも力がこもる。


 久しぶり感じた誰かの温もりは心地よくて、ほっとする。

 

 キースはミスティアの涙が止まるまで細い身体を抱き締めていた。



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