43. どんぶりを見つめて。

 お福は目の前にどんぶりが置かれた途端、饒舌になった。皆が黙り込んだことに気付いていて、気まずさを感じているのだろうか。


「わあ、味噌ラーメンのにんにくの匂い、だーいすき! きよのちゃんが教えてくれて良かった!」


 わたしの膝の上に乗ったまま変化して、赤い浴衣を身に纏った少女の姿に戻る。変化とともに立ち上る煙は、吸い込んでも咳が出るどころか、甘いわたあめのような香りがした。


 彼女が麺を啜る音ばかりが聞こえる店内。もし今客が訪れたとしても、異様な空気感に回れ右をするだろう。


 麺を啜る音に加えて、押し殺したような弱々しい声が聞こえてきた。初めはお福の声かと思ったが、彼女は驚いたように右のほうを見ている。彼女の視線を辿って右を見ると。

 ……黒曜が泣いていた。

 ぎゅっと唇を噛んで涙を堪えているが、その切れ長の目からは滲むような涙がぽろぽろ落ちている。握り締めた拳が震えている。


 呆気に取られるわたしたちに構わず、彼は無理やりお福と肩を組んだ。


「俺だってお前みたいに『行くな』って引き止めたい。でもそれは自分勝手な願いすぎて、大人になっちまった俺には言えねえんだ」


 ほら、伸びるぜ。そう言って彼はわたしたちにラーメンを食べるよう促した。


「俺たちは、きよのが帰るためにここで働いていたことを知ってる。それと同時に、行って欲しくないと言ったら帰らない選択をする人だってことも知ってる。その上で行って欲しくないと伝えるのは、ちょっとずるくねえか」


 ラーメンを作っていた紫水が、カウンター席にやってきて言う。


「僕はきよのちゃんが本来の世界で生きられるように、あすみちゃんを“陽の側”に帰した。正直、その代償は大きかったよ。自由に変化出来ないなんて狐族としてのアイデンティティを失った気持ちだった。それでも僕は満たされていたんだ。大切な人のために行動出来たからね」


 一本ずつ麺を口に運んでいたお福のほうを見て、続ける。


「きよのちゃんがお福の言葉をきっかけに、“月の側”に残ることになったとする。そして一度でも、きよのちゃんが故郷を思い出して泣いているのを見てしまったとする。……お福は、耐えられる?」

「……耐えられない、と思う。でも笑顔でばいばーいって送り出すのは無理だよ。紫水くんたちは大人だから出来るのかもしれないけど」

「俺だって出来ない。現に今、笑顔じゃねえだろ」


 黒曜の頬には涙の跡が残り、目が赤く充血している。機嫌を損ねたような物言いだが、ただ涙を隠したいだけだと皆が分かっている。


「僕だって全然出来ないよ」


 そう言った紫水の声が弱々しく、彼の顔を見た皆がはっと息を呑んだ。


 紫水は優しく微笑んでいた。けれども瞳には哀しみか怒りか、判別のつかない激情が灯り、三日月型にした唇も左右非対称だ。

 笑っているはずなのに、ぞくりとした。


「お前、顔怖えよ……」

「え、あ、ごめん。怒ってるつもりはないんだ。少しでも気を抜いたら涙が止まらなくなりそうで」

「お福がわがまま言ったから怒ったのかと思った」

「いやいや違うよ⁉︎ 自分の気持ちを正直に伝えるのは、すごく大事なことだよ。変に強がっても後悔が残る。僕が言いたかったのはね、自分の素直な気持ちを伝えるときは、相手の気持ちもよく考えてねってこと」


 お福はどんぶりを持ち上げて、ぐびぐびと味噌ラーメンのスープを飲んだ。普段彼女はここまで粗暴なことはしない。

 どんぶりを音を立てて置くと、わたしのほうに向き直り、笑顔で両手を取る。心に渦巻く感情を彼女なりに上手く濾過して出来たような笑顔に、むしろ心が痛む。


「きよのちゃん。お福、きよのちゃんと会えないのは悲しいの。でもね、きよのちゃんが淋しそうにしてるのが一番悲しいと思う。帰る日までたくさん遊んでもらうからね」


 うん。そう答えながら、わたしの目からは涙が零れそうだった。

 しかしわたしがここで泣いては、皆が堪えた涙が無駄になってしまう。ぐっと歯を食いしばって耐えると、鼻の奥がツンと痛んだ。

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